バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

東京行き

あと5分で、東京行きの新幹線が出ると思いホームを急いでいた。すると、
「東京は、もうない。乗っちゃだめだ」と必死になっている男性の声が聞こえた。何ごとと、つい発車時間が迫っているのに、その声の方に注意が向いた。
特に急ぎの用じゃないし、座席は自由席で、いまはお盆のような混む時期でもなかったから、私は自分の野次馬根性を優先した。
「東京はなくなった。俺はその東京から逃げて来たんだ。この電車に乗っちゃだめだ、降りるんだ」
新幹線に乗り込もうとする乗客に向かって彼は大声で訴えていた。車内の乗客には彼の声は届かないだろうが、駅のホームで必死になっている彼の姿は見えるから、何事かと新幹線の窓から覗いているひとたちもいた。時々、新幹線の車体を叩いたりして、彼は人々の注目を集めていた。
「乗らないでくれ、東京は本当に、もうないんだ」
彼は必死に訴えていたが、どう見ても駅員ではないので、当然、新幹線を降りる乗客などいない。すると数人の制服姿の駅員がホームに現れた。新幹線ホームで騒いでいる人がいると誰かが駅に通報したのだろう。
「お客様、落ち着いてください」
駅員は人数で威圧しながらも穏便に済ませようとしていた。
「ホームで騒がれますと、他のお客様の迷惑になります」
「黙れ、うるさい。東京はなくなったのに、なんで新幹線を運行している」
「東京がなくなった?」
駅員たちは全員呆れるような顔をしていた。
「とにかく、あまり騒がれますと他のお客様のご迷惑です」
「東京はなくなったんだ。俺は本当にそこから逃げて来たんだ。東京に行っちゃだめだ。そこのあんた、新幹線に乗っちゃだめだ」
その男の人は、野次馬根性で様子を見ていた私と目が合い、必死に訴えた。
その目は真剣で、狂っているようには見えなかった。
「他のお客様にご迷惑です。お静かに」
駅員たちはついに実力で、その男性を新幹線から離し、駅長室の方へ連れて行った。
私は、ただそれを見ているだけで、ハッと気づいた時には、乗ろうとしていた東京行きの新幹線の扉が閉じて、出発してしまった。私は、ふと、下り線側のホームを見た。ちょうど下りの一本が止まっていて、私はあることに気づいた。下りの新幹線から降りる乗客も車内に乗客の姿がなくがらんとしているのに気付いたのだ。東京方面から誰も乗ってこない、まさかと思いつつでも私は新幹線に乗るのをやめようと決断し、改札の方に向かおうとした。
「どうしたんです。何かお困りですか」
とてもにこやかな顔をした駅員さんが私に声を掛けてきた。
「切符を拝見。東京行きでしたら、もうすぐ次が到着しますよ。この春、増便しましたから」
まるで私を改札に戻させないとするかのように、その駅員は、とても親切そうに私に語り掛けていた。

しおり