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ヴェール・デュノ

ザックの中身を床に全て放り出し、それら一つひとつを小さな指でつまみ、じっと見つめていた。
「……これじゃない」と、何度もひとりごとを口にしながら。
「ジールの持ってきた灰……あれは絶対相手の思考を麻痺させる薬だ。となるとそれに相対するものは……くそっ」
わかっている。灰だけじゃどうにもならないということは。
しかしそれ以外の証拠という証拠が、見事なまでに残ってはいなかった。
僅かな燃えかすに鼻を近づけ、目を閉じ、じっと考え思い出す。自分の頭の中のアーカイブから。
ルースは一人焦っていた。
誰もいない部屋の隅で、モグラたちの喧騒を耳にしながら。
今はラッシュたちが出された料理に舌鼓を打っている頃だろう。本来なら自分もそれに混じりたかったのだが我慢だ。
アラハスの人たちは「誰か」が仕掛けた香によって集団催眠状態に陥っていた。犯人探しは後だ。まずはこの危険な状況を一刻も早く静まらせなくてはいけない。
十中八九トガリには不利な条件。だけど彼はひとこと「まずはやってみなきゃ」と言ってきた。
なにかを思い起こさせる味。それだけがトガリ唯一の勝算だとか。しかしそれだけでは足りない。
たとえトガリの料理を振る舞われた人の目が覚めたとする。しかし、その料理にありつくことが出来なかった大多数のアラハスの民は……?
「くそっ!」たまらず、石造りのテーブルをバン! と思いきり叩く。
「なんでだ……ここまで分かっているのに……」
ある意味それはルースの専門外かも知れない。しかし補う答えくらいはどうにか導き出せると思っていた。
催眠を覚ます香のこと。あるいは相位となるスパイス。
だがいくら考えても、目の前に広がるルース持参の香料から導き出せるものが皆無だった。
「僕ともあろう者が……こんなことで……」
そんなひとりごとが口から漏れた直後のことだった。

ふっと、部屋中の明かりが消えた。
いくつもの壁にかけてあったランプの灯りが、風も吹いていないのに、一斉に消えたのだ。
一瞬のうちに暗闇と化す……が、天窓から差す星あかりさえあれば、彼ら夜目の利く獣人にとってはさほど大事ではなかった、が……

「ずいぶんと悩んでるみたいだね」
ルースの背後にある部屋の入り口から、聞き慣れない……けど懐かしい声が聞こえた。
まだ子供のようにわずかに甲高いその声。
無言で、ルースは腰のポーチに差してあるナイフにゆっくりと手を伸ばした。
「お久しぶり。とはいってももう何年経つかな……僕のこと、覚え……」
ジール仕込みの投げナイフが、声の主の喉元へと突き刺さった。
「あぶないなあもう。本気でぼくを殺す気かい?」
呼吸を整える間もなく、その馴れ馴れしい声の主はルースのテーブルの向かいへと瞬時に動いていた。
「ヴェール……お前か!」
ぎりッと、食いしばった犬歯が軋む。

「ふふっ、覚えててくれたんだね。うれしいよ」

鼻と瞳以外純白の毛に包まれたルースとは正反対の漆黒の毛並み。しかしそれは星あかりに照らされることもなく、影の如く闇に溶け込んでいた。
「ルース兄さん。ほら、笑ってよ……せっかくの再会なんだから」

暗闇に溶け込んだ声の主=ヴェールは、右へ左へと声のする場所を変えながら、しかし仮面を被ったかのような、よそよそしい笑い声を立てながらもルースに語りかけていた。
「相変わらずだね兄さん。僕を前にすると途端に苦い顔になるの。そんなに僕のことが嫌い?」
「……当たり前だ。貴様は……」
「まーたその話? デュノ家の家訓だとか父上の話だとか、兄さんの口からはいつも堅苦しい言葉しか出てこないんだよね、たまには兄さんの……そう、母上の」
「やめろ!」ルースの怒号が暗闇を震わせた。

