第6話:運命の選択
カルマシティの夜は重く、深く、冷たい沈黙に覆われていた。凛は街を巡回しながら、自らの無明の力に疑念と恐れを抱いていた。この力を使えば使うほど、自分が何か別の存在に変わり果てていくのではないかという不安が、心の奥底に広がっている。
いつもと変わらぬ夜――だが、凛の心は妙に重たく、どこか落ち着かない。不安が胸の中で膨らみ、彼は無意識に足を速めていた。歩き続ける中でふと、いつもと違う気配を感じ、周囲を見渡す。すると、漆黒の影のような何かがふわりと浮かび上がり、彼の視界に飛び込んできた。
「やあ、凛くん、調子はどう?」
小さく丸い影が宙に浮かび、揺れるようにして凛の前に現れた。その目は大きく丸く、じっと凛を見つめると、不思議な輝きを放っていた。小さくて可愛らしい姿だが、どこか計り知れない深遠さを感じさせる。
「……誰だ、お前は?」
凛が警戒心を隠せないまま問いかけると、その影はふわりと笑うように揺れ、愛嬌のある声で答えた。
「誰でもないし、どこにもいないさ。でも、強いて名乗るなら“カゲモン”かな。君に興味が湧いたんだよ、無明の力を持つ君にね」
「無明の力……俺に何の用だ?」
凛は一瞬、彼の言葉に戸惑いを見せたが、すぐに鋭い視線を向ける。だが、カゲモンはおどけた様子で、くるくると宙を舞いながら話を続けた。
「無明の力は君を助けるかもしれない。でも、使い続ければ君を飲み込むかもね。ほら、こんな言葉があるんだよ。『怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬよう気をつけるがいい』って」
「……それは、どういう意味だ?」
カゲモンはまるで哲学的な問いを投げかけるように、大きな目で凛を見つめ続ける。
「君が影獣たちと戦い続け、この力を使い続ければ、君自身もまた、怪物のような存在に変わってしまうかもしれない……ということさ。無明の力に頼りすぎれば、守りたいものを守れなくなるかもしれないよ」
凛はその言葉を聞き、思わず無明の力を抑え込むように、拳を強く握りしめた。カゲモンの言葉は、冗談めかしながらも鋭く、彼の心の奥に潜む恐れに触れていた。
「俺は、守りたいもののためにこの力を使うんだ。それだけは変わらない」
そう言い切る凛に、カゲモンはふわりと微笑みを浮かべ、軽く頷く。
「その覚悟は立派だね。でもね、無明の力が君に与える影響も無視できないんだ。もしもその力が暴走して、君自身を支配するようなことになったら……君の大切な人たちも危険に晒されるかもしれない。君の“信頼している人”もね」
カゲモンの含みを持たせた口調に、凛は眉をひそめた。まるで光里に対する疑念を誘うような言葉だった。彼女を守りたい一心で戦ってきたはずなのに、彼の中に不安がさざ波のように広がっていく。
「お前は、何を知っているんだ。何が言いたいんだ?」
凛の問いに、カゲモンは大きな目でじっと彼を見つめ、意味深な微笑みを浮かべた。
「僕は影さ。君が信念を保つか、力に飲まれるか……それを見守っているだけだよ」
そう言うと、カゲモンはふわりと揺れ、凛の肩に触れるように影を伸ばした。
「さて、そろそろ僕は退散するとしよう。どうやら、影獣が近くで暴れているみたいだ」
カゲモンがそう告げた瞬間、街の向こうから影獣の遠吠えが響き渡った。凛はその方向に身を翻し、急ぎ駆け出した。
彼が影獣のもとへと走り出すと、カゲモンはふわりと消え、夜の闇に溶け込むように姿を消した。
暗い路地裏で、凛がたどり着いたのは、巨大な影獣が暴れまわる現場だった。影獣は低く唸り、凛に向かって爪を振りかざしてくる。彼は刀を構え、無明の力を引き出してその爪を受け止めた。
「……この力、使わないとこいつを倒せない」
