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「今年もお疲れさまでしたぁ。お陰様でいい成績も納められたし」
「いや、僕は別に……」

 合唱部の年内練習の最終日は、毎年打ち上げをすることになっているらしい。今年は特にコンクールで賞を取ったこともあって、僕まで招かれた。
 生徒たちは無礼講とばかりに、音楽室で好きな曲をかけてカラオケ大会をしているのを横目に、顧問である貴船と副顧問の僕は隅の方でちびちびとお菓子とジュースを飲み食いしている。

「やっぱり経験者だってだけで指導するのは、やっぱり限界あるんですかねぇ。春日井先生が一言言ってくれたらばっちり結果出ましたし」

 普段褒められ慣れてないので、彼女の言葉を真に受けていいのかわからず、ただただ首を横に振って恐縮するばかりだ。

「いや、僕なんて生徒たちからは煙たがられてますから……貴船先生の方が生徒たちものびのびできますよ」

 嫌味でも謙遜でもなく真実を述べたのだけれど、貴船は紙コップのお茶を飲み干してから首を傾げる。

「そうですか? 春日井先生、慕われてるじゃないですか、“こずえ先生”って、あの、ほら、背の高い2年生の……浅間君でしたっけ? 彼、すごく懐いてるじゃないですか」

 思いがけず浅間の名前を出され、僕は飲みかけていたオレンジジュースを吹き出しそうになった。
 あの日以来、学校が冬休みに入ったこともあって浅間には会えていないし、会おうともしていない。
メッセージアプリでクラスのグループができていてそこに担任の教師を招くケースもあると聞くが、僕は担任を持っているわけではないから生徒個人の連絡先を知る由もないし、知っていても私用で連絡を取るわけにはいかないだろう。
それでも年が明ければ後期の残りの授業で顔を合わせるだろうから、全く会わないわけではないはずだ。この学校に彼が在籍している以上、校内のどこかで遭遇することもあるだろう。
それでも、どうしてだか、もう永遠に会えないような気がしてしまうのは何故だろう。まだ卒業する学年でもないはずなのに、背を向けた日からそのまま、僕と浅間には越えられない何かがある事を鮮明にされてしまった気がする。

「春日井先生?」
「あ、いえ……別に、そんなに懐かれてないですよ」

 浅間の名を耳にしてフリーズしていた僕を、貴船が窺うように声をかけてきて我に返り、僕は何でもない風を取り繕う。
 ――越えられない何かがある事を鮮明にされたんじゃない、僕が、越えてくるなと自ら突き放したんだ。脳裏によぎった考えを打ち消すように言葉を被せ、僕はそのまま流し込むようにジュースを飲み干す。

「浅間君、春日井先生に懐いてるから、よかったら合唱部に勧誘してもらおうかなぁなんて思ってたんですよ。貴重な男声パート要員に! 浅間君、部活入っていないですよね?」
「ああ、そういうことですか」

 曖昧に聞き流しながら、僕は彼のことを思い返す。幼い弟の世話や家の手伝いで見た目から来るイメージのように遊び歩いているわけではない事。放課後の小一時間だけが彼の楽しみで、毎日のように不器用ながらもひたむきにピアノを練習していたこと。そして、結局『ねがいのおほしさま』を完全に弾きこなすまでに至らなかったことを。

「遅刻が多くて有名ですけど、夜更かしとか夜遊びとかしてるのかしら? もったいないなぁ、あのビジュアル放置してるなんて」

 教師と言えど、イメージから来る先入観は拭えないのか、貴船も以前の僕のようなことを言っている。
 普段なら適当に聞き流し、当たり障りない話題になっていくのを待つのだけれど、何故だか、今日は聞き流せなかった。

「生徒をそういう見方で評価するのはどうかと思いますよ、貴船先生。彼は、確かに見た目は派手かもしれないが、ただ遊び歩いている素行の悪い生徒ではない。事情も知らずに、見た目だけで人を判断しない、それは私たち教師が見本を示すことではないのか、と」

