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守ってあげたい

 三歳年上の姉に、彼氏ができた。

 大学一年になってからの、人生初彼だそうで――もちろん一緒に暮らしているわたしから見ても間違いない――、毎日が楽しそうだ。

「相手はどんな人なの?」

 交際相手がどんな男性なのか、ことあるごとに尋ねるが、姉はそのたびに言葉を濁し、ハッキリとは答えない。

(もしかして、わたしも知ってる人?)

 次第に、わたしの心に不安な思いが積み重なっていく。

        ◆

 姉が男性との交際を始めてから、ふた月ほどが経過した。わたしは当初の不安な気持ちが、いつしか苛立ちへと変わっていることに気づく。

 そんなある日、姉がひた隠しにしていた交際相手が、ひょんなことから判明することになった。

 高校二年のわたしは部活には入っていない。その日は珍しく寄り道をすることもなく、まっすぐ帰宅した。

 両親は共働きなので、姉も大学から帰っていない場合、家は私一人で留守番することになる。

 自宅の玄関先で、カバンから鍵を取り出そうとまごついていると、ドアの向こうから電話の着信音が聞こえてきた。

(今どき家電(いえでん)に着信なんて……誰からだろう)

 ドアの鍵を開け、わたしは急いでリビングの固定電話の受話器を取った。

「はい、香坂(こうさか)です」

「ああ、亜衣(あい)? 俺」

 応答するなり、聞き覚えのない若い男の声が、姉の名を呼んだ。電話越しの私の声を姉だと勘違いしたのだろう。

「あの、姉はまだ帰宅していませんが、どちら様でしょう?」

 わたしは努めて冷静な声で尋ねた。すると――

「え? 姉? ってことは君、妹の亜希(あき)ちゃん?」

 電話の男は、馴れ馴れしく私をちゃん付けで呼ぶ。

「俺だよ、祐介(ゆうすけ)。忘れちゃった?」

 懐かしい名前を聞いて、わたしは思い出した。

「ひょっとして、祐くん?」

 昔、幼稚園から小学校の頃、姉を交えた三人でよく一緒に遊んだ男の子がいた。たしか姉と同学年だったはず。わたしにしてみれば、近所のお兄ちゃんといった存在だった。

「そう、その祐くん。覚えててくれた?」

「もちろん。祐くん、こっちに戻ってきてたんだ」

 小学校の高学年くらいの頃だっただろうか。彼は父親の仕事の都合で他県へ引っ越していた。言葉を交わすのも小学生以来となる。

「大学がこっちの方だからね。今は一人暮らししてるんだ。それにしても驚いたよ。亜衣……お姉さんと声がそっくりだからさ」

 祐くんの口から溢れる亜衣の名。わたしは、姉の交際相手が彼なのだと、すぐに察した。

「祐くん、お姉ちゃんに用なんでしょ? 携帯に掛ければいいのに」

「それがさ、何度掛けても繋がらないんだよ。だから、家に掛ければ連絡取れるかもと思って」

「お姉ちゃん、ちょっと天然なところがあるから。電源入れ忘れるとか普通にあるし」

 本当は彼、祐くんに言いたいことは山のようにある。だけど、わたしはそれらの言葉を必死に飲み込み、冷静さを装って彼と話した。

「――それじゃあ、お姉さんが帰ったら、俺から電話があったって伝えてくれるかな?」

「分かった、伝えておくね。それと――わたしも祐くんと久しぶりに会いたいかも」

「そうだね。そのうち機会があったら、また三人で遊ぼうか。じゃあね」

 電話が切れると、リビングが静寂に包まれた。

 わたしは力なく受話器を戻す。

 なぜだろう、無性に悲しくなってきた。

 祐くんは一人暮らしだと言っていた。

 そして、姉はたまに外泊することがある。つまりは、二人はすでにそういう関係、ということなのだろう。

 ――酷いよ、お姉ちゃん。わたしの気持ちを知っているはずなのに……彼と、祐くんと付き合うだなんて。しかもわたしに隠れてこっそりと。

