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 浅間との距離が近すぎる……と思った時には、僕の唇は彼に喰いつかれていた。正確には、食いつかれるようなキスをされていたのだ。
 手に提げていたビニール袋が地面に落ち、そのまま口付け合ったまま駐輪場の囲いの壁に押し付けられる。縫い止めるように捕えられたことと、キスのされた衝撃で僕は指一本も動かせない。
 突然のことで凍り付く僕の口を浅間の舌はこじ開け、挿し込み、まさぐるように絡ませてくる。いままで感じたことのない、淫らで直情的で獣のようなキスは、僕を呑み込まんばかりの勢いで侵食してくる。
 息ができない……酸欠状態で|朦朧《もうろう》としてくる意識の片隅でそれだけ浮かび、|渾身《こんしん》の力で浅間を押し返そうとした。しかし相手は20センチ近く上背がある大柄な十代の少年だ。貧弱な身体の僕が多少暴れたところでびくともしない。
 こんなひと気のないところでこんなことをしていて、もしこのまま勢いで犯されでもしたら……僕は職を失うことと、ゲイであることが露呈することの恐怖に苛まれ押さえつけられている手足をバタつかせて暴れ、ようやく浅間から放れられた。

「ん、ンぅ……っや、っはぁ! ッあ……」

 乱れた呼吸もそのままにその場にへたり込みながら浅間を見上げると、いつも涼しげな彼の目は悲しみと怒りの入り混じった色に濡れていた。

「なんでそんなひどいこと言うんだよ、先生。俺は、先生が……こずえ先生が好きだって言ってるじゃんか!」
「あの子から告白されて、嬉しそうにありがとうって言ってたじゃないか。君だって本当は男なんかより、初詣も、クリスマスも、堂々と一緒に過ごせる彼女いいんだろう。好奇心だけで、僕みたいなつまらないゲイと一緒にいることなんてない」

 僕の言葉に顔をあげた浅間の目が再び濡れていく。まるで自分の方が傷ついているとでも言いたげな表情に、僕は更に苛立ちが煽られ冷静さを欠いていく。
 そもそも、浅間が僕の秘密を知らなければ、こんな叶わない想いを抱えなくて済んだのに。あの夜に出会わなければ、いまこんなにツラい想いが胸に宿ることもなかったのに――渦巻いてかき乱されていく感情に、僕の目からも涙があふれていく。
 泣き叫ぶほどの激情ではないけれど、腹の中に食い込むほど重い感情が僕の体内を満たしていた。
 そうしてそれを、浅間に差し出す。

「――もう、僕に会いに来るんじゃない」
「えっ……」
「そもそも補習ももうしなくていいし、ピアノだって親御さんに頼んでプロにレッスンしてもらう方がいい。それに、僕なんかをからかっている暇があるなら、ちゃんと女の子と付き合った方がいい」
「なんでだよ……なんで、なんでそんなこと言うんだよ、先生。俺、本当に先生のことが好きなん――」

 浅間がすがるような顔をして泣きながら声を振り絞って訴えかけてくる。痛々しい表情をして、声で、僕の感情に訴えかけてくる。まだ、自分を見ていてくれ、と。
 そんなことをしていたって、僕と彼の間には未来がない。それが明らかであることを、さっきの女子生徒からの告白で気付かされ、自分がしていることの愚かさを悔やんだ。
 もうこれ以上、浅間の好奇心のままの言動に振り回されたくはない。どうせ、僕は彼から捨てられ、彼は女の子の方を選ぶのだから。

「そういうのを、もうやめろって言うんだ! 好奇心とか、物珍しさで僕のことを|玩《もてあそ》ばないでくれ!」

 僕の方に伸ばされかけていた指先が、叫んだ僕の声に強張って止まる。浅間の目は驚きと悲しみに打ちひしがれて見開かれ、やがて大粒の涙をこぼしながらその手も引っ込められた。
 うな垂れて声を押し殺し、ひきつけるように浅間はすすり泣いているけれど、僕はその方を抱いてやることも頭を撫でてやることもしない。そんな振る舞いはただいたずらに気荒れの感情を乱すばかりだから。