 カラオケをしていた生徒たちの声と音楽が途切れたタイミングだったこともあって、僕が一気にまくしたてた言葉が音楽室中に聞こえていた。
 貴船はまさか僕なんかがきつめに言い返してくると思わなかったのか、ポカンとした顔をして僕を見ているし、騒いでいた生徒たちも僕らの方を見て唖然としている。
 気まずい沈黙がじっとりと、さっきまでバカ騒ぎをしていた室内を覆い、息苦しくさえ感じる。

「……じゃあ、僕はもう帰ります」

 場の空気が和むどころか動き出す気配もなかったので、僕は立ち上がって荷物を抱えて席を立つ。

「終わったら、掃除をして鍵を閉めておいてください。よいお年を」

 20数名の視線を注がれながらぎくしゃくと音楽室を出て、足早に僕は階段を駆け下りる。残してきた彼女たちが僕について何か言い合っている声が聞こえてきそうで怖くて、とにかく校舎から一刻も早く出ていきたかった。
 外はシンと冷える冬の夕暮れで、いまにも何かが降り出しそうな空をしている。その空の下をコートも着ずに僕はひたすらに最寄りのバス停まで走って行く。
 上気した頬や首筋を冷たい風が撫でて冷やしていくのを、背筋をゾクゾクさせて感じながらも、僕は校内を出てしまうまでコートすら着られないまま走って行った。


 その日の晩、案の定初雪になり、そしてそんな冷え込む中をコートも着ずに走ったせいで僕は年末年始風邪をひいて寝込んでいた。
 風邪をひいてよかったのは、それを口実に実家に帰らなくてよかったことと、初詣に行かずに済んだことだ。
 あの放課後、浅間はあの女子生徒と初詣に行く約束をしていたから、万が一でもどこかで遭遇しかねないと思ったからだ。
 女の子と仲睦まじく楽し気に歩く浅間の姿は何とも容易に想像でき、とても似合っている気がする。

(ああ、やっぱり彼の隣にはそういう子がいる方がいいんだ……間違っても、僕じゃない……)

 浅間と女の子が連れ立って歩く姿を、夢に見てしまうほどリアルに想像してしまう日が続いたからか、何故かよく寝付けず、年が明けて仕事始めになっても具合はすっきりしないままだ。
 そうこうしている内に授業初日の今日を迎えてしまった。

「では今日はギターの課題曲の発表をして……っげほ、げほ」

 新年最初の授業は浅間のクラスで、彼は遅刻もせず始業時から席に着いていた。でもこちらは一瞥もせず、ずっと頬杖をついて窓の外を眺めている……ふりをしている。それぐらいがわかるくらいには、伊達に数か月を密に過ごしてきていない。

(そういうことがわかるくらい、僕は彼を無意識にずっと見つめていたんだろうな……)

 今更に気付かされる自分の感情とその素振りを振り返り、顔が火照ってしまいそうだ。
 しかしそれを抜きにしても、心なしか目眩がしてまっすぐ立っていられない。身体が重たくて熱くてついピアノなんかに寄りかかってしまう。

「こずえちゃん、風邪?」
「顔色悪いけど大丈夫?」
「大丈夫。ちょっとむせただけ……」

 生徒に気遣われるようなことを言われて情けない、せめていまの時間くらいはちゃんと気合を入れて持ちこたえなくては。
 そう思い直して顔を生徒たちの方に向けたその時、視界がぐらりと揺れて僕は膝から床に崩れ落ちてしまった。

「こずえちゃん?!」
「誰か、保健室の先生とか呼んできて!」

 教室一帯が騒然として悲鳴じみた声が飛び交う。僕の意識は何とかあったので、大丈夫だと言いたかったのだけれど、体が重たくて立ち上がることもままならない。
 床に倒れこんだまま指一本も動けない僕を、その時ふわりと持ち上げる感触がした。
 誰が抱えているんだろう……そう朦朧とする意識の中薄眼を開けると、見覚えのある涼しげな目元とかち合う。

「俺が連れてく。その方が早い」

 耳馴染みある声が僕の鼓膜を震わせた瞬間、包まれるような腕のぬくもりに安心したように意識を手放してしまった。


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