        ◆

 数日後。

 わたしは学校からの帰宅後、いつものように一人で留守番をしていた。学校の制服は着替えずに。これからの事を思うと、その方が良いと思ったからだ。

 今日も姉は帰りが遅くなりそうとのことだ。まあ、わたしとしてはその方が都合が良いのだけれど。

 玄関のチャイムが鳴った。
 彼が来たようだ。

「鍵は開いてるから、入って部屋に来て」

 わたしはインターフォンでそう伝えた。

「お邪魔しまーす」

 彼、祐くんは何の疑いもなく、玄関扉を開けた。あらかじめ用意しておいたスリッパに足を通したのだろう、(かす)かな足音で彼はわたしの元へ近づいてくる。

 わたしたち姉妹の部屋の扉には、それぞれ「AI」「AKI」と書かれている。子供っぽいと思われるかも知れないが、実際、子供の頃の名残なのである。

 わたしはこの日、姉・亜衣の部屋で来客を待っていた。

 スリッパの足音が止まり、部屋の扉がノックされた。

「入って」

 わたしは姉の声を意識しながら答えた。

「いやあ、実家暮らしの彼女の部屋を訪ねるのって、やっぱ緊張するよ」

 祐くんは何の警戒心もなく、そんな言葉を漏らしながら、扉を開く。

「祐くん、久しぶり」

 わたしは満面の笑顔で、彼に声を投げ掛けた。

「え? 君、亜希ちゃん? どうして?」

 部屋にいるのが姉ではないことを知ると、彼は途端に表情を強張らせる。

「お姉ちゃん、急用があるって出掛けちゃったの。すぐ戻るって言うから、ここで待ってなよ」

「そ、そう? ――ったく、人を呼び出しておいて」

 ボヤく祐くんを「まあまあ」と(たしな)める。そして、

「ふう、そろそろ暑くなってきたね」

 と言いつつ、わたしは制服のサマーベストを脱ぎ、続けてブラウスのボタンを三つ外した。胸元が露わになる。下に着けたブラが少し見えてしまったかも知れない。彼は慌てて視線を逸らした。

「祐くんも座って?」

 わたしは続けて姉のベッドに腰掛け、彼の視線を意識するように足を組んだ。膝上丈のスカートの裾から、白い太腿(ふともも)が覗く。

 床に腰を下ろそうとする祐くん。わたしは彼の腕に両手を回し、

「ダメ。こっちに座るの」

 と、甘えたような声色で言いつつ、彼の腕を引いて自分の隣に座らせた。もちろん、彼の上腕部に自分の胸の膨らみを押し当てることを、忘れてはいない。

「あ、あのさ、亜希ちゃん」

「なあに、祐くん」

「もう少し離れない? 暑いんでしょ?」

「やあだ。もっとこうしてるの」

 姉のベッドの上に、身体を密着させて腰掛けるわたしと祐くん。彼の心臓の鼓動が激しくなっているのが、手に取るように分かる。もうひと押しだ。

「でも、まずいよ。亜衣にこんなところを見られたら」

「そんなに、お姉ちゃんが良いの?」

 目を潤ませ、上目遣いで彼の顔を見上げる。

「わたし、昔から祐くんのこと好きだったの」

 言いながら、彼の胸元に顔を埋めた。

「あ、亜希ちゃん……でも」

 祐くんはわたしの両肩に手を添える。わたしの身体を引き離そうとしているのだろう。だが、そうはさせない。

「お姉ちゃんには内緒にすればいいよ。別にお姉ちゃんと別れてわたしと付き合って、なんて思ってないから……そんなことを言って祐くんとお姉ちゃんを困らせたり、絶対にしないから」

 涙目で必死に訴えかける。
 よし。下準備はこれで十分。そろそろ仕上げだ。

「――だから、お願い」

 わたしは彼に顔を向け、そっと目を閉じる。

 拒否られることも、一瞬考えた。だが、祐くんは優しくわたしを抱き寄せ、口唇を重ねてくれた。

 ここまで来たら、もうひと息――
 彼の手を取り、ボタンを外したブラウスの隙間へ導いた。ゴツゴツとした男の掌が、ブラ越しの膨らみを覆った。初めて異性に触れられ、これまで感じたことのない感覚がわたしを襲う。

