黒き衣の真実
衛兵は立ったまま居眠りしていた。だが、正直もうそんなことで俺は驚きもしない。
どうせネネルがまたなんか変な仕掛けを出してきたんだな、それだけだ。不思議とかそんなことはどうだっていい。
……あ、薬草園ってどこだっけ?
確かアレはルースとタージアがマティエの薬を作るために行ったような。めちゃくちゃ離れてるんだよなあそこ。
「どこいくの?」
「離れにある庭だ」そうとしかチビに答えようがなかった。薬草なんて分かるのかなと自問自答しつつ。
「ねねるおねえたんにあいにいく?」
一瞬ギクっときた。またネネルのことか、つーか分かっているのか……?
「会いたいのか?」そう尋ねると、チビは遠くを見つめて「わかんない」だと。よく分からねーな……
獣人の俺ですら肌寒さを感じる通路をひたすらまっすぐと進むと、そうだ……思い出した。檻の中にマティエがいた部屋が。
「なんかへんなにおいがする……」
はぐれないように、俺の尻尾をしっかり握って後ろを歩いていたチビが、突然妙なことを言い始めた。俺はオナラなんかしてねーぞ。
「どんな臭いがするんだ?」
「わかんない、へんなの」
うーん、あまりにも漠然としすぎていて俺にも分からん……が、コイツに分かるくらいなら俺にも、と思い、しゃがんでチビと目線を一緒にした。
ヤバい。
この臭い、下層に澱んでるんだ。だから俺には分からなかったわけだ。
何かが腐った……それしか例えようのない、吐き気すら催しそうな空気だ。
以前トガリが大量に仕入れてきたジャガイモを捌ききれず、食堂の隅に積んでいたのが瞬く間に腐臭を発していた……そうだ、まさにその臭いだ!
しかも部屋に近づくにつれ、だんだんと臭いは強くなってきた。
俺はチビを抱き上げ、急いでラボへと向かった。カギはかかってはいない。この中に大量に腐ったジャガイモが、きっと……!
と思ってラボに入ったはいいが、誰もいない。何もいない。
マティエの一件以来片付けでもしたのだろうか、ほこりを被ったテーブルと椅子が残されているだけだった。
そしてその部屋の奥には……うん、例の薬草園がある。しかしとにかく臭いが凄まじい。まだチビはいいとして、それなりに鼻の効く俺には……ダメ、キツすぎ。
外の空気を一刻でも早く吸わなければ、と俺は大急ぎで庭へと飛び出した。
「なんだ、これ……」
周りから見れば大小様々な雑草が生えている場所にしか見えなかった、ここはそんな場所だった。
だがルースやタージアに言わせれば「ここはいろんな薬になる植物が息づいているんですよ」って。自慢げに、鼻息荒くして俺に説明していた、あの場所。
俺の視界一面に広がるそこにはもう何も生えてはいなかった。
刈り取ったのか? いや違う。まるで干し草のように、足元にはしなびて変色した草があちこちに散らばっていたんだ。
しかも枯れ草同様、土の色がおかしい。
なんていえばいいのか……やや紫がかったような、普通土なんてこんな奇妙な色なんてしないはずだ。
おまけにこの土、釣り上げたばかりの魚の身体みたいにぬるぬるとしている。
足の裏から腐った糸でも引いてるんじゃないかってくらい。もうこんなもん草じゃない、土でもない!
「わかるか、ラッシュ?」
ラボに戻ろうと振り返ったとき、そこに立っていたのは……。
そうだ、この声、この話し方。ネネルだ。
「久しぶりだな……ラッシュ」
やや恥ずかしげにあいつは小声で言ってきた。
「お前の思いは分かっている。この身体はエセリアの面影を残したままだ。だが中身は違う……心苦しいのは百も承知じゃ、だが……」
「そんなの関係ねーさ。さっさと話してくれないか? 俺を呼んだことと、それにこの腐った庭の意味を!」
いら立ちを隠すことなんてできなかった。ネネルの話すことはいつでも謎かけのようで核心に迫っちゃいない。
「妾わらわが庭を腐らせたと思うか?」
「いや、お前はそんな大それたイタズラなんかしないだろ……?」
よくわかったな、とネネルはくすくすと、まるでお姫様稼業が板についたかのような上品な、声を立てない笑いを立てた。
「ならば単刀直入に言わせてもらう」
そんなネネルの顔から、笑みが即座に消えた。
初めて見せる、俺を威嚇するかのような……静かな怒りを俺に向けて言い放った、その言葉。
「この死んだ土……ここだけじゃない、リオネングの土がこのように腐り果ててしまった」
え、つまりトガリが口にしてたメシの危機って、つまり……
「すべての原因は……ラッシュ。お前にある」
ぴっと人差し指を俺に向けて放った、その言葉。
「……よく分からん、なんで?」
俺がなんかしたか? まさかこの前の火山の噴火とかが俺のせいだって言うんじゃねーだろうな?
