電気羊の密室
かつて、SF作家のアイザック・アシモフは『ロボット三原則』を提唱した。
第一条
ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条
ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条
ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己を守らなければならない。
— — アイザック・アシモフ著『われはロボット』より
のちに、これらはフィクションの中だけではなく、現実世界のロボット工学にも大きく影響を与えることになった。
◆
西暦2030年、コンピュータ分野の
人間を模して造られた彼らは、『ヒトの複製品=レプリカント』と名付けられた。
外見は人と変わらない彼らだが、身体能力は常人のそれを遥かに上回る。そのため、主に人間には危険な場所、または過酷な状況下での労働力として用いられた。
それからわずか十年ほどで、一般社会に普及した彼らは、ごく当たり前に、ごく普通に人間の生活に溶け込んでいた。
人間との不要なトラブルを避けるため、彼らレプリカントの頭脳には、かつてアシモフが提唱した『ロボット三原則』がプログラムされている。しかし、新しい情報を得ることで徐々に進化していく最新の学習型AIによる影響からか、プログラムのバグなのか、三原則を守らずに犯罪を犯すレプリカントが現れるようになった。
そんなレプリカントの犯罪に対抗すべく、各国の警察組織は専門の部署を設立する。組織の名称には、SF映画の古典作品のタイトルが採られ、『ブレードランナー特捜班』と名付けられた。
◆
時に西暦2049年。
レプリカント誕生から二十年近くが経った。
ここはカリフォルニア州ロサンゼルス。
かつて青い海と空が印象的だったアメリカ西海岸を象徴するこの都市も、
その日の夜、ロサンゼルス市警の日系人警察官であるリック・
酸性雨の降りしきる中、空中を浮遊する警察車両のポリス・スピナーが、ビルの壁面全体を使った液晶ビジョンの映し出す、日本企業の広告映像の前を横切る。
「到着まで、あと四分二十八秒です」
ハンドルを握るレイチェルが、フロントウィンドウに浮かび上がるナビゲーションの映像を確認しながら隣のパートナーに報告する。
彼女もレプリカントであり、リックの相棒を務めてニ年目になる。
(クソっ、もっとまともな相棒はいないのか。どうして俺がレプリのお守りをしないといけないんだ)
レイチェルは優秀な警察官ではあるが、リックはレプリカントである彼女を毛嫌いしていた。
ここロサンゼルスの犯罪件数は現在も多く、凶悪犯罪の温床だった。そのため、特に危険な任務に就くリックのパートナーは次々と殉職する。やがて『疫病神』と呼ばれるようになった彼とコンビを組む者はいなくなり、結果、レプリカントの警官と組むことになった。
レイチェルと組まされた当初、何度も上司に不満をぶつけたが、取り入られることはなく、現在に至っている。
「着陸します」
現場に到着したようだ。レイチェルはスピナーを降下させる。超電導推進の原理で浮遊する車体が音もなく路面に着地した。
リックはガルウィングドアを開く。雨はいまだ勢いよく降っていた。彼はコートのフードを被り、ゴシック様式の意匠に彩られた古いビルに駆け寄った。
「KEEP OUT」と文字の入ったビニールテープが貼られた出入り口に、レインウェアを羽織る制服警官が立哨している。リックとレイチェルは各々バッジをかざした。
「現場はこの建物の十五階です」
警官は彼らに敬礼しながら言う。リックは無言で頷き、レイチェルはひと言礼を言ってビルに足を踏み入れた。
前世紀に建てられた老朽化の著しいそのビルは、かつての高級ホテルだった。当時の面影が皆無となった現在は安アパートとして再利用されている。だが住人はほとんどおらず、まるで廃墟のようだ。
申し訳ていどの明かりで薄暗いロビーを抜けると、二機のエレベーターがある。手動で扉の開閉をするタイプのものだ。いまだにこんなものが稼働しているのがにわかには信じられない――リックは苦笑混じりに、サビで動きの固くなった扉を開く。ケージに乗り、扉を閉めると、『15』のボタンを押した。
エレベーターが十五階に着き、リックとレイチェルが降りると、すぐ目の前に扉が開けっぱなしの部屋があった。現場はここか――部屋に入ると、先に到着した元同僚の刑事、ブライアントがいた。
「早かったな。ああ彼女とご同伴か、いいご身分だな」
二人に気付いたブライアントは、ニヤけた顔で声を掛けた。
「もう一度言ってみろ、その口を縫い合わせてから額に鉛弾で別の口を開けてやるぞ」
言いながらリックはコートの懐に手をやる。
「チッ、相変わらずジョークの通じないカタブツだな……現場は奥の寝室だ」
ブライアントはそう言うと、二人を案内した。
「被害者は三十代の男、この部屋の住人だ。名前はJ・F・セバスチャン。タイレル・コーポレーションのシステム開発主任だそうだ」
「タイレル? 大企業じゃないか。そんな会社の主任がこんなボロアパートに住んでるのか?」
タイレル・コーポレーションはレプリカントの実用モデルを最初に開発した企業で、常に業界トップのポジションに君臨している。
「さあな。そんなことは本人に訊いてくれ。答えられたらの話だがな」
ブライアントはニヤけた口元をさらに歪めた。
「ここだ」
三人は寝室の扉をくぐる。
おびただしい数の電子機器が並んでいる部屋の中央、セバスチャンは車椅子に座ったまま死んでいた。喉元を鋭利な刃物で切り裂かれている。着衣の殆どが血で真っ赤に染まっていた。
「玄関の扉は施錠されていたから、外部から侵入した者による犯行はまずないだろう。犯人は間違いなくそいつだ」
