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事故物件

「――はっ!」

 深夜、午前二時。
 男は今夜も寝苦しさで目を覚ました。

 秋も深まっている時期だというのに、全身から汗が吹き出している。手足も思うように動かない。俗に言う金縛りだ。

 男の住むこのワンルームマンションは、いわゆる事故物件である。

 前の入居者が、室内で首を(くく)ったのだと言う。若い独身の女だったそうだ。

 立地条件の良さの割に破格値の家賃に惹かれ、男はこの部屋を契約した。もちろん、不動産屋からの説明を全て承諾した上で。

 幽霊だの妖怪だのを一切信じず、霊感もない自分には全く無縁の話――男はそう思っていた。

 ところが、男が入居して一週間ほど経ったころから、『彼女』は男の前に姿を(あらわ)すようになった。毎夜、午前二時の決まった時間に。

(本当に丑三つ時に()るんだ……)

 初めて金縛りに合い彼女を目にした時、男は何故か恐怖心を覚えず、妙に冷静でいられた。自分でも不思議だった。

 今夜もまた、男の足元に立つ彼女はその虚ろな目で、室内のある一点を見下ろしている。

 ――そう言えば。

 彼女が見つめているのは、いつも同じ場所だ。何日目かで、男はようやく気づいた。自分に何かを訴えかけているのだろうか。

 いったいそこに何があると言うのだろう。


 翌日の昼間、男は彼女が視線を向けた場所を調べてみることにした。

 それは部屋の隅、窓辺の角だ。今はテレビの台を置いている。

(こんなところには何もなかったはずだけど)

 男はこの部屋に越してきた時のことを思い出していた。

 そう思いながら、テレビのコンセントとアンテナ線を外し、台ごとずらすが、部屋の角にはやはり何もない。

(まさか、床の下か?)

 一瞬思い至ったが、賃貸物件のフローリングの床板を、そう簡単に剥がす訳にもいかない。

 それに最近手直しをした跡もない。
 男はため息を吐き、ふと窓から外を眺めた。

 すると、男にある考えが閃いた。

(そうか、ベランダだ)

 男は布団や洗濯物を干す時以外、ベランダには出ない。

 ベランダの隅々までは気にしたことがなかった。

 早速男はベランダに出て端まで行くと、中に何かが入ったコンビニのレジ袋が、ホコリまみれで置かれていた。いまの今まで全く気付かなかった。前住人の残した物が放置されていたのだろう。

(――ったく、管理会社もいい加減だな)

 男はそれを手に取って軽くホコリを払い、中身を確認した。

 出てきたのは、数冊の薄い冊子だった。

 パラパラとページをめくると、男は驚愕した。

 あられもない姿の美形の男子同士が、あんなコトやこんなコトをするマンガが描かれていた。それも全部。

 世に言う『ボーイズラブ』、BLを題材にした同人誌だった。

 しかも『18禁』と明記された、かなりハードな内容だ。


 男はその同人誌を抱え、近くの河原へ赴いた。空の一斗缶と、ライターを片手に。

 一斗缶に同人誌の束を入れ、ライターオイルを振り撒くと、ライターで火を点けた。

 すぐさま火が回り、冊子数冊を炎が飲み込んでゆく。

 男は周囲に火の粉が飛ばないよう細心の注意を払いながら、BL同人誌を全て焼き尽くした。

 毎夜現れる彼女は、恐らく『その手』の愛好家だったのだろう。

 そして彼女は部屋に置き忘れた――実際はベランダだったが――本が気になり、部屋にやって来ていたのだ。

 男はそんな彼女のために、心残りだった本をお焚き上げした。

 もう大丈夫だ。
 忘れものを送り届けたことだし、彼女も安心して成仏してくれる……はずだった。


「――はっ!」

 男は今夜も、午前二時に身体の異変を感じて目覚めた。

 ベッドの足元を見ると、彼女が立っていた。今夜は男の顔を、ジッと見下ろしている。

 やがて彼女はベッドの上を這って、男の目の前までやって来る。これまでにはなかった行動だ。

 男は逃げ出したかったが、身体が動かない。

 すると彼女は、男の眼前で囁くように言った。

「誰かに言ったら、呪い殺してやるから」

 そう言い残した直後、彼女はすうっと姿を消した。

 昨晩までの青白い顔と違い、ほんのり赤みがかっていたのは気のせいだろうか?

 やがて身体の自由が戻り、男は茫然と彼女のいた虚空を仰ぎ見る。

(そうか……)

 そして男は理解した。

 彼女にとってBLは、誰にも言えない、密かな楽しみだったのだろう。

(こんなこと、話したところで誰も信じちゃくれないよ)

 兎にも角にも、これでこの先も安心して格安の事故物件に住み続けることが出来ることに、男は自身が天にも昇る思いを噛み締めるのだった。

〈了〉

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