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5話 バラ園に漂う香り

「とろっと柔らかい果肉、舌で潰すと迸る果汁、鼻へ抜ける甘い芳香……やっぱり桃は最高よね」



 頬をピンク色に染めて、シルヴェーヌが桃のタルトを咀嚼する。

 もくもくと動く産毛の生えたほっぺこそ、桃のようだとガブリエルは思った。



「腕利きの菓子職人を雇ったと、料理長が自慢していました。またシルヴェーヌさまに、厨房へ遊びに来て欲しいそうですよ」

 

 ロニーがシルヴェーヌのために、次の桃のタルトを切り分けている。

 そろそろガブリエルが、桃のタルトを欲しがる頃合いだ。

 ちゃんとシルヴェーヌが、ひと切れ目の桃のタルトを堪能するのを、大人しく待っているのだ。

 ある程度、シルヴェーヌのお腹がいっぱいになった辺りで、やはりガブリエルが強請った。



「シル、僕にも食べさせて」

「ガブはどっちが好き? クリームがたっぷりな先端と、ざくざくのタルト生地の端っこと」



 シルヴェーヌは10歳になったが、相変わらずカトラリーの共有を嫌がることなく、9歳のガブリエルに自分のフォークで食べさせている。

 ここ数年の、ガブリエルの目を見張る回復は、そのおかげもあるだろう。

 多年にわたりガブリエルを診てきた医師たちも、奇跡を目の当たりにして驚嘆していた。

 シルヴェーヌの体質を研究させて欲しいと、頼み込んでくる者もいたが、ガブリエルが許可をしなかった。

 大好きなシルヴェーヌを、独り占めしたいからだろうとロニーは思っていたが、そうではないらしい。



「シルは自分の匂いが、相手にどう思われるのかを気にしてる。だから知らない人に会うときは、とても緊張するみたいだ。そんなシルを、実験台にするなんて駄目だよ」



 単純に、シルヴェーヌが嫌がりそうなことを、させたくないがためだった。

 シルヴェーヌ限定ではあるが、たどたどしい思いやりを見せるようになったガブリエル。

 ロニーはそんな姿に感服する。

 自分より年上の使用人たちに傅かれ、傲慢に育ってもおかしくない身の上なのだ。

 しかしそれに反して、三年来の話し相手であるシルヴェーヌを、ことのほか大切にしている。



(自分よりも大事にしたい相手がいるというのは、情操的に幸せなことですね。殿下はそういう意味では、恵まれていると言えるでしょう)

 

 体や頭だけでなく、ガブリエルの心も確実に成長を遂げていた。



 ◇◆◇◆



 10歳から歩行訓練が始まったガブリエルは、シルヴェーヌを倒してはいけないと、専用の器具を使うようになった。

 当初は、医師に器具の使用を提案されて嫌がっていたが、ガブリエルの手を引くシルヴェーヌが転倒に巻き込まれ尻もちをつき、「いたた……」と言った瞬間に主張を覆した。

 シルヴェーヌは治りやすい体質ではあるが、怪我をした瞬間の痛みは感じるのだ。



「シルは離れて見ていて。僕、これで歩いてみるから」



 それからは、ガブリエルの背丈に合わせて作られた平行棒に腕を乗せ、一日にそれを何度も往復した。

 やり過ぎはよくないとロニーが止めるまで、汗だくになりながらガブリエルは訓練を繰り返す。

 シルヴェーヌは頑張り屋なガブリエルを励まし、歩く最中に滴る汗をこまめに拭いてやった。

 

 その翌年には、支えがあればガブリエルは方向転換ができるようになり、さらには低い段差であれば昇り降りが可能になった。

 もう部屋の中だけでは狭いので、離宮の中を歩いている。

 ロニーの腕を借り、シルヴェーヌと並んで、美しく飾られた玄関ホールや、にぎやかな厨房まで、ゆっくり歩くのがここのところのガブリエルの日課だ。

 大きな本棚の前にひとりで立ち、次にどれを読むかシルヴェーヌと話し合うガブリエルの姿を見て、こっそり離宮へ見舞いに通っていた国王が、涙を流して喜んでいたのを知るのはロニーだけだ。

 

「僕、シルのいる世界に近づいてる?」

「私のいる世界?」

「シルが伸び伸びしている世界だよ。木登りしたり、魚釣りしたり。早くその世界に、僕も行きたいんだ」



 ガブリエルはそう言って、窓から外を眺めた。

 シルヴェーヌはその切ない表情に、胸をしめつけられる。

 

「今度、私と外を歩いてみようか?」

「僕、歩けるかな? 室内と違って、地面が平らじゃないんでしょ?」

 

 少しの不安をにじませるガブリエルに、シルヴェーヌはいつもの笑顔で答える。



「怪我も学びだって、ばあやは言ってたわよ。失敗したら、次は失敗しないように、気を付ければいいんだから!」



 心強いシルヴェーヌの言葉に、ガブリエルは頷く。

 そして、シルヴェーヌが12歳になった日に、ふたりは初めて離宮の外へ出た。



「いい天気ね、空が青いわ」

「窓から見上げるのとは違うね。果てがなくて、少し怖い」

「じゃあ地面を見るのはどう? 私、こう見えても虫には詳しいのよ」

 