「……はぁ。兄さんは母上の話をするといつもこうだね。それほどまでに母上を殺されたことを根に持ってるの?」
「よくもその口で! 母さんは……母さんはお前のことをな!」
暗闇の中、真っ白な腕が闇の一端をぐいっと掴み上げた。
「……うん。そうだよね……あの人はこんな僕でも分け隔てなく愛してくれた」
空に眩く光る星と月の灯りが、徐々に彼の顔を照らし出す。
ヴェールのその両目には、漆黒の毛同様の黒い布が巻かれていた。
「……生まれた時から、目が見えなかったこの僕をね。けど分かるんだ。あの人の、レーネの笑顔も、そして艶やかな毛並みの色まで」
「母さんを……呼び捨てにするな!」
ルースはそのままぎりぎりとヴェールの首を締め上げた。
ほのかに照らし出されたその身体は、ルースの背格好とほとんど変わりはなく、まさに双子のような、瓜二つといって差し支えないほどの姿。
唯一違うものは、毛の色と……そして両目。
「兄さん……もう、苦しいったら」しかしその声は全くと言っていいほど自らの危機を認めていなかった。それも同様の他人事のような喋りで。
「貴様が! 母さんを……母さんを殺したから!」
白い双腕に、より一層の力が込められた。
「はあ、まだそんなことにこだわっていたの? 僕だって母さん……いや、レーネは大好きだったさ。けどそこまで愛されちゃいなかったよね」
「だから殺したのか……! そんな些末な理由で!」
そのふさがれた両目では分からなかったが、明らかにヴェールは笑っていた。
そしてその口の端には、馬鹿にするかのような……嘲笑の如き悪戯な笑みが浮かんでいた。
「勘違いしないで。レーネだけじゃない。兄さんも父さんもみんな僕を愛してはくれなかった。だからみんな殺したんだ。レーネ以外は惨たらしく、ね。自ら吐き出した血と吐瀉物、そして汚物の海の只中で苦しませて……」
「……優しいんだな、お前は」
「ううん、兄さんの心の声を代弁してあげただけさ」
嫌味にも似たその口ぶりがふと優しくなった時、彼の首を絞めていた手の力が、ゆるんだ。
「兄さんの優しさは……そう、母さんと同じだ。だから僕は兄さんも同じくらい大好きだよ」
「いい加減はぐらかすな。なぜわざわざここに来たんだ……?」
切り揃えられた雪のような白い髪を、イラつくようにわしゃわしゃと自身の手がかき乱した。
「兄さんこそはぐらかさないでよ。僕がここに来た意味くらい分かるでしょ?」
「僕たちの足止めをする気で……か?」
「まあね、その答えも一応合ってる。でも僕たちじゃない。兄さんただ一人に逢いたかったのさ。元気な姿……いや、あまり元気でもないようだね。ちょっとやつれてきてるみたいだし、やっぱり試毒に身体が蝕まれてきてるのかな。僕みたいに」
「お前の身体と一緒にするな……」その答えは図星だったのかも知れない。ぎゅっとかき乱した指は胸を押さえつける。
「ふふっ、それを聞きたかったんだ、兄さん……だから僕の言いたいこと、分かるでしょ?」
ルースのうめきにも似た、声にならないほどの小さな「ああ」という声が、闇に溶け込んだ。

