そうしてまた新しい年度を迎え、新しい顔ぶれが僕の授業を受けに来る。
浅間とはあれきり、ほとんど顔も合わせていないし言葉を交わすこともない。受験学年は芸術の授業がなく、合唱部の部員でもない限り僕と顔を合わせる機会もないからだ。
そうこうしている内に季節が巡って夏が来て、秋が来て、冬を迎え、年を越す。
浅間たちの学年が受験期に入り、学校もまた新たに入学してくる生徒を受け入れる準備と、卒業で送り出す支度で忙しくなる。
そして、いよいよ卒業式の日を迎えた。
晴れ渡った空の下、清々しい顔をして学び舎を去っていく教え子たちの姿を音楽準備室の窓から覗き見ていると、ふと、ひとりの生徒がこちらを見上げているのに気付く。
背がすらりと高く、あちこちに跳ねている薄い色の髪型をした涼しげな眼のその生徒は――
「……浅間君」
僕が思わず名前を呟いたのが聞こえたかのように、眼下の彼は満面の――あの無邪気で混じり気のない――笑みを向け、僕に大きく手を振ってきた。
おずおずと僕が振り返すと、彼は嬉しそうに大きく笑い、やがて駆け寄ってきた友達と輪になるようにじゃれあいながら去っていった。
きっと言いたいことがあったのだろうけれど、僕が頑なに受け止めないことを知っているからか、彼はただこちらに大きく手を振って笑いかけるだけに留めていた。それでも、最後に僕にそうしてくれたことが嬉しく、彼の変わりない想いを感じる。
あたたかで無垢でまっすぐな浅間の想いは、彼が去ってもなお僕の中にやわらかく漂う空気のようにあり続けるだろう。
きっと忘れることは出来ない、僕にとってはやり直しの、彼にとっては初めての恋は、こうして春の陽に雪が解けるように消えていった。
*****
「今年は新卒のひとりがウチの卒業生らしいですよ、春日井先生」
浅間を送り出してから4回目の桜の開花を見る頃、かつて浅間の担任だった住吉から声をかけられた。
あれから僕も2回ほどクラス担任をしたこともあったけれど、もう僕は新卒という歳でもないし、それ以外になると芸術の授業でしか顔を合わせていないだろうからはっきりと誰かは思い出せない。
「へぇ、誰ですかねぇ」
新学期に向けての大掃除を終え、これから挨拶に来るらしい新任の話をしていると、早速その新任の教師たちが訪ねてきた。
新任と言えど、他校からの中途採用などもあるので、着任する全員が新卒ではないはずなので、今日はその噂の卒業生の新卒教師が来ることはないだろう。
そう思いながら資料などを整理していた手許から顔をあげ、僕は驚きで身動きが取れなくなってしまった。
「お久しぶりです、春日井先生、住吉先生」
すらりと高い長身に年齢相応になった涼しげな目元に、きちんと整えられた髪に真新しいスーツ姿をした、浅間が僕らの方を見て微笑みながら軽く会釈をしてきたのだ。
いかにも真面目な好青年の姿となっている浅間だが、微笑む表情はあの頃のままで、僕の胸が音を立てて鳴る。
「おー、浅間かぁ、今年の新任はぁ! すっかり真面目になったなぁ」
「ええ、まあ、なんとか教師になれそうです」
「しかし浅間が教師にねぇ。担当教科は何だ?」
「英語です。なので、先生よろしくお願いします」
かつての教え子からそう言われて住吉はまんざらでもないらしく、嬉しそうに浅間の肩を叩いている。
そのまま二人は浅間が教え子時代だった思い出話や、お互いの近況なんかを話し始めたので、僕はそっと席を外し音楽準備室へと引き上げた。
廊下を歩きながら目に入ってくる薄紅の満開の桜を眺めながら、まだ早鐘のようになっている胸元を抑える。
「なんで、ここにまた……」
喜ぶべきことを素直に受け止められない僕は、戸惑いの治まらない胸中を抱えたまま、音楽室に入る。
春休みで無人の音楽室は春の陽射しに包まれてあたたかで、思いがけない再会で騒めく僕の心を|均《なら》していく。
一つ呼吸をし、僕はピアノのふたを開いて座り、少し考えてからある曲を弾き始めた。
ゆっくりとスローリーなメロディとそれに沿うような伴奏。穏やかな雰囲気のその曲は、あの頃浅間に教えたあの曲――
