願いごと、ひとつだけ
「――それでね、魔法陣を描いたら、その真ん中に自分の血を数滴垂らすの。願いごとを唱えながら」
そう言いつつ、
「こんな感じ」
円の中に二つの正三角形――ひとつは上下逆の――を重ね合わせた図形。世に言う六芒星である。
「まあ都市伝説だから、本当に効果があるのか怪しいものだけどね」
典子は苦笑を向けてそう続けた。
「ありがとう、典子。試してみるよ」
有紗は友人の手を取り、心から感謝の意を示した。
「大袈裟だなあ、有紗は。ところで『願いごと』ってなに? 気になる男子と仲良くなりたいとか? 分かった、A組の
目を爛々と輝かせながら訊く典子。
「違うって。そう言うんじゃないから」
女子の願いごとイコール恋愛と、短絡的に決めつける典子に、有紗は呆れたような表情で答える。
(そんなのより、もっともっと大切なコトなんだから……)
中学校の正門前で典子と別れた有紗は、早速『おまじない』を試そうと、目的地へ向かって駆け出した。
◆
「――先生、どうなんでしょう」
とある婦人科の診察室。
不妊治療の相談にやってきたひと組の夫婦が、神妙な面持ちで診察の結果報告を尋ねた。
「うーん……」
診察結果が記載された資料を手に、担当医は彼らにどう説明していいものか、考えあぐねていた。
しかし、検査そのものに誤りがあったとは思えない。結果にはごくわずかな間違いも、あり得なかった。
「まず言えることは――」
彼らには結果をそのまま、話すしかない。
意を決した医師は、資料を夫に手渡しつつ、口を開いた。
「検査の結果、ご覧のとおりご主人も奥さんも、生殖機能はいたって正常。障害などは全くありませんでした」
夫婦は互いに顔を向け、安堵の表情を見せる。
が、その直後、再び不安な思いが込み上げた夫は、あらためて医師に尋ねた。
「それなら、どうして私たちには子供が出来ないのでしょうか?」
「うーん、今回の診察結果からすると、原因は不明としかお答え出来ません……あるいは」
医師は眉根を寄せる。
「何でしょう?」
夫は身を乗り出した。
「身体機能には問題はありません。原因はもっと別の所にあるのかも知れません」
「――と、言いますと?」
医師の一言一句を聞き漏らすまいと、妻も居住まいを正す。
「ふむ、何と言いますか――本来こんな事は医者が言う話ではないと、私自身も重々承知しているのですが」
「仰ってください」
藁にもすがりたい夫婦は、医師に続く言葉を促す。
「例えば……馬鹿げていると思われるでしょうが、何かの
医師は次第に、自分へ言い聞かせるように、そう語った。
◆
繁華街と住宅街からかなり離れた、木々が鬱蒼とした小さな森だった。
滅多に人が立ち寄らないその森の奥に廃寺がある。
人目に付かないよう細心の注意を払い、有紗はその廃寺の更に裏手にやってきた。とうに日は傾き、周囲は薄暗くなっていた。
有紗は学生カバンから英語のノートを取り出し、典子が魔法陣を描いたページを開く。
そして彼女は、手にした小枝を使い、ノートの図形をお手本に土の上へ魔法陣を描いた。
『あんたなんか、産むんじゃなかった』
有紗の脳裏に、激昂した母親が吐き捨てるように言い放った言葉が、幾度となく繰り返されていた。
(ごめんなさい)
(ごめんなさい)
(ごめんなさい)
彼女は魔法陣をひとつ描く度に、数ヶ月前に自分の元から去ってしまった母親への謝罪を口にした。
(生まれてきてしまって、ごめんなさい)
有紗は続いてカバンからカッターナイフを取り出し、左手首にカッターの刃を滑らせた。
鮮血が滴る。
彼女は自身が描いた魔法陣の一つ一つに、傷から溢れ出る血液を注いだ。
地面いっぱいに描かれた、大小合わせて数十個もの魔法陣全てに。
◆
「私たち、再婚なんです。今の夫……彼とは二年ほど前に結婚しました」
婦人科の診察室。
妻が重い口を開いた。
「前の夫とは二十歳そこそこの頃に結婚して――その時には私、既に彼の子供を身籠っていたのですが」
現夫も既に知っている事なのだろう。彼は顔色ひとつ変える事なく、妻の言葉に耳を傾けている。
「別れる時に親権は前夫が取ったので、今その子とは離れ離れで暮らしてます。今度中学三年生になる女の子です。実は……私、昔その子を虐待していて」
彼女はハンカチを取り出し、目頭を拭う。
医師は一切口を挟むことなく、彼女の話に聞き入っていた。
「育児ノイローゼ、って言うんですか? ちょっとした事で頭に血が登ってしまって。もちろん、その時は虐待してるなんて意識はこれっぽっちもありませんでした。でも……」
徐々に涙声になる妻。夫はその身体をそっと抱き寄せる。
「今思い返すと、あの子には随分と酷いことをしてきたと思います。子供が出来ないのは、きっと罰なのかも知れません。私には、その資格がないって」
◆
出血多量で瀕死状態の有紗が発見されたのは、万に一つの偶然と言えた。
普段は
現場へいち早く駆けつけた地元派出所の制服警官は、恐怖を覚えたという。懐中電灯の明かりに浮かび上がった、数十個もの血まみれの魔法陣を目の当たりにして。
(お母さん、これでもう大丈夫だよ)
病室で目覚めた有紗は、周囲の心配をよそに、清々しい気分で一杯だった。
(お母さんがもう二度と子供を産まなくても良いように、私が『お
〈了〉