パープル・ヘイズ
ドブの匂いが立ち込める裏通りの、ある安酒場だった。
「兄さん、これ、試してみるかい?」
たまたま隣り合わせた見知らぬその男は、手製の紙巻き煙草を一本、俺に差し出した。
こう見えても禁煙中なんだけどな。
だが、この時の俺はアルコールがだいぶ回り、冷静な判断力をすでに喪失していた。
まあいいさ。今日だけは煙草解禁だ。
俺は礼と共にそいつを受け取ると口に咥えた。すかさず男は、ジッポの火を俺に向ける。
火のついた煙草を一気に吸い込み、俺は紫煙を肺に送り込んだ。
――その直後だ。
いったい、どういうわけだ。
俺はいつの間にかデロリアンに乗ってルート66を飛ばしていた。
横に目をやると、チョッパーカスタムされたハーレーに
沿道には数えきれないプレイメイトたちが、トップレスで声援を送っていた。
俺が自分の誕生月のミス・オーガストを探していると、目の前に『激突!』のようなタンクローリーが迫る。
「ぶつかる! お終いだ」
覚悟を決めた俺は目を瞑るが、身体には何の衝撃も感じない。
目を開くと、俺は軍用ヘリに乗っていた。
手にはいつの間にかMー16が握らされている。
そんなことはどうでもいい。
「――海兵隊は地上最強の兵士だ! ベトコン野郎共を思う存分フ○ックしてやれ!」
「サー・イエス・サー!」
兵隊姿の連中が何かを叫んでいる。
冗談じゃない。俺はヘリのハッチから、眼下のメコン河にダイブした。
気付くと俺は、ニューヨークのセントラルパークにいた。目の前ではいけ好かない野郎が、周囲の群衆に愛想笑いを振り撒きながら、ご高説を垂れている。州知事選挙の候補者だという。
隣を見ると、ミリタリージャケットを着たモヒカン頭が、口元に薄笑いを浮かべながら拍手を送っている。レイバンで目の表情は窺い知れないが、ジャケットの左脇が不自然に膨らみ、左肩が下がっているところを見ると、こいつが良からぬ事を考えているのは明らかだ。この場からは退散するに限る。
俺がそいつに背を向け、その場を去ろうとした直後だった。
――パンッ!
乾いた銃声が鳴った。と同時に、俺の目の前が真っ暗になった。
目が覚めると、俺は元の安酒場のテーブルに突っ伏していた。どうやらいつの間にか眠っていたらしい。
今のは何だったのだろうか。夢か? それとも幻覚か?
俺に妙な煙草を寄越したあの男はもういない。
あれからどれだけ時間が経ったのだろう。
あの男は本当に存在したのだろうか?
あいつ自体が夢だったのではないか。
いや、夢ではなかったようだ。
手元のグラスの下にメモが挟まれている。
『そいつは気に入ったか? 俺はいつもこの店にいるから、またいつでも来てくれ』
〈了〉
※『パープル・ヘイズ(紫のけむり)/1967年』
二十七歳の若さで急逝した、ギタリストにしてシンガーソングライター、ジミ・ヘンドリックスの代表曲であり、またLSD(幻覚剤)、マリファナ(麻薬)を指す