「――“ねがいのおほしさま”だね、こずえ先生」
不意に呼ばれ、驚いて演奏を停めて振り返ると、先ほどまで職員室で住吉と歓談していたはずの浅間が、変わらない無邪気さをまとう笑顔を浮かべて音楽室の入り口に立っていた。
あの頃よりもずっと年相応の雰囲気をまとうようになった、名実ともに大人になった浅間の姿は、生徒の頃よりも快活に見える。
浅間はゆっくりとピアノに座っている僕の方に歩み寄ってきて、笑いかけてくる。
「先生、元気だった?」
「君こそ、教師になっていたなんて」
僕の言葉に浅間は照れたように頭を掻きながら笑ってうなずき、それからあの糸目になる表情をして、「先生に謝りたかったから」と呟いた。
「謝る? 僕に?」
「だってさ、俺、あの時……高2の冬のあの日に、先生の話も聞かないで、無理やりキスなんてしちゃったから……」
僕と浅間が決定的にお互いから距離を取ってしまったあの冬の夕暮れのことを、彼はずっと気に病んでいたのだろうか。胸に刺さった棘のように、ずっと彼の心を痛めさせていたのかと思うと、僕はなんて詫びたらいいのだろうか。
「あれは……僕の方こそ浅間君の話を聞かずに……」
浅間はふるふると首を横に振り、「俺も、紛らわしいことしちゃったしね」と苦笑し、あの女子生徒とはなにも関係をもたなかったことを明かしてくれた。
「告白されたことは嬉しかったから、ありがとうとは言っちゃったけど……好きなのは、やっぱり先生だけだったから」
そう言いながら、浅間は一歩二歩と僕の座っている方へ歩み寄ってくる。あか抜けた姿になったかつての教え子は、変わらない無邪気な笑顔を湛えたまま、きっとずっと知りたかったであろうことを口にした。
「ねえ、先生。先生は、俺のこと、あの頃、どう思ってたの? 大人になったけど、やっぱりいまも、俺のことは生徒でしかない?」
あの頃、ずっと彼の想いをはぐらかすために口癖のように口にしていた言葉の裏にあった感情を改めて訊ねられ、僕はまっすぐに浅間を見上げる。
僕は変わらず教師だけれど、向かい合う彼はもう生徒ではない、ひとりの大人になって再びの僕の前に現れてくれた。
それに、僕はようやく向き合い答える義務があるだろう。教師としても、ひとりの大人としても。
「僕は教師で、君はかつて生徒だった。大切な、僕の教え子であり、恋することの嬉しさを思い出させてくれたかけがえがない存在だよ」
僕の言葉に、浅間はとろけるような笑みを浮かべ、大きく腕を広げて僕を抱きしめてきた。僕を包む腕もまた、小さく震えているのがわかる。
「ねえ、こずえ先生。俺、先生とずっと一緒にいたくてすげー頑張って教師になったんだ。ねえ、これなら、先生のこと好きでいていいよね?」
そっと背に腕を回し抱き寄せると、小さくもはっきりとした彼の鼓動が聞こえ、彼がいまここにいることを全身で感じる。
「もちろんだよ、浅間君」
「ねえ先生、俺のこと、好き?」
「僕は、あの頃からずっと君が好きだよ。たぶん、あの出会った夜から、ずっと」
嘘のない言葉で、僕の本心に沿った言葉を|模《かたど》る声は小さく震えていたのは、この恋もまた、僕にとって初恋のように、初めて心から好きになった相手に向けて想いを伝えているからだ。
「こずえ先生、俺の初恋叶えてくれてありがとう」
抱きしめたまま向かい合った浅間の目許は甘く潤んで僕を映している。その愛しい姿に僕はたまらずに彼を強く抱きしめ、「好きだよ、浅間君」と、囁いていた。
浅間もまた僕を再び強く抱きしめ、耳元に口付けて囁き返す。
「ずっと一緒にいよう、こずえ先生」
うなずく代わりに見つめ合い、そしてどちらからともなく僕らは唇を重ねる。
触れ合ったそこはあの冬の夕暮れよりもやさしくやわらかく、愛しさがあふれてくる。
春の光に包まれた静かな音楽室の中で、僕はかつての教え子の初恋を叶え、僕自身にとっての初恋も実らせることができた。
それは切ないほど甘く淡い色をした想いの結晶だった。