凛は無明の力を解き放ちながら一歩踏み込み、影獣の巨体をすり抜けるように回り込む。その一瞬、鋭い斬撃が黒い光と共に閃き、影獣の体が大きく揺れる。刀が影獣に触れるたびに、黒い光が闇を切り裂くようにして炸裂し、影獣は一瞬ひるんだ。
だが、その瞬間、カゲモンの言葉が脳裏に蘇った。「怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬよう気をつけるがいい」――無明の力に頼りすぎれば、もしかしたら自分もまた、怪物になり果ててしまうかもしれない。その恐れが、凛の攻撃にわずかな迷いを生じさせた。
影獣がその隙を見逃さず、鋭い爪を凛に向かって突き出してきた。凛は咄嗟に身を翻したが、爪がかすり、冷たい痛みが肩に走る。
「くそっ……!」
痛みをこらえながら、凛は再び立ち上がり、刀を握りしめた。しかし、無明の力に頼ることで、自分が変わっていく恐れが頭から離れない。
その時、カゲモンの姿が再びふわりと現れた。彼の大きな目は、どこか悲しげに凛を見つめているようにも見えた。
「力だけじゃ守れないものもあるのさ」
(力がすべてじゃないのか……)凛は思いを馳せるがその言葉に、鋭くカゲモンを睨んだ。
「じゃあ、どうしろって言うんだ! この力を使わなければ、こいつを倒せない!」
「その力を抑えるのもまた、力の一部なんだよ、凛」
カゲモンは静かに言い、影の体を小さく震わせた。
「君が無明の力に支配されず、それを支配するには、心の強さが必要なんだ。自分を見失わず、真実を見極めること。それが君の本当の力だよ」
凛はその言葉に、息を整え、改めて影獣の動きに集中した。無明の力を抑えつつ、影獣の攻撃パターンを観察する。その動きにリズムがあり、攻撃の直前にわずかな隙が生まれることに気づく。
「なるほど……これが、お前の言いたいことか」
凛は無明の力を抑えた状態で、一気に影獣の急所を狙い、鋭く一閃を放った。刀が影獣の弱点を突き、黒い光が炸裂するように影獣が消え去っていく。
カゲモンは満足げに目を細め、ふわりとした口調で話しかけた。
「君が無明の力を使うことを恐れるのも大事だよ。でも、その恐れに屈しないで、自分を見失わない強さがあれば、君は本当の強さを手に入れられる」
凛はその言葉を胸に刻み、静かに頷いた。力に飲まれず、己を見失わない強さ――それが、自分に必要なものなのだと実感していた。
カゲモンはふっと影に溶けるようにして消え、凛は戦場を後にした。
再び夜のカルマシティを歩く凛の足は、少しだけ迷いが晴れたように軽かった。無明の力が自分を支配する危険があることを認めた上で、それにどう向き合うかを考え始めていた。
診療所に戻ると、光里が遅くまで作業しているのが見えた。彼女は戦いの場には出ないが、彼らの無事を祈りながら支え続けている。凛はその姿を見て、力とは何か、守りたいものとは何かを改めて考えさせられる。
「光里、遅くまでありがとな」
凛は微かに笑いながら、彼女が机に並べた包帯や薬を指差した。
「これだけ準備してくれてるのを見ると、俺も負けてられない気がするよ。」
光里は微笑み、静かに彼の言葉に頷いた。その瞬間、凛は自らの力を使うことへの恐怖と、仲間を守る覚悟を抱き、再び夜の巡回に出る決意を固めた。
こうして凛は、無明の力を自分の意思でコントロールすることに気づく。仲間を守るために、カゲモンの哲学的な言葉と光里の支えを胸に、戦い続ける覚悟を持った。
その後、凛はカゲモンの言葉の余韻を心に抱きながら、カルマシティで夜中の巡回をし続けていた。無明の力を使うたびに感じる自分が壊れていくような感覚、それに抗う覚悟を持ちながらも、心にはわずかな迷いが残っていた。カゲモンが彼に問いかけた哲学的な言葉――「怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬよう気をつけるがいい」という言葉が、胸の奥に刺さって離れない。