「俺……こずえ先生が、好きだ……どんなに先生が俺のこと信用できなくて、嫌いでも……俺は、先生が、好きだ」

 言葉に色がついているのなら、彼の絞り出すように差し出された言葉は、きっと彼の血の色をしているんじゃないだろうかと思う。身を切るような痛みと共に、抱えても叶えてもいけない想いを僕の方に差し出している。
 だけど僕はそれを受け取るわけにはいかない。何故なら僕は――

「それはダメだ。僕は教師で、君は生徒なんだから」

 静かに淡々と返した言葉に、浅間のすすり泣く声が止み、泣き濡れた顔がこちらに向けられる。曇りのないあまりに無垢な初めての恋心は、あまりにまばゆくて痛々しくさえある。
 だからこそ僕なんかに向けて欲しくないし、僕が受け取る資格もない。受け取ってもいけない。

「君はもっと他の、君をちゃんと愛してくれる人にその言葉を渡しなさい。僕みたいな、つまらない人間じゃない、誰かに」

 それだけをどうにか作った笑顔で言い置いて、僕は呆然としている浅間から離れ、歩き去っていく。
 すっかり暮れてしまった冬の陽はなく、うす暗い校舎がぼうっと亡霊のように僕らの姿を見守っている。
 ゆっくりとひとまず音楽室に戻ろうと思い立って歩いていると、背後から|吼《ほ》えるような声が聞こえ、僕は足を停めた。

「俺は! 誰から何を言われようとも、先生が好きだ! その気持ちは、同情とか面白半分とかじゃない! 本気なんだ!!」

 冬の凛とした空気が震えるほどの声に、僕は一瞬射貫かれたように動けなくなったけれど、それでも、彼の方を振り返ろうとはしなかった。振り返ってしまったら、きっと引き返せない場所に堕ちてしまう気がしたからだ。
 だから僕はそのまままたゆっくりと歩き出し、一言だけ呟いた。

「――ダメだよ。僕は教師で、君は大事な生徒なんだから」

 その言葉が聞こえたのかどうかはわからないけれど、それ以上浅間の方から何も聞こえなかったし、追いかけてくる気配もない。
 追いかけられて後ろから抱き留められでもするだろうか、なんて考えていたけれど、管理棟の入り口に入った辺りで、その可能性すらもないと気付いたところで僕は足を止めた。
 ようやくそこで恐る恐る背後を振り返ってみたけれど、浅間はおろか、ひと気もなく、冬の夕闇が広がるばかりだった。
 何かを期待していたのかと自分がおかしくなったけれど、無性にぽっかりと開いている空間の闇の色の深さに腹の底が冷たくなる思いがした。

「俺さ、初めて好きな人ができたんだよね。それ、先生みたいなんだ」

 あの秋の放課後から、見た目に似合わず無邪気な笑顔で僕に真っすぐ伝え続けてきていた彼の想いを、僕は、無惨に振り払ってしまったのかもしれない。
 だけど、彼はきっとあの彼女からの告白で、自分が好奇心ゆえに僕に執着していたことに気づけたかもしれない。
 そうであればいい――そう、思っているはずなのに、どうして、いまこんなに胸が苦しく痛いんだろうか。僕は教師で、生徒に恋なんてしてはいけないのはわかりきっている大人であるはずなのに……まるで恋に破れたかのように、苦しくて、ツラい。
 音楽室へとどうにか階段を昇りきり、防音の利いた部屋に入った瞬間、僕の涙腺も感情も限界を迎えあふれだした。

「ッふ、うぅ……ッく、うぅ……」

 頬を伝い流れ落ちていく感情は、浅間の初めての恋を打ち捨てた冷徹さがあるクセに熱いままで、ちりちりと僕の胸を焦がしていく。
 生涯にただ一度きりの彼の初めての恋を無下にした罰で、このまま罪悪感の炎で焼けてしまえばいいのに――そんなことを考えながら、僕は音楽室の入り口でうずくまって声をあげて泣いた。
 受け取らなかった感情の行き場を憂いながら、詫びながら、そして自分の中に息づいていた彼への想いもゆっくりと葬るために息の根を止めにかかる。
 呼吸を奪われた恋情は、涙に濡れながらゆっくりと心の奥底へと埋められていった。


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