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姫の疑念とパン屋の疑念

元より、身体を悪くするふりなんて造作もないことだった。
父である王が病に臥せったとき、心労のあまり倒れてしまった。理由なんていくらでも思いつくし。
それに、日に日に味の落ちてゆく食事を口にしたくもなかった。
それだけで「ああ、エセリア様はそれほどまでに心を痛めておられるのか」と、そんな噂話が城内をあっという間に駆け巡ってしまえば、もうこっちのものだ。
そう、全てが都合よく進んでくれる。

「姫様、もう三日も食事をとっておりません……本当に食べなくてよろしいのですか?」
「ええ……それよりリオネングの民に城の備蓄を少しでも多く分け与えてあげて、私には聞こえるの。みんなが空腹で苦しんでいる声が」

ネネルにとって人間の食事は必要なかった。
エセリアの高貴な生命を喰らったときから、すでに身体は満たされていたから。恐らくあと百年は飲まず食わずでも影響はないだろう。
それより問題なのは……王の生命ではなくここ一帯の土壌だ。
ある日を機に、突然土が痩せ細ってしまった。
エセリアのお気に入りの場所だったあの中庭の草花たちが、一日も経たずに全て枯れ果てたのだ。
同じく、ルースの薬草園も瞬く間に。

「まさか……な」部屋の窓から城下を見下ろす。
人間には分からない……が、彼女だけには感じ取ることができる、独特の臭気、そして視界を覆い尽くすほどの黒い煙のような障気。
そのままにしておくとすぐさま窓から侵入してしまいそうで、彼女は即座に全ての窓を閉めた。
わずかな黒い障気に大きく咳き込みながら。

寝巻きのまま書斎の椅子に腰掛け、高い天井を見上げる。
「シェルニが嬉々として私に話していたパデイラの魔物の討伐譚……‬間違いない。あそこにいたのはダジュレイ。つまりはやつはラッシュとあの角なしの大女に殺されたということか」
突然、ネネルは思いついたように机の引き出しを開け、一冊の厚い本を取り出した。
あちこちが焼け落ち、ページをめくるたびに焦げ落ちた箇所がちぎれていく。
「しかし……‬ダジュレイは不可侵の掟を守っていたはずだ。自身がなにもしない代わりに、何物も奴を傷つけることができない。そうだ、あやつにはそうしなければいけない理由がある」
姫は軽く舌打ちして、傷んだ本をまた収めた。
「なぜあやつを殺してしまったのだ……‬ともすればこれはこの国、いや全土に影響が及ぶことになりかねん。一刻も早くあの者の……‬ズァンパトゥの力を借りなければ」
ネネルは軽く手を叩き、侍女の一人を呼び寄せた。
「姫様、いかがなされましたでしょうか?」
「ああ、今日はだいぶ調子が良くなってきてな。だがお腹がひどく空いて……‬たしか出入りのパン屋がおったはずだ、彼に持って来させてはもらえぬか?」
「出入りのパン屋……‬あのイーグとかいう獣人ですか?」
「ああ、彼の作るパンが無性に欲しくなってきて。それに備蓄の小麦も渡すよう手配も取っておきたい。頼めるか?」
やや困惑しながらも、彼女は駆け足で去って行った。
大丈夫。私のいうことは絶対だ。程なくしてイーグを連れてくるだろう、と。

「不可侵の掟を破れるほどの力を持った存在……‬か。ラウリスタの聖鋼よりも強固な力を持つものなどこのリオネングに……‬!?」
まさか、と、ネネルは息を呑んだ。わずかに唇を震わせながら。
「あの子供か!? いやそんなはずはない、第一あの子煩悩なラッシュがパデイラにまでわざわざ我が子を連れてゆくような真似なんて……‬」
透き通るほどの金色の髪を掻き上げながら、震える小さな声が漏れ出ていった。