しばらく歩いていると、ふいに遠くで小さな影が揺れているのが見えた。凛がその方に歩み寄ると、やはりそこにはカゲモンがいた。彼はふわふわと揺れながら、凛が近づくのを待っているようだった。
「またお前か……」
凛が半ば呆れたように声をかけると、カゲモンはにんまりと笑みを浮かべた。
「どうも、しぶとい影のカゲモンです。君が僕のことを気にしてくれているうちは、何度でも出てくるさ」
「気にしてるっていうか、お前の言葉が少し、頭に引っかかってるんだ」
凛の言葉に、カゲモンはまるで満足げに浮遊しながら、またもや哲学的な言葉を語り始めた。
「それは嬉しいね。何せ、君の心に問いを投げかけることが僕の役割だからさ。凛、君は“強さ”についてどう思う?」
「……どうって?」
「ほら、君が求めているのは“守りたいものを守るための強さ”だろう? でも、本当にその強さが手に入った時、君は本当に“自分自身”でいられるかな?」
凛は言葉に詰まった。カゲモンの問いかけは一見軽妙だが、その奥には、彼の中にある葛藤を見抜いた鋭さがあった。
「力を使えば守れるものが増える……でも、その代わりに俺が失うものもあるっていうのか?」
カゲモンはふっと目を細めた。
「強くなるために、自分が怪物になってしまっては本末転倒だからね。君が無明の力を使いこなすことは大事だけど、それに支配されないようにするのも同じくらい大切だ」
カゲモンの言葉が、凛の心に重くのしかかった。
(力を使うたび、俺は何かを失っていく気がする――それでも、使わなければ守れない……)
「……それでも俺は、この街と仲間を守りたいんだ」
凛の決意に、カゲモンはふわりと揺れながら目を細めた。
「その覚悟があれば、きっと君は道を見つけられるはずだ。でも、一つだけ覚えておいて。無明の力は、奈落の意思の一部でもある。つまり、君の力はただの武器じゃない。君が奈落の意思に飲み込まれないようにするには、いつでも自分を見つめ直す覚悟が必要なんだよ」
凛は再びカゲモンの言葉に目を見開いた。無明の力を引き出すたび、何か得体の知れない存在がこちらを見ているような感覚が凛を襲った――それが何なのか、彼にはまだ分からない。
「俺の力が……奈落の意思と繋がってるっていうのか?」
「その通り。だからこそ、君が無明の力を使えば使うほど、奈落の意思が君に影響を及ぼすかもしれない。君がどうしてもその力を使いたいなら、それを使う理由も、そしてその先にある危険も理解しなければならないんだ」
凛は言葉を失い、ふと視線を下に落とした。カゲモンの言葉は、単なる忠告や警告以上のものだった。無明の力が彼にとってどれほど危険なものであるかを理解すると同時に、それでも彼はその力を使う必要があるのだという現実が彼にのしかかる。
「俺がこの力を使うことで、何かを守れるのなら、たとえ俺自身が変わっても構わない……そう思っていた。でも、本当にそうか? 本当にそれで……いいのか?」
凛は自問自答を繰り返しながら、カゲモンの言葉が心に刺さり続けていた。カゲモンはただ静かに彼を見つめ、言葉の続きは凛自身が見つけ出すべきものだというように、黙っていた。
「僕は見守っているよ、君がどう決断するかを。そして、君が自分自身でいるための覚悟を持ち続けることを願っている」
そう言い残すと、カゲモンはふっと影の中に消えた。その消え方は、まるで風に乗って漂う煙のように静かで、凛の心に微かな痕跡を残すようだった。
夜の静寂が、再び凛を包み込む。無明の力と奈落の意思、そして自分がどこまで変わることを許容できるのか――彼はまだ答えを見つけられないまま、カルマシティの街を歩き続けた。