「ああ、火山のことか。それもお前が引き起こしたようなものじゃ」
なにいいいいいいい!? ますますワケ分からなくなってきた。
俺がカミサマだったからか? だとしてもここまで非道なことなんてした覚えないし。
「本当に思い出せぬか?」
「……ああ」
胸元で心配そうな顔でチビが見ている。話そうにも話せない雰囲気なのだろうか。
「ならば。パデイラの魔獣……心当たりがあるな」
「ちょ、なんでお前がそのことを!?」
驚いた。つーか俺もすっかり忘れてた。
「ルースが兄上に報告書を作っていたからな。それにあいつは、ダジュレイは……」
ネネルの瞳がふと、遠くを見つめた。
「妾の善き理解者の一人でもあった……まあ、あいつはここに召喚されて以来かなりの非道を人間におこなってきたという話。正直いつかは天誅が下されると薄々感づいてはいたさ。だがラッシュ。お前に……いや」
ちらっと、チビの顔色をうかがいつつ「よもや御子が手にかけるとは思いもよらなかったさ、なあ?」
やっぱり、こいつチビのことを知ってたのか。しかもあのダジュレイと知り合いだったとは……!
「御子よ、久しぶりだな?」ネネルはそう言い、チビの小さな手を取った。
「ねねるおねえたん?」
「ああ、やっぱり覚えておったのか。光栄だな。もっとも妾のほうはエセリアの身体を借りているから、面影は全く無いが」ネネルのときおり見せるその笑顔には、妙な冷たさすら見えてくる。
「……お前の物言い、わっかんねーことだらけだな」
「ふふ、それはお前が無知で愚鈍であっただけじゃ。しかしそれは武器にもなり、だが己の首を絞める結果ともなる。どちらかといえばお前は前者かな?」
「バカで悪かったなオイ。いいから全部教えろ」
いいかげんイライラしてきた。情報をこうやってひらひらとかわされるのは俺の精神衛生上よくねーんだから。
「それを愚鈍というのだ。物事には筋道というものがある、まずはそこからじゃな」
コイツがルースだったら頭の形が変わるまでぶん殴ってやるとこだった。ああダメだ、ネネルの得意な話術。抑えろ俺の怒り。
ではまず……と、ネネルは軽く咳払いした。
「先ほどダジュレイは天誅を受けるべき存在とも話したが……いや、それは間違いだ。あやつは殺してはいけなかったのだ」
はあ? なんでだ?
あのバケモノはパデイラの住民を一人残らず。さらには討伐に来た連中も喰っちまったってルースやマティエから聞かされた。それにマティエの角……いやそれより王妃の命まで奪ったようなもの。俺はともかくとして人間にとっては始末されるべき存在だろ? それがなぜ殺しちゃいけないって?
「お前にしては聡明な質問。だがな、ダジュレイ……いや、この城で暴れまくったナシャガルにせよ、お前たちが生まれる何千年もの太古の昔から、彼らはこの地で人間どもの発展を見続けていたのだ。つまり言うなれば……この世界の監視役。とでも言えばいいかの」
「マジかよ、やつら妙に達観した物言いしてたと思ったら……」
「知のダジュレイ。この大地の支えにして、あらゆる知をつかさどるマシャンヴァルの侍者。そう、それをお前たちはかくもあっさりと殺してしまったのだ!」
言い放つネネルの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
だが俺にはまだまだ理解できない。そんな偉そうな奴が何故パデイラで暴虐無尽な人喰いまでしやがったのか。
「パデイラは生贄の街じゃ。そもそもはセルクナ族が迫害を逃れ移り住んだ地……まあ今では王族しか知らぬ事実であるがな」
生贄だと!? つまりは、あの街はバケモノに喰われることが前提だったのか?
驚く俺を尻目に、ネネルは続けた。
「そもそもはセルクナこそが古来より知に長けた種族。ダジュレイが彼らを食うという行為は、彼らの肉体そのものから知を得るのが目的でもあったのだ」
聞いてて気分が悪くなってきた。勉強とかじゃなかったのか。人喰いで頭が良くなるって……
そして、あそこはタージアの故郷でもあったワケだな。だからこそ身体の紋様が光ってたのか。
「需要があっても供給がなければ必然的に滅びるのが定め。あそこで未来永劫根を張り生きることがあやつの生きる意味だった。それをお前が……!」
「分かったもういい、で、なぜあのバケモノを殺したら土に影響が出ちまうんだ?」
「お前も分かるだろう? 生き物を殺して放っておけば腐ってしまうことくらい。まさにそれじゃ。田畑に水をやる代わりに血を撒き散らせば土だって死んでしまう」
なんか変な例え話だけど、言いたいことは分かった……気がする。でも……
「挑発して俺たちを殺そうとしたんだぞあいつは。それをこいつが救ってくれたんだ。殺すなと最初に言われても無理だ!」
かたわらできょとんと俺たちを見つめるチビ……そうだ、こいつの謎の声がなければ、今ごろは。
いや、そもそもあの時のチビは一体なんだったんだ?
