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冷たい手と手

ぎゅっ、と差し出されたその手を握りしめる。
ほとんど力は残ってはいない。それどころかまるで鉄のような、芯まで冷え切ったその手。
「どうですか父上、お身体のほどは」かける言葉すらも気休めにしか過ぎないということは分かっていた。
分かっている。全ては薬のおかげでどうにか細い命を繋ぎ止めていたことを。
だがそれもどうやら限界が来たようだ。
胸を病んで、もうその口からは温かな言葉すらも出てはくれない。
「シェルニ……‬」振り絞った力で、かすれゆく一言を紡ぎ出す。

私はもう長くない、天から母さんが迎えに来てくれているのだ。ほら、そこに。と。

枯れ枝のように細く痩せ、節くれだった人差し指がベッドの隅を指した。
だけど王子にはそれは見えるわけでもなく。
「もうすぐタージアが新しく調合した薬を持ってきます。それさえあればまた元気になれますよ。父上」
しかしその言葉に応えてはくれなかった。いや、もう誰の姿も見えていないのかもしれない。
「思えば、パデイラでの一件以来……‬」また、あの頃の思い出話か。と王子は思い返していた。
弱々しく口を開けば、その当時の思い出を、まるで今帰ってきたかのように詳細に話す。
なにも見えない、なにも感じられないんだ。父の心はもはや遠い過去にしかいない、ということを。

「王子、薬師のタージアがお見えになられました」
側近の一人が、シェルニにそっと耳打ちした。
「変なことは言ってないだろうな、ブスカン」
「は、はい……けど王の前ではあのみすぼらしい身なりはいささか……」
いいんだ、彼女はそれで。とため息混じりに側近の男をたしなめた。
大きく、そして厚い木で作られたドアの前には、薄汚れたエプロンと、ひざ下まで届く白衣に身を包んだ少女が、ずっと足元を見続けたまま立ちすくんでいた。
その手には銀製の盆と、小さなお茶のセットが。

「すまないタージア。ここまで呼んでしまって」
よく見るとお盆を持ったその手は、小刻みに震え、皿に乗ったカップがかちゃかちゃと小さな音を立てている。
「だだだだだ、大丈夫ですわわ私はその慣れてこういう場所は初めてなもので」緊張で震えたその口は、もはや文法すら成していなかった。
「ルースとマティエはまだ当分書庫から出られそうにもないからね……例の件で」
「れ、例の怪物のことですよ……ね?」
タージアもその目にした、ダジュレイというあの異形の怪物。
最初は調査だけで済むはずだった。だが、そこに奴はいたのだ。
間接的にだが王妃の命を奪い、さらには師団を壊滅させた、あの憎っくき怪物。
「直接私が仕留めたかった……奴はリオネング全ての仇みたいなものだからな。けど嬉しいよ。まあできたらそいつの首でも携えてきてもらえたら良かったのだけどね」そう言って、王子はタージアの肩にポンと手を乗せようとした……が、寸前で止まった。
忘れていた、彼女は極度の人間嫌いであるということを。

⭐︎⭐︎⭐︎
煎じた薬を、タージアはそっと王の口元へと運ぶ。
「い、いいのですか毒見もせずにあの小娘になど」
それを見た側近のブスカンが慌てて止めようとした。
「いいんだ、彼女は信頼できる」
王子は彼女の姿を見て、初めて出会った時のことを思い出していた。
あれは三年くらい前のことだったな……と。
確か、ルースが新たに助手を迎え入れたという話を聞いて、自身も一目その姿を見ようと薬草園まで赴いたんだった。
侍女に嘘をついて一人こっそりと向かった……のだが、そこにはルース一人しかいなかった。

黙々と摘んだ薬草をノートに書き写しているルースに話しかけようとした時だった。
「シェルニ、そこから動かないで」って、彼はしーっと口元に人差し指をあてて言った。
目を凝らすとそこには、薄汚いコートに身を包んだ……
「女の子かい?」
「うん、でもそれ以上は聞かないでくれるかな」
そう、彼女を知ったのはその時。一心不乱に種を蒔いていた彼女。
逆にいえば、それだけしか彼女=タージアを知らなかったのだ。
いつか話しかけよう、けどなにを? と、自身に問答し続けてたまま、月日は去っていった。

そして自分もこっそり調べていた。
彼女が、失われし古代の民であるセルクナ族の末裔であることを……

「きゃっ!」突如、タージアが短い悲鳴が、王子を現実へと引き戻した。
急いで彼女の元へ駆け寄ると、あろうことか王がタージアの腕を掴んでいた。
「エリタール……」王の口にしたそれは、亡き母の名前。
「陛下落ち着いて! 彼女は奥方様ではありません!」
「父上! 手を離してください!」
ブスカンと二人で掴んだ手を離そうとするが、この痩せ衰えた腕のどこにそんな力が残されていたのか、三人がかりでようやく引き剥がすことができた。

「あ、あの、エリタールさんって一体……?」
「そうか、知らないのも無理はない……亡き母上のことだ」
薬のせいで幻覚でも見たのだろうか……いや、まさかなと思い、シェルニはいま一度王の姿を見た。
わかる、さっきまでとは違う。
目に生気が戻ってはいるが、見ているのは我々ではない。となると……

「シェルニよ」王の唇が、彼の名をしっかりと口にした。
「父上、お気づきになられたのですか!?」
目の焦点が定まっていない。おそらくなにも見えてはないのだろう。だが確かに名を呼んだ。
王子としてではなく、息子として。
ぎゅっとその手を握るが、やはり氷のように冷たいまま。
「母さんに……会えた」
「い、いや父上……いまそこに居たのは母上では」
「教えてくれたのだ……あのパデイラの街。全ての元凶が神の者によって討たれたことを」

「え、それは……!?」シェルニが驚くのも無理はない。王にはあの異形の怪物、ダジュレイを倒したことなど一言も告げていなかったのに。
しかも、神の者とは一体……
「私……いや、エリタールも彼奴の死によって重き枷から解き放たれたのだ。もう思い残すことはない」
「そんなことおっしゃらないで下さい! 父上はまだまだ大丈夫です。ともに白髪となるまで、この国を……末永く見ていかなければ!」
「願わくば……」だが王はシェルニの言葉に答えることはなかった。
「お前の良き伴侶を、この目で見ておきたかった……」

「伴侶……」ふとその時、シェルニの視界の隅に彼女が、タージアの姿が飛び込んできた。

そうだ、あのとき……彼女にかけたかった言葉。
この場でそんなことを言っていいものか?
いや、いま言わなければ、自分は一生後悔してしまうに違いない。
勇気を出せ……シェルニ!

「父上、おります……ここに!」
張り裂けそうな胸の鼓動を押さえながら、王子はタージアの手を取り、王のその手に置いた。
「え、王子!?」

「ここにいる薬師タージア、彼女こそが……」
緊張でカラカラに乾いた喉の奥から、その一言は紡がれた。
「私の求めし女性「あの、王子?」」
「ブスカン、今はそれどころでは!」

「この娘、立ったまま失神しておりますが……」

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