ガンデ、そしてジェッサ
ジェッサは黒豹族の剣士だ。
黒く短い毛に全身が包まれていて、目だけは金色に爛々と輝いていたのを今でもはっきり覚えている。
知り合ったのはいつ頃だったろう? それすら思い出せない。つまりはそんだけ長い付き合いだってことさ。
まあ言わなくても分かるだろう、それに今も昔も変わりなくこいつら獣人は迫害されてきた。真面目だけど人が良くて、おまけに俺たち人間よりずっと長生きで力もあるのにもかかわらず、だ。
いや、それが人間の嫉妬を買ったのに違いない。
一度その輪から外れて見てみると、俺たち人間ってえのはほんと醜い心をした生き物だと思えてくる。反吐が出るくらいに。
だからこそ、俺は護りたい思いを募らせてきたんじゃないかなと思うんだ。
本題に戻ろう。
そう、ジェッサのことだ。
あいつに出会うことがなければ、恐らく俺は秘境オルザンの事すら知らずに生き続けできただろう。
現地語で、地平線の先まで続く窪みを指すそうだ。
ジェッサはそのオルザンの近くの村で生まれ育ったらしい。
深い窪み、そこには昼でも日の差さないほどの鬱蒼とした木々に覆われている。
ジェッサの村の掟ではこう言われている。
オルザンは禁忌の地。
絶対に心惹かれるな。
絶対にそこを覗き見るな。
絶対に足を踏み入れるな。
もしそこへ行くと決めたなら、二度とここには帰ってくるな。
なるほど、実にわかりやすい掟だ。
なんでも、かつてこの世界を創り上げた神々が今でもこのオルザンの地で暮らしているからなんだとか。
神と人間は絶対交わってはいけない存在。これもわかりやすい例えだ。
「一人だけ戻ってきた奴がいた」言葉少なにジェッサは俺にそう話してくれた。
「血に彩られた楽園」とだけそいつは話して生き絶えたそうだ。これもジェッサの村の長老の又聞きらしく、詳しい出どころは分からなかったが。
人間の旅人だったらしい。
「まさに赤い血だった。大地には血が流れ、木々は血を流し、美味たる果実からは血が吹き出し、そして湖は血で真っ赤に染まっていたのだ」
なんなんだ、死体でもあちこちに捨てられてるってのか?
「血の染み出した石造りの巨大な神殿があったという話だ。しかしそこには入り口に相当するものが一切存在しなかったという」
「そんなワケわからねーモンが何故神殿だと分かったんだ?」ジェッサに聞き返すと。「形あるものに真実は存在しない、在るのは心のうちの答えだけだ」。
こいつはこうやって答えをはぐらかしてきた。たまに意味不明な、けど教えか格言に似たものをときおり俺に話してくれる。
長老から受け継いだ二千の教え。それがジェッサの答えなんだ。
でもって、その旅人とやらはまたオルザンへと消えていったという話だ。
まるで我々にその楽園の片鱗を伝えるために来たかのように。そこから先は誰も知らない。誰も知ることはなかった。
「ガンデ、何故そんなことを聞くのだ」
愛用の大剣を研ぎつつあいつは聞いてきた。
「見えるぞ、おまえの中に黒い欲望が、燃え盛る炎が」
「ほほお、どんな欲望だ? 言ってみな」
「……オルザンに行きたいのだろう」
おうよ、図星だ。
⭐︎⭐︎⭐︎
ジェッサと組んで一年くらいだったか、頑ななあいつの性格も少しは解けてきたみたいだ。
「私の村へ来るか?」と。
獣人というのは総じて自身のことは多く語らない。そりゃそうだな。人間による迫害の歴史は言うに及ばず、ここ最近でも兵士の遊び半分で一つの村が焼き討ちにあったってのも聞いたし。
自分より優れているのが、それほどまでに気に入らないのかコイツらは。
同様にジェッサも語ることはなかった。そう、オルザンに近いとこくらいしか話さなかったな。
もちろん、速攻で行くと応えたさ。
あれ以来、俺の心の中にはオルザンを一目見たいという思いがはち切れんばかりにまで膨らんでいた。
その魔境にはお宝でもあるのだろうか、ならば俺が一つ残らず手に入れたいし、もしくは征服できたらな、なんて。
「保証はしない、ましてや禁忌の地。分かっているだろうな」
言葉少なに語るが、コイツは本気で心配している。
「知りてえんだよ。お前だってそれくらい心得てるんだろ?」
だがジェッサは遥か遠くを見つめたまま話そうとはしなかった。故郷の地がそこにでもあるのだろうか。
……………………
………………
…………
細かいことは抜きだ。ちょっと長い旅路だったけど、どうにか俺とジェッサは故郷であるルカバードの村についた。
最初は親の仇の如き目で見られてはいたものの、打ち解けるのにそれほど日数はかからなかった。まずこういう場合は子供からだってのは基本中の基本。珍しい菓子でもこっそり与えておけば、あっという間さ。
ジェッサは苦笑いしながら「手慣れているな」だとさ。
でもってジェッサとは戦友だということをアピールしておけば、いま俺の目の前でずっと厳つい顔をした長老だってすぐに打ち解けられる。みんな戦場で学んだことだ。大したことはない。
忘れてた、こいつらがあまり飲んだことがないような酒も必要だったな。
「我が友ガンデ。いや、お主のその岩石のような腕、まさに岩砕きと言ったほうが相応しいな」
赤と緑の羽飾りを頭に付けた長老が、ちょっと酒臭い息を吐きつつ俺にずいっと迫り寄ってきた。
そうだ、俺の二つ名である岩砕き。この時に付いたんだっけか。
「お前はオルザンを知りたいのか?」
「ああ。どんな場所だかこの目に焼き付けておきたいんだ」
長老の真っ黒な鼻先が、俺の身体をまるで舐め回すかのようにふんふんと探り、嗅ぎ回す。
よしてくれ、煙草と血の臭いしかしねえぞ。
「ジェッサから聞いたか?」
ああ、ヤバい場所だということはな。
「肝に銘じているのなら、奴も一緒に連れて行け」
最初は苦い顔をしていたが、長老の懸命な説得でようやくあの石頭も態度を軟化したみたいだ。
「無事にここに戻れた時には、お前をこの村に迎え入れろと言われた」
え、迎え入れ……っていったいどういうことだ!?
