「春日井先生はしばらく寝てるから、あなたは教室に戻りなさい」
ぼんやりと戻ってきた意識の端っこに、自分の名前を口にする声がして意識がそっちに向く。
まだ視界が開ききらないのではっきりわからないけれど、どうやら僕はどこかで寝かされているらしい。
(ここは……保健室?)
徐々に戻ってきた感覚とはっきりしてきた意識を開いていくと、真横のカーテンが開く音がした。
顔だけを横に向けると、保健室の先生が僕の様子を窺っている。
「あ、お目覚めになりました? どうです、気分は」
「えっと……僕、音楽室で、倒れて……?」
ようやく開いて発した声はガラガラでとても言葉を模っていない。保健室の先生も眉をあげて驚いたような顔をし、それから苦笑する。
「そうよぉ。春日井先生、授業中に倒れちゃったから、大騒ぎだったのよ」
「……すみません」
「彼が抱えて運んでくれたんですって。お礼言わなきゃ」
そう言って彼女から手招きされて呼び寄せられ顔を覗かせたのは、むすっとした表情の浅間だった。
「……浅間君」
「周りの生徒がパニックになってる中、彼が冷静に素早く先生を抱えて連れてきてくれたの」
「そうなんだ……ありがとう、浅間君」
あの冬の夕暮れ以来顔を合わせていなかった浅間は、相変わらず派手な見た目をしているものの、無邪気さは感じられず、クールな部分が際立っている。
身長差もあって威圧感さえ覚えながらも僕はお礼を言ったけれど、浅間は無言でうなずくように頭を下げ、そのままふいっとどこかへ行ってしまった。
「あら、照れてるのかしらね。それよりも春日井先生、具合が悪いなら無理して出勤しちゃいけませんよ。まだ受験学年も登校している時季なんですから、うつしたらどうするんです!」
至極もっともな正論を言われ、子どものようにうな垂れて「すみません」という僕に、保健室の先生は続けざまに早退するように勧告してきて、そして帰りがてら病院にも行くように念を押す。
勧告通り僕は副校長に早退を申請し、帰り支度をして学校を後にすることにした。
(何も言わなかったし、目も合わせてくれなかったな……)
帰りの電車の中、熱が上がってきたのかぼうっとしてきた思考の端っこでそんなことを考えていたら、じんわりと視界が潤んでしまった。
自分から彼を突き放したくせに、まるで自分が被害者のような思考回路をしてしまうことに呆れる。彼にあんな態度を取られても仕方ないようなことを僕はしてしまったのに、いまさら何を弁解しようと言うのだろうか。
随分と暗い目をしていた。涼しげな雰囲気を通り越し、近寄りがたいほどの頑なさが彼の放つ空気ににじんでいたようで、胸が痛い。
「……僕のせいなんだろうな、きっと」
初めての恋をあんなふうに拒まれてしまったら、そしてその相手に今更話しかけられても、どう反応していいかわからないのは当然だろう。
それでも彼は僕を気遣って、真っ先に保健室に運んでくれた。その対応の素早さとその発端にある感情が僕への想いの名残であるのだとしたら、僕は、どう彼に声をかければよかったんだろう。
もうあのレッスンをしていた頃のように、じゃれてくる姿は見せてくれないだろうけれど、それでも、もう少しだけ彼と言葉を交わしたい気持ちもある。
「そんなの、勝手すぎるか……」
こちらの都合で拒んだり求めたりするのは、あまりに大人の勝手が過ぎるだろう。
浅間からの想いを受け入れたり、受け止めたりしてあげられないのなら、無駄に期待をさせたり、逆に傷つけるばかりになってしまうだろうから……もう、彼にこれ以上関わらない方がいい。
僕は教師で、彼は生徒である。その大前提をこれ以上揺るがすようなことはしてはいけない。
三年生は芸術の授業がないから、あと数回顔を合わせるのをやり過ごせばいいだけだ。どうにかなるだろう……いや、どうにかしなくてはいけない。
「もう補習はごめんだからな、浅間君」
誰に言うでもなく冬晴れの空を見上げながら僕は呟き、ふらつく足取りで病院へと向かうことにした。
その週は結局風邪が治りきらなくてずっと欠勤してしまい、そのまま浅間に改めてお礼を言うタイミングを逸してしまう。
年度末の提出物チェックだとか学年末テストの制作だとか成績表作成だとかしている内に、今年度最後の授業日を迎えていた。