 祐くんの口唇が、わたしの首筋に下りて来た。

「ああ、祐くん、祐くん」

 開放されたわたしの口唇は、うわ言のように、彼の名を発する。

 それと同時に、わたしは彼の背中越しに、室内の壁に掛けられた時計に目を向けた。もうそろそろ、のはず。

 祐くんの手が、制服のスカートの内側へ侵入し、ショーツに指先を触れさせた、そのときだった。

 ――バタン
 部屋の扉が勢いよく開いた。

「お姉ちゃん……」

「あ、亜衣……」

 そこには、信じられないものを目撃したような表情の、姉が立っていた。

「あなたたち、何、してるの……」

 顔面蒼白の姉は、声を絞り出すように呟いた。

「ち、違うんだ、これは――」

「お姉ちゃん、助けて!」

 祐くんが何かを言う前に、わたしはそれを妨げるように声を発した。

「祐くんが……祐くんが急にわたしに抱きついてきて、お姉ちゃんのベッドに押し倒されたの!」

 涙をボロボロと零しながら、わたしは姉に訴えかけた。

「な、何言ってるんだ、亜希ちゃん」

 必死な面持ちで弁明を試みる祐くん。ふふふ、ダメよ。こういう状況では、女の発言力の方が上なんだから。

「出てって! 今すぐ出てって!」

 姉は祐くんに向けて、これまで聞いたことがないような語気で言い放つ。

「話を聞いてくれ。亜希ちゃんからも誤解だって……」

 祐くんがチラリとわたしに視線を向ける。わたしはそれから逃げるように姉の元へ駆け寄る。すぐさまそんなわたしの身体を、彼から守るようにを抱き寄せる姉。

「言い訳なんか聞きたくないわ! 祐介がそんな人だったなんて……いいから今すぐ出てって!」

 わたしを強く抱きしめながら、姉は自分の彼氏に罵詈雑言を浴びせ掛ける。

「――わ、分かったよ。今は何言っても聞いてもらえそうにない」

 がっくりと肩を落とし、祐くんは部屋を出ていった。

「亜希、ここで待ってて。落ち着くまでここにいていいからね」

 姉はわたしをベッドに座らせ、乱れた着衣を整えると、彼の後を追うように部屋を出る。

 その後しばらくは、玄関先で二人が言い争う声が聞こえた。

 やがて声が聞こえなくなった。祐くんが帰ったのだろう。

 漏れ聞こえたやり取りから、二人が和解した様子は全くなかった。

 数分後、姉はグラス二つを載せたトレーを手にして、自室へ戻ってきた。

「どう? もう落ち着いた?」

 姉はそう言いながらグラスの一つをわたしに手渡す。たっぷりの氷とアイスコーヒーが注がれていた。ガムシロップとミルクを入れ、自分好みの味に整えたアイスコーヒーを、ストローでひと口啜る。ようやく人心地付いた気分がした。

「祐くんは?」

 しばらくの沈黙が続いた後、わたしは震える声で尋ねた。

「帰ったわ。――あんな奴だなんて思わなかった。妹にまで手を出すなんて……」

 姉はいまだ怒りが収まらない様子だ。まるで自分に言い聞かせるように、不満を口にする。

「ごめんね。お姉ちゃん……」

「え? なんで亜希が謝るの?」

「だって、わたしのせいでお姉ちゃんが彼氏と喧嘩することになっちゃって」

 涙ぐみながら、姉に謝った。

「亜希が謝ることないわ。全部アイツが悪いんだから」

 言いながら、姉は自身の頭を冷やすかのように、アイスコーヒーのグラスを傾ける。

「祐くんとは、仲直りしないの?」

 恐る恐る、訊いてみた。

「――無理よ。あんなところ見せられたら。アイツとはもう別れるわ」

 気まずい空気が流れた。
 わたしは、思い詰めている姉の気を晴らすため、話題を逸らそうと努めた。

「お姉ちゃん、話は変わるんだけど」

「なあに?」

 姉はそんなわたしの思惑に気付いたのか、笑顔を向けて答えてくれた。

「お姉ちゃん、今日、部屋に携帯を置き忘れてたでしょ? 不便じゃなかった?」

 わたしは机の上に置かれた、電源がオフになったスマートフォンを指差した。

「ああ、持って出るの忘れてたのね。全然気付かなかったわ」

「ダメだよ、携帯電話はちゃんと携帯しないと」

 わたしたち姉妹は、ほぼ同時に吹き出した。

 そう、お姉ちゃんは笑った方が素敵なんだから、お姉ちゃんにはずっと笑顔でいて欲しい。

        ◆

 あの日、祐くんがなぜ家を訪ねてきたのか、なぜそれをわたしは知っていたのか。そしてなぜ最悪のタイミングで姉が帰宅したのか。

 全てはわたしの計画だった。

 その数日前の、祐くんからの電話が、全ての始まりだった。姉の交際相手が祐くんだと知った、あの電話が。

 あの日の前日、わたしは姉の携帯をこっそりと拝借した。もちろん画面を開くための暗証番号は事前にそれとなく姉から訊いていた。当然、わたしの携帯の暗証番号も姉に教えていたので、怪しまれることはなかった。「もし万が一分からなくなったら」と持ちかけたら、姉はすぐに了承した。

 そして、わたしは当日の昼ごろ、学校から祐くんの携帯に電話を掛けた。姉の携帯から、姉の声色を使って。この日二人が会う予定がないことは、確認済みだった。

 わたしは姉の声を真似て、どうしても会いたいから家に来て、そう要望した。

 更には、姉がこの日、何時ころに帰宅するのかについても、確認済みだった。本人から訊いていたのだ。

 そして当日を迎える。
 案の定、祐くんはわたしの帰宅後すぐに、家を訪ねてきた。

 彼を誘惑し、わたしに淫らな行為をさせることが、わたしの目的だった。

 そのさなか、わたしの計画どおりに姉が帰宅する。そして祐くんと揉めさせ、彼と別れさせる。

 全て計画どおりに事が運んだ。

 そして邪魔者はいなくなった。

 あんな男なんかに、いや、ほかの誰にもお姉ちゃんは渡さない。

 だって、お姉ちゃんは()()()()()()()()なんだから。

 これからもずっとずっと、わたしがお姉ちゃんを守ってあげるの。

〈了〉

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