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子供

くそっ、ちくしょう! と男勝りに悔し紛れな声が俺の後ろからついてきている。なんなんだコイツ。泳げないことがバレたのがそんなに屈辱だったのか。それとも濡れたこととか……?
いずれにしろ、しばらくの間はこの言葉と雑な舌打ちに俺は何度も悩まされるハメになるんだがな。

しかし不思議だ。
いや、もう何十回不思議という言葉を使ったんだか。それでも言い足りないくらいだ。
俺たちが今いる場所は、とてつもなく広い空間なのは明らか。しかしジェッサの足の爪音ひとつ響くことがない。
そして、周りを包み込むあの粘りつくような暗闇と。
例えるならば、まるで闇そのものが生き物のようだ。隙あらば俺たちの口や鼻から入って、そこから身体を蝕んでゆくかのような……いや、考えただけで気分悪くなってきそうだ。
だけどおかしなことに、ガキの泣き声だけは歩みを進めるたびにはっきりと聞こえてくる。まさか俺たちを呼んでいるのか、まさか……
耳に入るのは、落雷が壁を揺さぶる音だけ。
もう相当な数がこのオルザンの地に落ちているに違いない。もしくは外の世界は大火事なのかもな。

「結局、俺らはこの中に入るしかなかったんだな」
そうだ、ヘタしたら落ちてきた雷で丸焦げになっていたかも知れない。無理矢理この女に納得させるしかない。
しばらく歩き続けていると、ようやくこの神殿の端っこらしきものへ辿り着くことができたのか、行き止まりになっていた。
泣き声はだいぶおさまったかのようだが、案の定だ、向こうから聞こえているのはわかるんだが、毎度の如く取手もノブも存在しない一枚岩だ。また削れる場所があるんじゃないかとジェッサと二人で辺りを叩いたり削ったりして試みたものの、そんな箇所すらなかったし。
「匂うな」って彼女がふと呟いた。
「血の匂いか?」
「いや、同胞の匂いだ」なるほど。つまり近くにジェッサと同じ獣人がいるってことか。
「恐らく、この壁の向こうにいる子供が、だ」
ってことは先住民か、それともここで暮らしてるやつがいるってことか!?
「知るか、さっさと開けるぞ」
と言ってる間に、ドォン! と凄まじい落雷の音が地面を揺るがした。いくら危険性がないとはいえ、なんかこの建物が崩れるんじゃないかって心配すら湧き上がってきた。
「手形……?」短くなった松明の火を移し替えていたとき、ジェッサが俺の頭の上あたりで何かを発見した。
そう、彼女は俺より背が高い。人間に例えれば手足がスラッと長い長身の女性ってことだ。美人かどうかは……‬俺に言われても分からん。
「ガンデ、人間の手形がここに彫られているぞ」そうだった、獣人と人間は手も足も指の本数が違うんだったっけか。ってことはこの手形は五本指ってことか。
ジェッサに言われるがままに俺はそこに手を合わせてみた……‬うん。ぴったりハマる。
と同時に、突然壁の周りからゴゴっと石同士を引きずるような音と地響きが。
動いている。まるで俺の手が鍵になっていたかのように!

そこも相変わらずの真っ暗闇の空間だったが、匂いだけは微妙に違っていた。
そうだ、ジェッサの言ってた獣人の、独特な毛の蒸れたような匂いに、さっき以上にくっきりしている血の匂い。それらが混然としている。

足を踏み入れると、靴底にぬるっとした感触がした。 床に目をやると、おびただしい量の血が広がっている。なるほどこれがその匂いの答えだったのか。

その血はさらに奥へと続いていた……か、それほど凝固していない。ケガ人でもいて、そいつがうめいているのか? いや違う、さっきの声はもっと泣きわめいているかのような声にすら感じられてきた。 
もしかしたら俺らを敵とみなして襲いきってくる奴らが待ち構えているのかもしれない。警戒して声のした方向へと足を踏み入れた。 
突然、ドン! と大きな雷が背後に落ちてきた。大きな衝撃が真っ暗闇に響き渡る。 