ブライアントがあごで指したのはソファーだった。そこにはひとりの少女がぐったりと、背もたれに身体を預けている。見開かれた虚ろな目は天井の一点を見つめていた。右手には血で染まったナイフを握りしめている。
「レプリか?」
リックが尋ねる。
「ああ。最初に突入した警官が緊急停止用デバイスを使ったんだと。抵抗するような素振りはなかったそうだが、手にそんな物騒な物を持ってたもんで、焦って先に手を出しちまったんだろう」
レプリカントによる犯罪が増えて以来、警察官は彼らの動きを完全に止めることの出来る、専用の武器を携帯していた。体内に高電圧の電気を送り込み、電子部品をショートさせる仕組みだ。
ソファーの少女を模したレプリカントは、フリルの付いたドレスの胸元が黒く焦げていた。
「――ダッチワイフ替わりの愛玩用か。全くいい趣味してやがるぜ」
ブライアントは悪態をつき、
「単純な事件だ。お前たち特捜が
と続ける。
だが、リックは腑に落ちなかった。このレプリカントが犯人だとして、なぜ突然
「この手のモデルは学習型AIは搭載されていないはずだろう? ただ言われるがまま、主人の命令に従うだけの方が都合がいい。そしてそういったタイプは三原則には絶対忠実のはずだ」
リックはブライアントに訊く。過去に人間に危害を与える事件を起こしたレプリカントは、もっと高級な、より人間の思考に近いAIを搭載したモデルばかりだった。
「さてね。被害者はレプリのシステム開発主任の高給取りだ。大金を注ぎ込んで独自にカスタマイズしてたんじゃないのか? まあこいつを警察のラボで解体して、脳みそを取り出して中身を解析すればはっきりするさ」
リックは室内を見回し、そしてうなだれた被害者の顔を覗き込んだ。
「彼の年齢は本当に三十代なのか?」
セバスチャンのシワだらけの顔は、どう見ても七十代、いや八十代のそれだった。
「早期老化症を患ってたようだな。ここ数年は歩くこともままならないことから、仕事も出社はせずに、もっぱらこの自宅からリモートでこなしていたらしい」
ブライアントがため息混じりに答える。彼は早く事件に蹴りをつけたいのだろう。
「仮に……」
リックは、これまで静観するだけだったレイチェルに向かい、
「彼が病気を苦に自殺を望んでいたとしてだ、彼女に自分を殺させたとしたらどうだろう?」
と尋ねた。
「それはあり得ません。三原則第二条に反します」
抑揚のない口調でレイチェルは答える。全く、面白みのない女だ――リックが眉根を寄せると、
「リック、あなたがその
彼女は続ける。
(とんでもないことを真顔でサラッと言いやがる……こいつも少しは判ってきたじゃないか)
リックは思わず口元に笑みが込み上げそうになったが、それをレイチェルに悟られぬよう「ふん」と鼻を鳴らして答えた。
三原則の第二条には『ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない』とある。もし人間がロボットに「自分を殺せ」と命じたらどうだろう。ロボットはその命令に従わなくてはならないのか。いや、第二条には『ただし、与えられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない』という続きがある。その第一条とは『ロボットは人間に危害を加えてはならない』である。
結果、「人間がロボットに自分を殺させる」ことは、ロボットにしてみればレイチェルの言うように三原則第二条に反することになる。
ではやはり過去の事例と同様、ヒトの思考に近づき過ぎた学習型AIによる暴走事故なのだろうか。
「おまえさんはどう思う? 何か考えはないのか?」
リックは続けてレイチェルに訊いた。
彼女は一歩踏み出し、室内とセバスチャンをしばらく観察した。そして口を開くと
「人間は不思議です。私たちレプリカントをどれだけ人間に近づけるかの労力は惜しまないのに、自分たちは逆に機械に近づこうとしています」
と呟き、ため息を吐いた。まるで人間のように、何かに呆れたかのような面持ちで。
そういうことか――リックには事件の全貌が分かった気がした。彼はあらためて被害者のセバスチャンを見る。身体からは何本ものコードやチューブが伸びて、室内の電子機器と繋がっている。老化症で衰えたいくつかの臓器を人工の物に換えているのだろう。
つまり、だ。
愛玩用レプリカントの、それほど上等ではない視覚デバイスと擬似人格プログラムは、彼の身体を人間と認識しなかった。
手足を義肢に、臓器を人工の物に替え、さらには記憶までもが外部ストレージに保管して他者との共有が可能な時代だ。確かに人間は機械に近づこうとしている。
自身の病に絶望したセバスチャンの『自分を殺せ――いや破壊しろ』との指示に、彼女は忠実に従ったのだ。
◆
「俺が運転しよう」
帰り道はリックがスピナーを飛ばした。すでに雨は上がっていた。
彼がドアの窓を開けると、吹き込んだ風がレイチェルの長い髪をなびかせた。
「悪いな、閉めるよ」
珍しくリックが悪びれると、
「構いません」
彼女は気に留めることなく、いつもの調子で答える。
目の前に、再びビルの壁面全てを使った巨大スクリーンが現れた。相変わらず日本企業のCMが流れている。
画面にゲイシャの格好をした女が映し出された。商品を手に、白くメイクした顔に品のない笑顔を浮かべている。
リックはふと、隣のレイチェルに目を向けた。彼女も目前のCMに見入っているようだ。こんな物からも、彼女のAIは何かを学習しているのだろうか――リックがそう思った直後だった。
レイチェルはリックの視線に気付くと彼の方を振り向き、笑顔を見せた。たった今見た映像のゲイシャと同じ、品のない笑顔を。
「そいつは忘れろ……まったく」
いけ好かない女だ――続くひと言は、言葉には出さなかった。
〈了〉