「目醒めてしまったのか……‬」
⭐︎⭐︎⭐︎
やれやれ、またワガママ姫様の呼び出しかよ。なんて半ば呆れながらも、王室御用達のパン屋=イーグは姫の部屋へと続く長い廊下を歩いていた。
とはいえ、ここまで自分の仕事がヤバくなるだなんて全然思ってもみなかった。
魚と肉さえあればどうにかなるだろって? バカなこと言うな。
穀物も野菜もなければ、肉体が徐々に不調を見せてくる。それは過酷な戦場で身をもって知ったこと。
最悪の場合は、死。
そう、いまのリオネング全土……たいして大きくもないこの国だが、半月前くらいからだろうか、突然田畑をはじめとする土壌が腐り始めてきたのだ。

それをいち早く感じ取ったのが、イーグたち獣人。
なぜかって? 基本的に獣人は靴を履くことがない。ゆえに土の悪さがすぐに感じとれたからだ。
ぬかるみのような……いや、もっと現実的な言い方をすれば「地中奥深くに腐った死体がたくさん埋まっている」。おびただしい死体を、一面の視界を覆い尽くすほどの戦死した仲間を埋めてきたイーグにとって、その例えこそが唯一無二であった。

「だけど、百歩譲って田畑の奥深くに死体が埋まってるとして、一斉にそれが腐り出すか普通?」
「ところが、それが正解なのじゃ」
やや固くなったパンに盛大にかじりつきながら、ネネルことエセリア姫はそうイーグに答えた。
平然とした顔つきで。
「やはりな、パンの質も味もかなり落ちたな」
「分かるだろ? 俺っちが説明しなくても」
腐り果てた土は特有の障気を発し、それは根を張る草木だけでなく、倉庫に保存してあったジャガイモや小麦たちをも瞬く間に腐らせていったのだ。
「幸いにもまだこの城に備蓄してある小麦たちは無事じゃ。これから少しづつでもお前の店に持って行くがいい。もう許可は取ってある」
「すまねえな姫様……だが持ってきたらさっさと挽かなけりゃならねえし、当分はお城と家の往復だな」
「いいではないか。妾も民の動きを知りたいしな。つまりはお主の情報を毎日聴けるのは心強いし、それに嬉しくもある」
「まあいいけどさ、こっちもこんな事態でかなり暇になったし……で、その、土腐れの原因って一体なんなんだ?」
ネネルは悪びれる素振りもなく「ラッシュとマティエたちの仕業じゃ」とすぐさま答えた。
「マジかよ……」ネネルの顔とは裏腹にイーグの息がぐっと詰まる。

「パデイラという、今では廃墟同然の街があってな、そこでデュノの奴が調査に行きたいと言いおったのだ。理由は簡単。あの高慢ちきな角無し羊が、自らの忌まわしき過去を断ち切りたいと言い出したのがことの発端らしい……」
獣人というのは思いつきでしか行動できんのか。と、ネネルは大きなため息で締めくくった。

「ンで、なんでまたパデイラにまで行こうとしたんだ? 姫さんの話すことにゃまだまだ裏がありそうな気がしてならねーんだけど」
「土喰らいのダジュレイ……そこには我がマシャンヴァルの高次の侍者がおった」
人間がいるのか? とイーグは言葉を遮ったが、姫はすぐさま「現生の存在ではない」と言葉を濁した。
姫の小さな唇が、またとつとつと言葉を紡ぐ。

「有ろうことか、お主らの仲間はダジュレイを殺してしまったのじゃ」
「ふん……ダジュレイって名前からして危険そうじゃねーか、それにマシャンヴァルの奴だろ? 殺したって別に……」

