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『開かずの扉』

その扉をくぐれば何処へでも行ける。
そんなふうに思っていた。

その扉をくぐれば何にでもなれる。
そんなふうに信じていた。

その扉をくぐれば手に入れられる。
そんなふうに欲していた。

その扉をくぐれば世界が広がっている。
そんなふうに見えていた。

その扉をくぐれば違う自分に出会える。
そんなふうに期待していた。

でもね、ぼくには勇気がないんだよ。

そして扉は今日も、堅く閉ざされたまま。

        ◆

『開かれた扉』

 旅先で偶然訪れた、とある小さな街。

 その街外れの一角に、瀟酒(しょうしゃ)な洋館があった。

 建てられてからまだそれほどの年月は経過していないらしい。白い壁面は汚れひとつなく、眩しい陽の光を照り返している。

 まさに『白亜の豪邸』の言葉がしっくりくる佇まいだ。

「どんな家族が住んでいるのだろう」

 何故か強く心惹かれるものを感じたぼくは、無意識のうちにその館に足が向いていた。

 人の気配は全く感じない。

 だが、手入れは行き届いているようなので、廃墟というわけではないようだ。

 館に目をやりながら塀に沿って歩いていると、やがて立派な門構えが現れた。

 門戸は開いている。やはり住人がいるのだろう。

 ほんの少しの罪悪感を覚えながら、ぼくは門の中を覗いてみた。

 緑の芝で彩られた十メートルほどの前庭の奥に建つ白い館は、まるで海外の絵はがきを見ているようだった。

 そんな風景に見惚れていると、すうっと玄関の扉が開いた。

 ――まずい。

 不審者にでも思われたら厄介だ。

 すぐにその場を離れようと、頭では思ったのだが、何故か足が動かない。

 そして、目も扉から離すことが出来ない。

 幸い扉の向こうからは誰も出てこないので、ぼくは安堵する。それと同時に、(かす)かな違和感を覚えた。

 扉はまるでぼくを誘うかのように、その口を開けている。

 今思い返せば、この時すぐにでも引き返すべきだった。

 だが、ぼくの足は扉に向かって歩を進めていた。まるで見えない力に操られているかのように。

 芝生に等間隔で据えられた飛び石を伝い、前庭を歩いて扉の前までやってきた。

 中を覗くと、昼間だというのに窓は全て厚いカーテンが閉められ、室内は照明が灯されていた。

 ぼくは何も疑うことなく、扉をくぐった。

 広い玄関ホールだった。吹き抜けの天井は高く、こんなの現実に存在するんだと思わせるほどの、豪華絢爛なシャンデリアが吊るされていた。

 ホール中央まで来たところで、ぼくの足はようやく自由を取り戻した。

 立ち止まり、周囲を見まわす。

 明らかに不法侵入だ。住人が現れたら何と言い訳すればよいのだろう。

 そう考えた直後、人の視線を感じたぼくは、全身が粟立つのを覚える。

 玄関ホール正面、幅の広い階段を上ったその先の踊り場部分。その壁には、縦幅一メートル以上はゆうにありそうな、大きな肖像画が掛けられていた。

 視線の主の正体だ。

「なんだ、絵か」

 ぼくはほっと胸を撫で下ろす。

 ほぼ等身大なのだろう。かなりリアルに描かれた、肖像画を見上げる。若い貴婦人がモデルのようだ。口元に笑みを湛え、慈しみ深い目で玄関ホールのぼくを見下ろしている。

「なんて綺麗な人だ……」

 ぼくは時が経つのも忘れて貴婦人像に見入っていた。

 館に足を踏み入れてから、どれだけ経っただろうか。

「いらっしゃいませ」

 女性の声がした。幻聴などではない、はっきりとした人の声だ。

 すると階段の踊り場、そのさらに上から、ひとりの若い女性がゆっくりと降りてきた。どこかで見たようなドレスを身に纏っている。

 それもそのはずだ。つい今しがた見たばかりの、肖像画のモデルと同じドレスなのだから。

 ん? 待てよ、顔立ちも似ている。そうか、あの肖像画はこの女性がモデルなのだろう。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 今の、この状況をどう説明すればいいのだろうか。

「あ、あ、あの、すいません。黙って入ってしまって」

 しどろもどろで口を開くが、言い訳が全く思い浮かばない。ところが――。

「お待ちしておりましたのよ」

 一段一段を確かめるように階段をゆっくりと降りながら、女性は思いもよらない言葉を口にした。

 凛とした、それでいて優しさも感じる透き通った声。

 待っていた? ぼくを? 何故?

 得も言われぬ感覚が、ぼくの全身を駆け抜ける。

(――ヤバい)

 直感が、いや本能が警告する。ここはヤバいところだと。

「あの、本当にごめんなさい。すぐ出て行きますので」

 そう言うと、ぼくは(きびす)を返し、玄関へ向かおうとする。

 だが、開けっ放しだったはずの玄関の扉は、いつの間にか閉められていた。

「そう言わずに、ゆっくりして行ってくださいな」

 背後から女性が声を掛ける。

 恐る恐る振り返ると、彼女はすでに目の前に立っていた。蒼白い顔は照明の加減なのだろうか。

「ひっ」

 思わず声にならない悲鳴が、咽喉からこぼれた。

 女性の顔を直視出来ず、背後の階段の方へ視線を向けたぼくは、更に驚かされることになる。

 踊り場の壁に掛けられていた肖像画だ。

 信じられないことに、描かれていた貴婦人は消えており、背景だけの、風景画になっていた。

 今、目の前にいるこの女性はあの絵から抜け出てきたのか? まさか、そんなこと――。

 ぼくは閉ざされた扉を開き、そして開かれた扉へ入ったことを、激しく後悔していた。

〈了〉

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