 ばあやに教わった虫の名前と知識を、シルヴェーヌはここぞと披露する。

 あまり虫を知らないガブリエルは、戦々恐々とそれを聞きながら歩いた。

 引率するロニーがお勧めしてくれたのは、バラ園へ続く比較的なだらかな小道だ。

 ときおりロニーの腕を借りながらも、ガブリエルはなるべくひとりで歩いた。

 時期が良かったのか、バラ園は多くのほころびかけた蕾で華やいでいる。



「シルは何色のバラが好き?」



 ガブリエルはそのバラを摘んで、シルヴェーヌへの誕生日プレゼントにしようと思っていた。

 よく物語の挿し絵の中でも、王子さまはお姫さまへ、バラを一輪さしだしている。

 跪くポーズは難しいけれど、ぜひ挑戦したいとガブリエルは密かに考えていた。

 

「どのバラも素敵で、決められそうにないわ」



 色とりどりのバラに囲まれ微笑むシルヴェーヌは、春の女神のように美しい。

 ただし体からは、バラとは似ても似つかぬ匂いがする。

 離宮では、そんなシルヴェーヌを非難する者はひとりもいない。

 だから安心していたのだが、背後から予想外に甲高い声が飛んできた。



「まあ、これは一体どうしたことでしょう!」

「いつもは芳しいバラ園なのに、今日は異臭がしますわね……」

「あちらから、漂ってきているのではなくって?」



 棘のある言葉に振り向くと、扇で鼻を隠した女性たちの集団があった。

 シルヴェーヌもガブリエルも、それらが誰なのか分からない。

 しかし隣にいたロニーが、すぐに腰をかがめて顔を伏せた。

 その際に二人へ、小声で伝えてくる。



『真ん中にいらっしゃるのが王妃殿下です』



 姦しい取り巻きたちに囲まれ、差し出された日傘の下でこちらを睨みつけている女性は、髪の色も瞳の色もガブリエルと同じだった。

 だが、11歳のガブリエルは母親の顔を知らない。

 たまに面会に来るのは国王のみだ。

 王妃は一度たりとも見舞ったことがないのだから、ガブリエルが悪いわけではなかった。

 

「挨拶もできないのですか?」



 高飛車な態度で王妃が口を開いた。

 それは自分の息子に対してというよりは、臣下へのものに近い。

 恐縮したシルヴェーヌは、ロニーに倣って腰を落とし顔を伏せる。

 だが、ガブリエルはそうしなかった。

 いつまでも、背筋を伸ばして突っ立ったままのガブリエルに、王妃は目を吊り上げる。



「なんて礼儀知らずな」

「礼儀知らずはどっちですか? この離宮は僕の住まいです。そこへ勝手に大勢で押しかけて、言いたい放題。躾けた親の顔が見てみたいですね」



 本を読むようになってから、ガブリエルの語彙は増えた。

 そして王妃へ言い返す声音は、いつもシルヴェーヌに甘えているガブリエルと、同一人物には思えない苛烈さだった。

 切れ味の鋭い反論に、取り巻きたちが息を飲んだのが分かる。

 しかし王妃は、ガブリエルの口撃にまんまと乗せられはしない。

 

「それはこちらの台詞、と言わせたいの? 翻って、私を責めているのでしょう?」

「責められるだけのことをした自覚があるから、そう思うんですよ」

「私は王妃よ。この王城において、私が足を踏み入れてはいけない場所などないわ」

「それは傍若無人な振る舞いをしてもいい理由にはなりません」

 

 二人の間に一触即発の火花が散る。

 王妃はガブリエルから、頭を下げ続けているシルヴェーヌへ視線を移した。

 とても耐えられないという表情をつくり、憎々しげに言い放つ。



「悪臭を放つ令嬢などを側に置くから、鼻持ちならない子に成長したのでしょうね」

「成長できただけ、ましでしょう。あのままでは、僕は死んでいました」



 放置した王妃の所業を詰るガブリエルに、ついに堪忍袋の緒が切れたようだ。

 パシッと手に打ち付けて畳んだ扇を、ガブリエルの鼻先に突きつけ、恐ろしく低い声で叱責する。



「生意気な! お前は王家の汚点です! 役立たずなら役立たずらしく、離宮へ閉じこもっていればいいものを! これ見よがしに庭を歩くなど、目障りでしかないのよ!」

「そんな汚点の製造元は誰ですか? 文句があるなら、そちらへどうぞ」



 王妃の手に握られた扇が、ミシリと嫌な音を立てた。

 青筋を立てて憤怒している王妃を、周囲にいた取り巻きたちがなだめ始める。



「王妃さま、相手にしてはいけませんわ」

「そうですよ、こうした輩には王妃さまの愛情深さなど、伝わらないのでしょう」

「さあ、陽が高くなってきましたわ。木陰へまいりましょう」



 やや無理やりに、取り巻きたちは王妃を連れて行く。

 いつまでもガブリエルをねめつけていた王妃の姿が消えると、場の空気がふっと軽くなった。



「シル、頭を上げていいよ。ずっとその姿勢で、きつかったでしょ?」

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