その時、暗闇の隙間から俺の目の前に照らし出されたもの……

獣人だ。

獣人の子供……まだ年端も行かない背丈の子供が、俺の前で泣きじゃくっていた。
⭐︎⭐︎⭐︎
それほど広くない部屋。
周りを見てきたジェッサが言うことには「死体だらけだ」と、そっけない一言。
「こいつのほかに生きてるのはいるか?」
子供を持ったことないからいまいち分からないが、恐らく年齢にして2.3歳……いやもう少し行ってるか?
犬系の獣人としてはお目にかかったことのない暗緑色のやや硬めの毛に、ピンと立った耳。それに大きな尻尾。
有り体に言えば普通の獣人のガキって奴だ。
だが……一体なぜこんな変な場所に、しかも死体だらけの部屋でひとり泣きじゃくっていたのか。それが妙なんだ。
血溜まりをびしゃびしゃ踏みしめながら、ジェッサが戻った。
「虫の息の老人ひとりだけだ」
さらにおかしなことに、部屋の中の死体はみんなカラカラに干上がった状態だとか。
ジェッサがそう言って俺の前にその一人をポイと投げ出した。
焦茶のフード付きのローブを身にまとっているその人間の死体は、確かに全ての水分を吸い取られたかのように軽く、そして骨にかろうじて皮膚を貼りつけただけのミイラ状になっていた。
なんだってんだ一体。こんなカラカラな死体にするには、砂漠で一年くらい放ったらかしにしておかないと無理に決まっている。まさか死んだ途端に干上がったとでもいうのか……?
「おい、おまえなんか知ってるか?」
ようやく泣き止んだ犬の子供を抱き上げ、俺は聞いてみた。
こいつ……めちゃくちゃ臭い。普通の獣人ですらここまで臭わないぞ。生まれてずっと風呂も水浴びもさせなければ、これほどまでに臭くはならないくらいだ。
「……?」だが、俺の言葉に小首をかしげるだけだ。
もう一度聞こうとしたが、ジェッサが手で制した。
「言葉を知らないのかもな」
あーなるほど、そういうことか。

仕方なく俺たちは、生き残った老婆に聞いてみることにした。
もちろん、お宝があるかどうかも忘れずにな。

「オ前タチ、ドコカラ来ナスッタ……?」
フードに半分隠れた双眸からはおびただしい量の血が流れている、両目を潰されたのだろうか。
「リオネングだ、知っているか?」
「ア、アノ……兄弟王ノ国。マダ生キテオッタトハナ」
言葉を絞り出すたび、ごぼごぼと血の泡がローブの胸を染めていく。
「教エテクレ、今ココニハ誰ガ残ッテイル?」
「ああ、犬のガキが一人だけだ。あとはみんな干からびちまってる」
ふと、老婆の口がわずかに微笑んだように見えた。
「ソウカ……ソレハ良カッタ」
いやまあそれはいいとして、俺からも聞きたいことが山ほどある。こんなガキより欲しいものはたくさんあるんだがな。
「宝……ソンナモノハナイ。シイテ言ウナラ、ソコに居ル子供ガ宝ダ」
ミイラ化した手の指が、弱々しくガキを差した。
「どう言う意味だ?」
「守ッタ甲斐ガアッタ……イヤ、オ前タチがコノ子を育テルも捨テルノモ自由。ダガ信ジテクレ。オ前が命ヲ削ッタ分ダケ、コノ子供はソレに見合ッタ宝トナルデアロウ」
そう言うと、老婆の身体が、みるみる間にしぼんでいった。
なんなんだこれは……血の詰まった風船みたいだ。
それに、このガキが宝になるなんて、いったい……
「おい、おまえの他に誰かいるのか? この神殿からどうやって出られるんだ! それだけ話してくれ!」
だが老婆はそれには答えず、しなしなと他の死体のように力なくくずおれていった。
「任セタゾ……地上ノ者ヨ」

