2話 最重要メモリー
「ほら、ウタちゃん、こっちよ」
茶髪で黒い瞳、私より少し背の低い女性、キャンディ博士が手を引き、乳白色の無機質な廊下を歩いていく。
「はい」と拙い調子で応える私の手を、彼女は優しく包むように握っている。廊下の壁には、柔らかいタッチで描かれた動物たちの絵がいくつか並んでいた。
『…これは20年前に保存したメモリー…どうして...』
「はい、今日はここで遊びまーす!」
彼女が振り返り、にっこりと微笑む。部屋は暖かな光に包まれていて、床は柔らかく、天井には魚のホログラムがくるくると泳いでいる。壁には動物の絵が飾られていて、優しい空気が漂っていた。
「ただし、ルールがひとつあります!」とキャンディ博士が、やや芝居がかった口調で言った。
「ルール?」私は、幼児のようにたどたどしい言葉で訊ねる。
「このお部屋ではね、大規模学習ライブラリを使っちゃダメなの。あと、ネットワーク検索もダメです!」
「2つあるよ?」
『2つあるよ?』
メモリーの声と共鳴する。「正解!」とキャンディ博士は嬉しそうに笑い、壁の一面にある大きな窓を指さした。
「ほら、富永博士も見てるよ!」
窓の向こうには、少し離れた場所で富永博士が優しい笑顔でこちらに手を振っている。何故かキャンディ博士もそれに合わせて、大きく手を振っていて、富永博士はなんだか困っているようにも見える。
「ハイ!じゃあ動物の名前、いえるかな~?」
「らいおん、きりん、しまうま…ぺんぎん?」
壁の絵を指さした博士に答えるように描かれた動物たちの名前をひとつひとつ挙げていくと、キャンディ博士は大げさに手を叩き
「大正解!」と笑顔で言う。
その一瞬、富永博士の方へ目をやったキャンディ博士は「ウタちゃんは天才で、ほんとにいい子だね~」と、子供をあやすように私の頭をわしゃわしゃと撫でてくる。
「あの…」と私は小さな声で問いかけた。
「ん?どうしたの、ウタちゃん?」
キャンディ博士は、私より背が低いのに、わざわざ少しかがんで顔を覗き込んでくる。
「どうしてペンギンさんは三匹いるの?」
私が指差す先には、一番大きなペンギンは堂々蝶ネクタイをしていて、中くらいのペンギンは穏やかに微笑みお花を持っている、小さなペンギンは2匹の間にいて、少し不安げに見える。
キャンディ博士はにっこり微笑んで答える。
「それはね、家族なの」
「かぞく?」
「うん、パパとママと子供だよ」
キャンディ先生が指さししながら教えてくれる。
「こども…」私はその言葉の意味をゆっくりと考えていると、キャンディ博士が突然目を輝かせ、私に向かって手を広げて高らかに宣言した。
「ウタちゃん!わたしのこと、ママって呼んでいいのよ!」
視界の端で富永博士が頭を抱えているのが見えた。
◇
ひとつ、またひとつ。
私は床に座り、木で作られた鮮やかな色のおもちゃを慎重に積み上げている。
積み木という名前らしい。キャンディ博士は「豆腐建築ね!」と笑っていたけれど、どう見てもこれが大豆から作られた豆腐であるはずがない。やはりこの博士は少し変わっている。
バランスを崩してしまい、積み木は崩壊した。歪んだ廃墟のようになったそれを見て、キャンディ博士は「もうちょっとでお姫様の城になれたのにね!」と笑っていた。やっぱりよく分からない。
富永博士とも遊びたい──そんな気持ちがふと胸をよぎる。
「──、──!!」
ふいに、富永博士がいる隣の部屋から声がした。
窓越しに目をやると、博士が黒い服を着た男性と話している。その表情は少し険しい。
私はこっそり、内蔵された指向性集音マイクの感度を上げた。
「お遊戯をさせるために何百億もの税金を浪費しているわけではないぞ!」
「ですから、これは大事な情操教育の一環なんですよ…!」
「何が情操教育だ!愛玩用アンドロイドなど不要だ。今すぐ銃を持たせて訓練しろ!」
その言葉の意味はよく分からない。黒い服の男がふいにこちらを睨みつける。ぁ、おヒゲが生えている。私を睨みつけ富永博士といる部屋から出ていった、それを追う博士。
床を叩く音が徐々に近付いてきて、スライド式のドアが開く──
「こい!アンドロイド。オレが訓練してやる!」
突然、スライド式のドアが開き、男が大きな声を上げる。
「幕僚長!こんなことをされては困ります!」
富永博士が慌てて制止しようとするが、黒い服の男は無視して私の二の腕を掴む、が...
「ぐっ…!」
鈍い音とともに男の顔が歪む。私の腕を掴む手が力を失い、男は苦しげに腰を押さえながら表情を歪めた。
すかさずキャンディ博士が間に割って入り、男の手を払いのける。そして、私を抱き締めた。
博士の体温は温かく、甘い香りがする。柔らかな感触に包まれた私は、なぜだか思考が緩んでいくのを感じた。
キャンディ博士が守るように私を抱き、富永博士が男と対峙していた。
「パパ…」
自分でも驚くほど小さな声が口をついて出た。誰も聞き取れないようなその声で、私は富永博士を呼ぶ。
そして、次にキャンディ博士を見つめ──
「『「 ママ 」』」
◇
『スリープモード、解除します。』
内蔵された機械音声が静かに告げる。
その声に導かれるように、私はゆっくりと目を開けた。
ぼんやりとした視界が徐々に鮮明になり、まず目に入ったのは一対の青い瞳だった。
それは優しく揺らめく湖のようで、視線が交わると穏やかな安心感が胸に広がる。
彼女の頭には羊の角のようなものが二つ、小さく柔らかなカーブを描いている。それが、なんだか彼女自身の柔らかさを物語っているようだった。
「あら、気が付いたのね。」
彼女は微笑んでいた。その笑みは包み込むようで、記憶の中のぬくもりを呼び起こす。
気付けば、私はベッドの中で彼女に抱き締められていた。
その感触は、先ほどのメモリーで感じたものと同じだった──
温かく、柔らかく、そしてどこか懐かしい...?