「マシャンヴァルに来てくれないかい?」

「マシャンヴァルに……?」ルースの心がわずかに揺らいだ。
「ねっ、僕と一緒に来ようよ。兄さんなら大歓迎だよ」
「大歓迎って……他に誰かいるのか?」
にこやかな顔で、漆黒の毛の弟は首をただ左右に振った。
「マシャンヴァルにはほとんど生きてる人はいないよ。基本的に生命は作り出すか改良するだけだしね」
「改良……オコニドのことか?」
「そう。たまにリオネングの周りに出てくる連中いるよね。人獣って呼んでると聞いてはいたけど。あいつらのことさ」
ヴェールは語った。
自分は司教の座について以来、人獣の錬成の研究に明け暮れているのだと。
「なぜそんなことをするのかって? だってさ、いくら同盟を結んだからって、全てを信用できるわけじゃない。いつ寝首をかかれたっておかしくはない。だから先手をうったのさ。マシャンヴァルの民となる儀式を受けろという名目でね。オコニドの奴らの意思をまず削り取って、抵抗する心すら持てないようにするんだ。そこからは僕の出番。肉体の強化とか意識の従順性の調整とかいろいろとね。あとは……そう、これはまだまだ実験段階なんだけど、僕らと同じ獣人をね」
「ゲイルのことか!?」
布に覆われたその双眼すら見とめられないが、おそらくは驚いた目で見ていたに違いない。「あれ、知ってたんだ」という言葉と共に。
「あいつ、人間になりたいって申し出てきたからね。それに僕も心身の健康的な検体が欲しかったんだ。まあ……まだまだ段階を踏まなければならないけど、あいつは第一号の成功者だね」
そして、話は戻る。
「マシャンヴァルには今のところ、古来からの生者は一人しかいない。神王であるディズゥ様の娘、ゼルネー様。なんか前には妹がいたらしいって話だけど、ゼルネー様と喧嘩してどっかに消えちゃったんだ……確かネネルって名前だったかな」
ルースの怪訝そうな顔とは裏腹に、嬉々とした顔でヴェールは続けた。
「僕の研究をさらに進めたい……そのためには、兄さんの持っているあれが必要なんだ。分かるよね?」
ルースの背筋に冷たいものが走る。
「まさか……デュノ家のあの書か!?」
「ご名答! それに加えてもちろん兄さんの手助けも必要さ。だからこそ来てもらいたい。もちろん望むものはなんだってあげられると思う……よ。 ゼルネー様に頼めばね。黄金だろうと宝石だろうと、もちろんこのアラハスでも手に入らない程の香料もね」
マシャンヴァルにしてオルザン。確かに仇敵たる未知の国。それゆえに危険を冒してでも調べたい……
だがそれに従うということは、自身の国であるリオネングを裏切ることそのもの。
左右の心は拮抗していた。

「まあ……ね、今すぐに来いっていうのもちょっと心の準備ができないかな。とりあえず今日はここまでにしておくよ」
くすっと無邪気な微笑みを向け、彼はルースに小さな麻袋を投げ渡した。
「これは……?」
「分かるでしょ? 相位の効力を持つペルナーの根の粉末さ。すぐに香炉で焚いて大広間のみんなに嗅がせたほうがいいよ。暴動にならないうちに」
麻袋に入った粉末の香りを確かめる。
ルースの脳がその匂いを感じ取るや、直後に意識が揺らぐような、めまいに似た感覚……そう、これだ!
「今日はご挨拶ってことで、また会えたらいいね、ルース兄さん」

そう、このアラハスでの一連のトラブルの大元はこいつだったということか。
なぜわざわざここまで出向いて自身に会いに来たのか……しかしそれだけのためにここまで単身来たのか。疑問は残るが、今は弟のくれたこの薬効を信じる他はない。
「……お前が仕掛けた罠だ。礼は言わないぞ」
部屋から去っていく小さな足音に向かって、ルースは吐き捨てるように言った。
「あ、そうそう兄さん。最後にひとつだけ」
ルースの言葉に答えず、ヴェールのにこやかな声がまた向き直った。
「婚約したって噂を聞いたんだけど……確かソーンダイクの騎士だっけ? マティエとかいう角なしの女」
「それが……どうかしたのか?」

「あいつ……すっげえ目ざわり」

それはヴェールが初めて放った、不機嫌極まりない声だった。

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