生命を振り絞った言葉が、途絶えた。
⭐︎⭐︎⭐︎
その時だった。ドン! と大きな地響きとともに、今さっき通ってきた場所から赤い日差しが差し込んできたんだ。
まさか、この神殿が崩れたとか……?
恐る恐る部屋を出ると、屋根だけじゃない、壁からなにからぼろぼろと、あの時俺たちが入ってきた砂作りの屋根みたいにあちこちが崩れ始めてきた。
しかし明るくなった今、こうやって見るとそれほど大きくはなかった感じすらする。いや、あくまでこれはひとつの部屋だったのか。それがいくつも集まっ……
「出るぞ、ぼやっとするな!」
ジェッサが俺の手を取り駆け出す。俺はといえば……うん。結局この犬のチビが唯一の収穫だったってワケだ。あのしなびたババアにコイツが宝だと言われたって全くピンと来なかった。街に帰ったら孤児院にでも預けちまえばもうそれでいいかな、なんて。
しかし雨こそ全然降ってはいないものの、雷が尋常じゃないほど凄まじい。特に落ちてくるその数が。
ジェッサが溺れそうになった池は通ってきた道ごと崩れ、そのあふれた赤い水が俺たちの進路に並々と巨大な水たまりを作っていた。
「私は行かないぞ、もうこんな池で溺れたくはないし」
「バカ言うンじゃねえ! 死にてえのか!」
「溺れたって死ぬのは一緒だ」
こういう時真っ先に足手まといになるのは、ジェッサみたいな朴念仁と相場は決まってる。沈みそうになる船とかもそうだしな。
いやそうじゃねえ、あとはどこから行けば……!

と、俺の足元にいたチビが、別の方向へと俺のズボンの裾を引っ張ってきた。
しかし、そっちはもはや見飽きた石づくりの壁でしかない。
「なんだお前? そっちに出口でもあるのか?」
「どうやらそうみたいだ。ガンデ、体当たりで壊せ」
華奢な身体のジェッサが俺に命令する。
くそっ、こんな時に偉ぶりやがって……とイラついててもしょうがない。岩砕きの二つ名のとおり、俺の身体はちょっとやそっとじゃ壊れねえしな。

ダッシュして、肩口から思いっきりタックルをかますと……
なんでもねえ、この壁も砂の塊同様にあっさりと砕け落ちた。これが肩透かしってやつか。
外は相変わらず鬱蒼とした木々が生えていた。ジェッサか先導し、俺はチビを抱えて後を。絶え間なく落ちてくる雷に肝を冷やしながら外の世界へと戻れる道を探した。
「オルザンの神の怒りかもしれないな」
「この雷がか?」
言葉少なに彼女は、ああと首を縦に振る。
「このガキを拾ったからか? それとも池に落ちたからか? 木を切ったからか?」
「全部だ」
彼女の言葉に同じく悪態を吐きながら、ようやく俺たちは明け方に通った道へと戻ることができた。
途中、折れた根っこの切っ先を踏んづけちまったみたいだが……まあこんなモンはケガのうちにも入らねえ。大したことない痛みは即座に意識から切り離せって誰かが教えてくれたからな。

面白いことに、例の雷はオルザンから抜けでた途端にぴったりと止んじまった。
そうじゃないな、正しくは、まるで境界線でも引っ張ったかのように雷雲そのものが襲って来なくなったんだ。
やはり縄張りを示すためなのか。生き物みてえだな。

さて……と。これからどうするかだ。
ジェッサの村に帰ってひとっ風呂浴びたいところだが、俺たちは長老の言っていた「禁」を破ってしまったのだし、おめおめと帰るわけにはいかないだろう。
それにこの無愛想女との結婚なんて御免被りたい。俺だけ死んだと適当に言い訳でも伝えて、ジェッサだけ村に……

「いや、無理だ」明け方のように明るい星空の下、あいつは俺に冷たく言い放つ。
なんでだ? お前も俺との結婚なんてしたくはねえだろうが。
「そうではない……私もオルザンの怒りを受けたからだ」
そう言って彼女は、俺に自分の腕を見せてきた。
なんなんだ、いきなり腕なんて見せてきやがって。
だが、そうではなかった。あいつが見せてきたその腕。

獣人の腕ではなかった。

そう、それは人間そのものの、つるりとした肌となっていた。

しおり