その言葉に驚いたのは他でもない、ジェッサの方だった。
「ガンデ、お前……ずっと一緒にいて気づかなかったのか!?」
マジかよ、ジェッサ、おまえ女だったのかよ!?
⭐︎⭐︎⭐︎
とりあえずジェッサには念を押しておいた「お前なんかと結婚する気はさらさらねえからな」と。
「私もだ」と短くあいつは返したが、そうはいわれても、あれ以来、見れば見るほどジェッサのことが妙に気になってしまう。意識しちまったが最後ってやつかな。
しかし……俺はこっそり行きたかったんだけどな。なぜここまで軟化しているんだか。
「あれ以来、旅陣の奴らが何人も足を踏み入れているのだと長は話していた」
そういえば、国を出て各地の地図を作ったり、未開の地を探索しているバカ連中が増えているって聞いたことあったな。それが今は旅陣なんて洒落た名前付けられているとは。
「一度噂話が広まれば、もう止めることはできぬ。これも世の流れと言うやつなのかも知れないな」
数日分の食料をザックに詰めながらジェッサはそう話してくれた。相変わらず厳しい目つきはそのままだ。
「で、その旅陣って奴らどもはどうなっちまったんだ?」
その先は長も口を開かぬ。とジェッサは首を左右に振った。
なんだよ、俺は結果が知りたかっただけなのにな。
「ひとつだけ守ってもらいたい。オルザンからは何も持ち帰るな。これは長ではなく、村からのお願いだ」
いきなり核心を突かれちまった。つまりは金銀財宝があってもそのまま見てるだけってことか。
「ガンデ、お前はオコニドとの戦いで嫌というほど稼いだろ。私は知ってるぞ。しかし何故に身の丈以上の金を欲しがるのだ? 人間というものは……」
はじまった、ジェッサの説教が。こいつと組むようになって以来、事あるごとに口うるさくいうんだよな。
金の分配に然り、メシの食い方、剣の手入れの仕方云々……まるで女房みてえだ。
あ、いや、女房……なのかな?
荷支度を終えてジェッサの家から出ると、今まで吸ったこともないような澄んだ空気が俺の胸に飛び込んできた。
生まれてこの方、血と死体を焼いた臭い煙以外胸に吸い込んだ事がなかったから。
村を出てしばらく歩くと、俺の前を行くジェッサが、無言で遥か前方を指さす。
ちょうど朝日が上ってくるところだ、こいつそんなモン見せたかったのか……
いや、違った。
俺の眼前を全て埋め尽くすかのような穴……いや、窪地と言った方が正しいかも知れない。
行く手にはなだらかな坂、そして一面に広がる木々たち。
それらすべてが血のような……いや、限りなく黒に近い血の色をしていた。
オルザンに行った旅人が話した、血の色とはこの事だったのか。
「朝日に照らされるほんのちょっとの間だけ、オルザンはこうやって真の色を我等に見せてくれるのだ」
高鳴る胸を押さえ、ジェッサと俺は坂を下っていく。窪地とはいったものの、恐ろしいほどに底が見えない。まるで山を下っているみたいだ。
そして一歩一歩オルザンへと近づくたびに、澄み切っていた空気がなにやら濃く感じられてきた。
湿ったような、しかし胸の奥にズンと残ったままのような妙な感覚。
「大丈夫だ、すぐに慣れる」俺の心配を分かってくれているかのようにジェッサは言ってくれた。
そうだ、ここから始まるのだ。
俺の人生をひっくり返してくれた、あいつとの出会いが。