「この稚児に名前はつけてあるのか?」
「いや……ついてない。みんなチビとしか呼んでねえな」
ネネルがぷっと吹き出した。
「つ、つまり名無しのままずっとお前の子供でいたと……?」ああそうだ。としか答えようがなかった。実際フィンやマティエとかはうるさかったが、他の連中は普通にチビという名前のまま納得していたしな。
俺の名前がそうだったように。
「なるほど……ある意味それに助けられたのかも知れぬ。この稚児に名前をつけるということは、それ相応の意味を持たせねばならぬからな」
はあ……もういいかげん腹が立ってきた。あのバケモノ……ダジュレイとかいったな。つまりはあいつを殺したことは誤りだったことは分かった。奴の血がこのリオネングを、いや全土に染み渡っているということなのだろう。さらにはその血そのものが毒でしかないことが。
「ようやくわかったか、この……ッ」
俺は反射的にネネルの胸ぐらを掴んでしまった。
姫? もはやそんなことは俺には関係ない。今はこの女の謎かけみたいな物言いに対してそろそろ堪忍袋の緒が切れそうになってきたからだ。
「なんの真似だラッシュ!?」
「ああ? つまらん御託はもういい、さっさとお前が隠していることを答えるんだ!」
「隠してきたのはお前の方ではないか……? その稚児、いやチビの存在を!」
「えっ?」
「えっ?」
思わず変な声が出てしまった。それにネネルも。
そうだった……もう一度振り返れ俺!
ネネルが俺の前に来た時、チビはいつもトイレ行ったり寝てたりと、面白いほどに俺のところにいなかったじゃないか。
「それも……そっか」と、締めていた手を離す。
「はあ……お互いすれ違いがありすぎたようじゃな」
とりあえず悪くはないけど謝っておいた。まあこいつがひたすら俺の周りをかき回してきたのがそもそもの元凶かも知れないが。
「これから話すこと、お前に受け止める心はあるか?」やや息を荒げながらネネルは言った。この庭もかなりひどい臭いにつつまれてきたな……俺も苦しくなってきたし。
だから俺は「とっくにそのつもりだ」と大きくうなづいた。
押し殺した声で彼女は応えた。
「お前が大事にしているその稚児。つまりチビは……我が姉、マシャンヴァルの女王ゼルネーと、オコニド最後の王であるリューネ七世との間に生まれた子じゃ」
ネネルが口にしたその言葉。つまり、チビの両親は生きているということか!?
涙が出そうになっちまった。ずっとチビの親は死んでいたものだとばかり思っていたから。よかった……!
「お主も聞いたことがあると思うが、オコニドは我がマシャンヴァルに救いを求めた際、姉であるゼルネーは見返りとして王の血を求めたのじゃ。極上の、それも旧リオネングの血を引いているのだからこれ以上のものはない」
「で、お前のねーちゃんと王様との間にチビが生まれたってことか……」
だが、と一拍おいてネネルは続けた。
「その後、オコニド王の消息はどうなったかは分からぬ。血は大事だが命は毛ほどにも思わぬ姉上のことじゃ。恐らくそのまま貪り食ってしまったかも……な」
まあしょうがないか。こいつだって生きるためにエセリア姫を食った前科があるのだし。そのことについてあまり俺は驚きもしないが、ちょっとショックは隠せなかった。
「妾はまだこの稚児が生まれて間もないときに会ったのじゃ。姿形は変わってはいても、この身に染み付いたマシャンヴァルの匂いは覚えておったのだろう」
初対面だっていうのにチビはネネルにすっかり懐いている。ある意味俺とチビが初めて会ったときくらいに。そう、この二人は血縁関係にあったんだ……だったらチビを返すことだって。
「チビを母親に会わせることはできるのか?」
だがネネルは俺の言葉に大きく首を横に振った。一言「やめろ」と。
「最初に言わなかったか、ゼルネーはマシャンヴァルの女王。すなわちこの国……いや世界にとっての仇敵であることを。どんな理由があったかは分からぬが、恐らく誰かがこの稚児の身を案じてあの国から連れ出して逃亡したに違いないはず。妾だってそうしたいさ」
「身を案じて……ってどういうことだ?」
「マシャンヴァルの純なる血と旧王族の血が交わること……それはこの世界の存亡にも繋がることかもしれんのじゃ」
うん、スケールデカすぎて全然分からなくなってきた。いきなり世界って言われても、なあ。
「うん、えっと……要約するとこの稚児は新たなるマシャンヴァルの王になるべくして生まれた子なのだ。それがいかに危険なことだか分からぬとは言わせんぞ。その片鱗をお主も垣間見たであろうが」
言われて思い返してみた。
つまりは、パデイラでチビが何者かに憑依されたような状態に陥ったのも、つまりは……!
