それからどうやって音楽室の前から離れ、どこへ向かおうとしたのかわからない。
あの場にいたくない気持ちの一心で、とにかく遠くへ行きたかった。
気付けば僕は、校内でもっとも管理棟から遠い裏門の駐輪場の傍に佇んでいた。
手に下げていたはずのケーキ入りのビニール袋はどこかで落としてしまったのか手許になく、何も持たない僕がただひとりぼんやりと佇んでいるだけだ。
「ッは、はぁ……ッう……」
無意識のうちに走り出していて、息が切れるまで走ってきた先がここだったらしく、辺りはひと気がない。
立ち止まり呼吸を整えている内に涙が込み上げてきて苦しい。吸って吐いて落ち着こうにも涙が次々とあふれてメガネのレンズの縁を伝って行く。
はたはたと落ちていく雫を前かがみになって眺めながら、僕は苦しい胸の中にある感情と向き合う。
浅間が、女の子に好きだと言われていた。そしてそれを、彼は嬉しそうに受け止めていた。
彼は、僕を好きだと言っていたんじゃなかったんだろうか? 僕が好きだけど、生徒だから、どうにか一緒にいようとピアノを教えてくれだとか、今日だって一緒に過ごしたいと彼から言ってきて――
「……なんで、あの子にありがとう、なんて言うんだよ……あんな、嬉しそうに……」
一瞬目にしただけに過ぎなかったかもしれないけれど、あれはどう見ても告白されて喜んでいる表情だったし、声色だった。僕には見せたことがないような表情をしていた。
やっぱり、僕を好きだなんて気持ちは浅間の気まぐれだったんだろう。ゲイという身近に存在を感じない人間を間近にして、物珍しかったに過ぎないんだろう。
それでなくとも、彼は僕の秘密を知っていて僕より優位な立場にある。それを利用したくもあったのかもしれない。大人を、教師を、自分の意のままに行動させたい欲求はあの年頃にはよくあるものだから。
そうでなければ、僕なんかが誰かに好かれることなんてあるわけがない。
そこまで思い至った時、僕は、ようやく自分が浅間とどうなりたかったのかを知った。
「……僕、浅間が、好きだったんだ」
自分の秘密を知る彼と関わっていく内に、チャラいから中身も軽薄だろうと思い込んでいた印象が全く違うと気付かされた。
ひたむきであること、弟想いであること、案外真面目だけれど、子どものような無邪気さを持っていること。その横顔を間近で眺めている内に、僕は彼に惹かれていたのに――教師という立場がその想いに気づかないように目を反らさせていた。そうすることが、正しいことだと思っていたから。
教師としては、そうなのかもしれないが、僕自身としては、その振る舞いは無意識に自分を偽り続ける行為にしかなっていなかったのだ。
そう、気付いた時には、彼は他の人の方を向いて微笑んでいた。
告げる間もなく、葬らなくてはならなくなった恋心は、あまりにみじめなものでしかない。そんなものを抱えたまま、明日以降もまた浅間と平静を装って顔を合わせることができるだろうか。
――無理だ。とても昨日の今日で彼と二人きりで顔を合わせるなんて出来そうにない。顔を見てしまったら、いつも通りの“こずえ先生”でいられる自信がない。
たとえもう叶うことのない想いだったとしても、教師としては彼の前で変わらずにありたいと思うのは、あまりに勝手だろうか。
だからもう、これ以上彼と深く関わってはいけない。そうでないと、僕はより教師としても大人としても示しがつかない姿ばかりをさらしてしまう。それはきっと、ほんの気まぐれでも僕に想いを向けてくれていたかもしれない浅間は望んでいないだろうから。
「とりあえず、音楽室に帰るか……さすがにもう、二人はいな……」
ぐるぐると考えあぐねながら、走ってきた道を戻るように歩き始めようとした時、「こずえ先生!!」と、僕を呼ぶ声がした。
聞き覚えのある声に僕の脚は止まり、呼ばれた方にゆっくりと振り返る。視線の先には薄暗がりの中、肩で息をする浅間の姿があった。