違う! と即座にネネルは鋭い声をイーグに放った。

「高次と最初に言ったであろう、つまりは……」
胸の前で拳をぐっと握り締め、あふれ出そうになる感情を押しとどめた。

「ダジュレイは、この世界の大地を常に見守っていたのじゃ!」
「え、ええ……ちょっと待てよ姫様、なんでそんな奴が神様みたいな事してるワケ? 第一マシャンヴァルって……」
「お主、マシャンヴァルが湧き水のように突然出てきた国だと思っておるのか? だとしたらそれは思い違いじゃ。よく聞け!」
ネネルの気迫に圧倒されたイーグは、思わず椅子から転げ落ちてしまった。
これは怒りだ。別に怒らせるようなことはなにも言ってないけれど……ヤバい、それほどまでの、初めて見る姫の、静かな怒り。


「……我がマシャンヴァルは、この世界に最初に誕生した存在なのだ」

驚くだろうと確信していた。だが……
「え、それってどーゆーこと?」
「いや、だから、その、つまり……お主たち獣人や人間どもがこの世界に誕生するよりはるか昔にだな、我々マシャンヴァルはすでにこの地にいたのであって」
「そんなワケねーよ。俺たちは神様が作ったんじゃなかったのか? 教会でそう習ったんだけど」

ネネルは悟った。ああ、この手の朴訥なやつには本当の世界の誕生のことなど話しても無駄だと。
自分の話すことより、あくまでもコイツらは教会で説かれたものを信じているのだ……と。
「あ……うむ、今のは、その、マシャンヴァルで受け継がれた伝説をお主に話そうとしただけじゃ。忘れてもいいぞ」
ネネルの額に、どっと汗が流れ出た。
恥ずかしかったのか、それともしくじったのかは分からない。
しかしここから話そうとした計画が出だしからつまづいてしまったことだけは事実。

だとしたら、どうするべきか。

「イーグ。悪いがまたラッシュを呼んではくれぬか?」
計画変更だ。まだあの男の方がこのパン屋とは違ってディナレの教えにも毒されてはいないだろう。少々あいつを呼ぶには気がひけるのだが、しょうがない……と。

「ラッシュだったら、明日には城に来るぞ」
「なにいいいい!?」イーグの言葉に、思わず姫らしからぬ声が出てしまった。

なんでも、今回の食料危機についての会議が街の商店会でされたらしく、そこでラッシュの相棒……つまりは、あのモグラの、砂漠の民ことアラハスのトガリの意見が採用されたらしい。
普通はそこで終わるはず……だったのだが、なんせ今はリオネング国全てを巻き込む緊急事態。
この中で城に通じてるものといえば……

「ああ、俺っちがトガリの意見を陳情したんだ。ここのお偉がたは俺っちの姿見るなりすぐに反対しやがったけどな。ちょっと睨んだら途端に手のひら返しやがった」
「ほ、本当にそれだけかイーグ? 睨んだだけでほかに何もしてないな?」
それ以上は秘密な。とパン屋は満面の笑みで返しては来たが……ネネルは察していた。

まあ、絶対にそんなワケはない。第一コイツの戦場でのあだ名は「音無しのイーグ」。
故郷マシューネの国では知る人ぞ知る斥候……いや、アサシンとして知られた男だ。リオネングの傲慢極まりないお偉方にどんな手を使ったかは不明だが、おそらく脅し……いや、脅迫にも似たエグい手段を使ったに違いない。
さらにはルースにも手回しを……いや、それは取り越し苦労か。
だが、それはそれで内心彼女にとっても嬉しかった。何よりもラッシュに会えること、それだけが。

「でもってさ、なんでかわかんねーけどトガリの計画がすいすい通っちゃって、オマケにあいつ、臨時に大臣職にまでなっちまったんだ」
「なにいいいい!?」また変な声が出てしまった。

「まああくまで臨時職ってことだけどな。けど王子がきっちり任命式をやりたいってことで、それが明日ってことなんだ」

明日……か。
つまりは決心だ。自身の全てをラッシュに説明しなければ行けない。
だが、あいつはそれを許してくれるかどうか。
また、ネネルは大きなため息が部屋に漏れ落ちた。

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