「稚児の精神はまだ素の状態なのじゃ……誰にも染まっていない反面、誰の手にも染めあげることができる。ダジュレイに致命傷を与えた件の力は妾にも分からぬが、恐らくはマシャンヴァルの侍者の一人であることは確かだろう」
「侍者って、つまりダジュレイみたいなやつが他にもいるってことか?」
「ああ……それがお前の使命じゃ。東の地に根を下ろしているズァンパトゥに会え。」
ズァンパトゥ!? また舌を噛みそうな名前が出てきたな。
「あやつはダジュレイと対をなす存在。大地を腐らす血もあれば、蘇生させる血もある。つまりはそういうことじゃ」
言ってる意味はさっぱりわからねーが、つまりはそのパトってやつを倒せばこのリオネングの地面も元通りになるってことか。
「愚か者。殺すのではない。請うのだ」
そう言ってネネルは、近くの机の中にあったナイフを手に取ると、おもむろに自身の長い髪をひとつかみ切り落とした。
「これをズァンパトゥに見せろ。稚児は分からなくともこの髪が使者としての証明になるはずじゃ」
軽く束ねた髪を、くるくるとチビの腕へとまるでブレスレットのように巻きつけた。
「もう、余計な血など流してもらいたくはないしな……」
……ってオイ、チビも連れていくのか!?
ネネルは切った髪を器用に編みながら、それをチビの左の手首に巻いた。
「なかなか似合うな」なんて子供っぽい笑みを見せたが、コイツのことだ、なにかウラがあるに違いない。
「なんなんだそれ?」そうだ、自分の髪を切るだなんてそれ相応に意味のあること。
「私からの使者であることをズァンパトゥにすぐ解らせるためのものだ、それと……」
巻かれた金色の腕飾りが、瞬く間に黒く……そう、黒髪に変化した。
「この稚児への干渉を可能な限り食い止めるための……言わば障壁代わりじゃ」
またなんかわからねー用語使ってるし。
「お前と話してるとほんと退屈しないな」
なんてあいつは言ってきた。ああ、それは俺も同じだ。
つまりショーヘキとは、見えない壁のようなものだとか。パデイラでのチビの謎の行動……あれが誰の仕業なのかは分からないが、とにかくこれはその手のことからチビを守る。すなわちお守りと思っておけばいい。そうネネルは付け加えてくれた。
「巡りあわせとは不思議なものじゃ。お主が通りすがりのただの人間なら、この子もこうはいかなかったものを……な」
「まだ謎かけか? 俺だったからチビは……」
突然、ネネルは俺の手をぎゅっと握りしめた。
エセリアの時とは違う。暖かな手が。
「いいか、よく聞けラッシュ」
え、一体なんだ? 真面目な顔で俺を見てきやがって。
「これは偶然ではない。お主がディナレの黒き衣の血を持って生まれ、そしてこの子に出逢えたこと……これはお主に課せられた運命なのじゃ。世界に関わるほどのな」
「黒き衣……前にも聞いたことあるなそれ」
ダジュレイだったかな? あいつも俺の運命だかをそれに例えて話していたっけか。
「自身の血を運命として受け止めるのだ……黒き衣としての己のさだめを」
ネネルの小さく薄い唇が、そっと俺に語ってくれた。
その言葉に、俺は何も言い返すことができなかった……
……………………
………………
…………
「それは本当か、ラザト……いや、ラザト近衛団長?」
トガリの就任式が滞りなく終わり、すっかり静まり返った城の一室に、マティエの驚きの声が響いた。
「ああ、すべては兄ィの……いや、ガンデ親方の日記に記してあった。しかも誰にも読めないように鍵までかけてな」
「つまり、このことは今までおやっさん以外知らなかった……と」
ふらふらとルースが壁にもたれかかった。まるでラザトの言葉に生命力を抜かれたかのように。
「これを話したのは今んとこお前たち二人だけだ。秘密にするのも話すのも自由だ。だが……」
「わかっている、この事は他の連中にも……いや、本人にも知られてはいけないことぐらいはな」
そう言ってマティエは暗くなった外に目をやる。
さっきまで城を明るく照らしていた月が、みるみる間に黒い雨雲に覆い尽くされていた。
まるで、彼らのこれからを暗示しているかのように。
「嘘だろ……ラッシュが、マシャンヴァルの末裔だなんて……」