「えー、君たちは来年受験学年だから、芸術を履修することはないでしょう。ですから、こうしてクラシック音楽に触れ合うこともこの先ほとんどないかもしれません」
2年生である浅間のクラスの授業の終盤、僕は受験学年に進学するクラスに毎年話している言葉を述べる。
生徒たちは頬杖を突きながら、特に神妙になることもなくぼんやりと僕の話を聞いていて、浅間は相変わらず僕の方を見ることなく窓の外を眺めている。
もう一度だけ、“こずえ先生!”と、あの見た目とギャップのある無邪気さで彼に呼んで欲しかったけれど、それは私的なワガママだろう。
「ですが、ここで学んだことは、いずれどこかで耳にする音楽を楽しむ基礎になるでしょう。どうぞ、音楽のある人生を楽しんでください」
お決まりの言葉で授業を終え、チャイムが鳴った教室から生徒たちが三々五々に散っていく。
「こずえちゃん、またねー」
「もう倒れないようにねー」
「ああ、はいはい」
今生の別れではないので、生徒は軽く手を振る程度の挨拶をしてくる。いつもはただうなずく程度なんだけれど、今日はそれに何となくぎこちなく手を振り返してみたら、手を振ってきていた生徒たちがはしゃいだように笑う。
「こずえちゃん、かわいいー」
「ファンサしてくれたぁ」
以前なら、そんな言われように眉をしかめただろうに、いまはその言葉をむけられても不快感を|抱《いだ》いたり、ただし接し方を教えなくてはと|躍起《やっき》になったりしない。苦笑はしつつも、受け流すことができている。
ほんの少しの変化にすぎないはずなのに、生徒との距離は半年前と明らかに違っている。丸くなった、なんて言い方が合っているのかはわからないけれど、取り巻く空気が変わってきた気がした。
自分の変化を自覚してわずかながらに驚いていると、「先生」と背後から声をかけられた。
振り返ると、音楽室にひとり残っていた浅間が僕の方を見て佇んでいた。向けられている眼差しは、涼しげな雰囲気をまとって静かだ。
あの夕暮れ以来、随分と久々に真正面から向かい合う彼は、あの日よりも大人びた空気を放っていた。
一瞬、どういう顔をしていいかわからなかったが、僕は努めて何でもない風をよそって、「どうした?」と訊ね返す。
「もう、風邪は治ったの?」
いつの話をしているのやら、という話題に苦笑してうなずき、「お陰様で」と答えると、浅間はホッとしたように小さく笑う。それは見たことがない影のある表情だった。
「あの時はありがとう。ちゃんとお礼が言えてなくて、ごめん」
僕が謝ると「いや、別に……」と、浅間は口ごもり、まだ何か言いたげにしている。
誰もいない教室に二人きり。改まった様子と状況から、彼が何を言わんとしているかを察し、僕は複雑な胸中で彼と向かい合う。
こちらを窺うような含みのある眼差しに、僕はあえて気づいていないふりをしつつも、本心はそれに向き合い受け止めたくもあるのだけれど……やはり、いまはそれを許されない。
たとえ、僕が彼を好きだとしても。
だから僕は、胸が張り裂けそうに辛くても、本心に沿わない言葉を彼に返すしかないのだ。
「こずえ先生。俺さ、やっぱり、先生が……」
「――ダメだよ。僕は教師で、君は生徒なんだから」
常套句とも言える僕の返事に、浅間は痛みを堪えるように顔をゆがめつつも、無理矢理に微笑もうと口角をあげる。その痛々しい笑顔に、僕の胸も大きく音を立ててきしむ。
生徒にそんな顔をさせるのが、本当に教師として正しいのかがわからない。
だけど、まだ子どもとも言える彼に恋情を抱くような教師が正しいとも思えない。
ただの己の保身だ、と言われてしまえばそうなのかもしれないが、たとえそうだと彼から言われても、僕はこうすることでしか彼のこと守ることもできない。
微笑みながらも頬に涙を伝わせている浅間は、濡れた目許を拭い、一つ大きく溜め息をついて、こう呟いた。
「やっぱ、先生は先生なんだね。そういうとこも、俺、好きだよ」
それだけを言い置いて、浅間は音楽室から出て行った。その背中は大きいのに小さく幼く見えて頼りなかった。
浅間が階段を下りていく音が聞こえなくなって、僕はようやく小さな声でこう答える。
「――僕も、君のそういう所が好きだよ、浅間君」
もう届かない言葉と想いは、春めいてきた陽射しの中に溶けていった。