16.連れ出してくれた王子様。
「私はあなたを害することはしないつもりです。私の名において誓わせて頂きます。正直、私は精神的に父の支配下にありました。しかし、正気に戻ることができアーデン侯爵邸で働く人々やあなたの家族に触れて、とても危害を加えて良いような方達ではないと認識したのです」
彼は私のことを疑っているのだろう。
彼には愛を求めるような目で私を見つめるのはやめて欲しい。
姉の手先ではない、遠い日の憧れのままの彼でいてくれた方がありがたい。
アカデミー時代、困った私を助けてくれたのはサイラスで、惨めで仕方ない舞踏会で連れ出してくれたのは第4皇子だ。
レナード様の存在はどちらの時もあって、本当は彼が私にとって一番気になっていて一番手を差し伸べてほしい存在だった。
何度も夢をみた、王子様のような彼が私を救い出してくれるシーンを。
だけれども、いつも彼は他の人たちに囲まれていて私には無関心で惨めになった。
「ここで働く方達は皆生き生きとしています。想像もできないでしょうが、カルマン公爵邸はいつもギスギスしていて、食事をする時も毒を盛られているのではないかと疑いながらでした。働いているメイドなど父の気分で弄ばれては金を渡されたり、舌を切り落とされて捨てられていました。私が家庭の恥部を明らかにしているのは、あなたの為なのですよ。狂った生育環境で育った女はまた狂っているのです。確かに私はこの天国のような侯爵邸での暮らしを気に入っております。でも、私がどういう人間かしっかり伝えておかないとフェアじゃない。本当に私をここに置いておいて良いのですか?私に触れようとしてくるのは、あなたが心の底では私を捨てたいと思っているからだと思いますよ」
本当にアーデン侯爵邸は私にとって理想郷だった。
自由に発言をしてよくて、好きなことができて食事も美味しい。
レナード様は女性関係でトラブルになったことはないと言っていた。
メイド達はレナード様のような主人を前にしても、服を脱いでベットに潜りこんでトラブルになったりしないのだろうか。
それとも、そんなトラブルを一頻り終えた後で落ち着いているのが今なのかもしれない。
ここで働く人は皆、自分の仕事に真摯だ。
騎士団はお遊びみたいな訓練をしているけれど、それも平和主義のレナード様を団長としているのだから仕方がないと思えて微笑ましい。
「ミリア、本当に信じて欲しいのです。そして、今、刺繍している家紋はアーデン侯爵家のものではないと記憶していますが、あなたは他にも秘密があるのですか?」
彼が秘密という言葉を使ったのが不思議だった。
第4皇子のことは私にとっては秘密でも何でもない。
サイラスが窮地に陥っても、私はどんなリスクを負っても助けるつもりだ。
私が困った時に助けてくれた人なのだから、私が同じことを返すのは当たり前のことだ。
「私は、帝国の貴族すべての家紋の刺繍をマスターしました。刺繍のサービスや、家紋をいれたハンカチの販売をする事業がいつかできないかなと思っているのです。簡略化した家紋の刺繍もありますが、見てみますか? 安価で領地の平民に販売したりしたら面白いと思うのですが。すべての貴族夫人が、刺繍が好きなわけでも得意なわけでもありません。まずはこの皇家の紋章を入れたハンカチを姉に売ろうと思います。姉は、邸宅が買えるくらいの額を出してくれると思いますよ」
私は、ラキアス皇太子のイニシャルと皇家の紋章を刺繍したハンカチをレナード様に見せた。
面倒臭がりの姉なら、いくらでもお金を積んで買ってくれるだろう。
「その事業、いつかではなく今からやったらどうですか? 私が投資しますよ。」
レナード様が言ってくれた言葉に私は驚きのあまり感嘆の声をあげた。
「良いのですか? 確実に儲けがでるかもわかりませんし、事業などする暇があれば妻としての仕事を学ぶべき時ですよね」
私は嬉しくなった、実はもう結構話を進めていたのだ。
事業をはじめる資金は私の持っているものでも足りたが、彼が投資してくれるなら甘えてしまいたい。
「妻としての仕事はただ1つ、私と一緒にいてくれることです。愛して欲しいなどと言って良い時を逸してしまった気がします。ただ、一緒にいてくれませんか、ミリア」
彼が私の手を握りながら見つめてくる。
なんだか、触れたらダメだの言えなそうな雰囲気だ。
私も、この侯爵邸の暮らしを気に入っているし、エミリアーナ様のいる知的で優しい家族の一員になれるなんて実は夢のようだ。
「もちろんです。妻としての仕事はします。事業計画書を実はつくってあるのですが後で見てもらっても良いですか?」
軽い感じで彼に明かしたけれど、実は侯爵邸での暮らしが始まってから綿密に計画してたことだった。
「用意周到ですね、ミリアは。そろそろ、食事の時間なので一緒に行きましょうか」
彼は愛おしそうに私を見ながら言って、手を差し出してきたのでエスコートされながら食堂に向かった。
「今日のメイン料理をおつくりになった方はどなたですか?」
私が言うと、おずおずと出てきた若い料理人がいた。
メインを担当するのに、随分と若い。
「今日は料理長が休みだったので、私が担当しました。お口に合いませんでしたでしょうか?」
不安そうに言ってくる彼に思わず笑みが溢れる。
「逆ですわ。丁寧な下ごしらえに、確かな技術と工夫が見られて感動しているところです。骨は小さなものまで全て綺麗に抜いてあるし、焼く前につけておいたタレまで自作なのですね。どうやったら、あなたを隠しておけるのかしらと今考えているところなのですよ」
私が言った言葉に、料理人が恐縮している。
でも、紛れもなく本当のことだ。
カルマン公爵家で警戒しながら食べる料理は味を感じなかった。
アーデン侯爵家の食事は毎日のように美味しいと感じていたが、今日のは格段に違う。
「ミリア、こちらに来てください」
なぜだか、レナード様は急に立ち上がり怒っていた。
「あの、まだデザートがありますよ。お食事の途中で離席するのは失礼かと思いますが急用でもございましたか?」
本当に彼のことが分からない。
先ほどは第4皇子のことを話したら不快感をしめし、刺繍の事業をする話の時は笑顔を向けて来た。
今度は料理を褒めたら怒っている。
私は父を怒らせないように過ごして来たので、他人の感情の機微には敏感だと思っていたがうぬぼれだったのだろうか。
私がなかなか、立たないのに苛立ったのか急に彼が私をお姫様抱っこして来た。
「どうしたのですか? あの、デザートがあると確信しているのです。ここに来てから毎日デザートが出て来ています」
私はデザートを作ってくれたパティシエの好意に報いるためにも必死に彼にアピールした。
しかし、彼は無視して私をどこかに運ぼうとしている。
「私を、窓から捨てるつもりですか? 言動に不備があったなら謝りますし、気に入らないのなら出て行きますから」
本当に怖くなって来た。
今日食べている食堂が2階にあることを思い出したのだ。
ここから落とされたら、きっと骨が折れるだろう。
彼のお姫様抱っこが雑すぎてしがみつかないと落ちそうだ。
温和で穏やかで、女性の扱いに長けていると思ったのは私の勘違いなのだろうか。
「怖いです。レナード。おろしてください」
私が懇願するようにしがみつくと、彼はやっと部屋のベッドの上に降ろしてくれた。