薄暗い中で表情はよく見えないけれど、それでも僕は努めて何でもない風を装うと目許を拭い、彼の方に目を向ける。
「先生、なんで俺から逃げたの?」
「逃げてなんかいない。ちょっと、買い忘れたものがあったから……」
「コンビニはこっちの方にはないよ、こずえ先生」
「…………」
「ねえ先生。教室行こうよ。お菓子、一緒に食べる約束だったじゃん。だからこのケーキだって買ってきてくれたんでしょ?」
浅間が、僕がいつの間にか落としていたビニール袋を差し出す姿を、僕はどんな顔でそれを、彼を見ているのか知りたくもない。きっと明らかに泣き濡れたいつになく情けない姿をさらしているだろうから。
行こうよ、と一歩二歩と近づいてくる浅間は、いつになくやさしく甘い声で僕に呼びかけてくる。まるで彼の方が大人であるかのように。
「……僕に同情してるんだろ?」
「同情? 俺が、先生に? なんで?」
浅間は僕の言うことがわからないと言うように首を傾げ、更に僕に近づこうと歩み寄り、手間で差し出してくる。手負いの子猫でも手なずけようとする傲慢な人間のような態度に、再び苛立ちが煽り立てられていく。
「俺が先生に同情するって、どういうこと?」
「僕がゲイで珍しいから、あんな男にしか出会えないみじめな奴だから……」
止まっていたはずの涙がまたあふれくる。教師として、大人としてみっともない姿はさらしたくないはずなのに、そう思えば思うほど涙があふれて止まらない。
感情をむき出しにして、子ども以上に子どもで情けなくて醜い。
もうやめろ、そう、頭の中の自分が叫んでも、僕は吐き出すように感情の牙を浅間に向けた。
「だから、たいして僕を好きでもないくせに、好きだなんて言ってたんだろ!」
遠く、最終下校のチャイムが鳴り響いているのが聞こえる。僕が、なんの罪もないはずの浅間に向けた疑念の牙を正当化するかのように。
泣きながら振り絞るように吐き出した言葉に、浅間は段々とうつむいていく。暗がりなこともあって余計に表情が見えにくくなり、糸目のあの表情以上に彼がいまどんな顔でどんなことを考えているのかがわからない。
チャイムが鳴り終わり、余韻さえも消えて重たい沈黙が冷えた冬の空気の中に転がる。
俯く浅間の姿を見つめながら、僕は自分が吐き出した言葉の残酷さにようやく気付いたけれど、それは次の瞬間に遅すぎることを知る。
「――なんで、そんなひどいこと言えるの、先生」
低くドスの利いた声が聞こえ、僕はびくりと体を震わせる。
ゆらりと顔をあげた浅間は、涼しげな目元のせいでいままで見たことがないほど、酷薄な表情に見えた。いますぐにでも僕が差し向けた感情の牙をへし折り、返り討ちにしてきそうなほど残酷で|獰猛《どうもう》な獣のようだ。
睨み据えられて僕は震えそうな体を奮い立たせ、もう言い訳出来ないほど泣き濡れた顔のまま彼を見つめ、言葉を返す。
「ひどいことじゃない。事実だ。事実だから、いま君は怒ってるんだろう」
「ひどいのはどっちだよ。俺がこんなに好きだって言ってるのが、嘘だって言うの?」
傷つけたのはどちらなのか。傷つけられたのはどちらなのか。僕なのか、彼なのか、その判別はもはや無意味なほどに僕も浅間も傷だらけになっている。
ただ、浅間は、僕がどうして彼を傷つけてきているのかは、わかっていないようだけれど。
「だってそうじゃないか。女の子に好きだと言われて、あんなに嬉しそうにありがとうなんて言っているんだから。その事実を踏まえても、僕を好きだなんてことが同情と言わないわけがな……」
そう、僕が声高に理由を述べようとしたその時、それまで2メートルほど離れていたはずの浅間がぐんと距離を縮めて近づいてきた。
間合いが十数センチほどになり、戸惑いが癖ない僕の姿が浅間の涼しげでありながら明らかに怒りのこもった眼差しで見おろしている瞳に映し出されているのが見えたと思ったら、僕は、彼に捕らえられていた。