4話 僕だけのお姫さま
「これには、私が育てたニンジンが入っているの。おろし金で擦り下ろすのも、厨房で手伝ったんだから」
シルヴェーヌの手元にあるのは、大きく切り分けられたキャロットケーキだ。
たっぷりニンジンが含まれているため、断面は鮮やかな橙色をしている。
料理長から栄養価の高い食材として、いろいろな緑黄色野菜を教えてもらったシルヴェーヌは、ガブリエルに食べてもらおうと離宮の庭の片隅でニンジンを育てた。
シルヴェーヌは知らない。
ガブリエルが一番嫌いな野菜が、ニンジンであると。
あえてロニーが、その事実を黙っていたからだ。
「皮に栄養があるんですって。だから土をきれいに落として、皮ごと擦っているのよ」
色が濃いでしょう? とにこやかに語るシルヴェーヌと、目をさ迷わせるガブリエル。
料理長もメニューから外していたニンジンが、今まさに、シルヴェーヌの手によってガブリエルへ差し出されようとしている。
シルヴェーヌが離宮へやってきて、すでに一年近くが経った。
その間、ガブリエルは目に見えるほど回復し、今では自ら体を起こすことができる。
もう少しすれば、立つ練習も始めようかと医師とも話が進んでいた。
だから体を強くするためにも、いろいろなものを食べられるようになって欲しい。
そう願ったロニーは、シルヴェーヌに賭けた。
「……先に、シルが食べて見せて」
少しでも時間を稼ごうとしたのか、ガブリエルがそんな我がままを言う。
シルヴェーヌはそれくらいでは機嫌を損ねたりしない。
「じゃあ特別な食べ方を教えてあげる。お行儀が悪いって言われても、ガブは病気なんだから平然としていていいのよ。そして私はガブに教えるために、お手本として食べているんだから、もちろん私も怒られたりしないわ」
これはね、風邪を引いた子にケーキを食べさせる方法なのよ、と言いながら、シルヴェーヌはキャロットケーキに牛乳をかけた。
ロニーは咄嗟に上がりかけた声を飲み込む。
それほど、この作法に仰天したのだ。
またしてもロニーの常識が葛藤を始める。
果たしてこれは、王族が覚えてもいい食べ方なのかどうか。
「牛乳を吸わせて、飲み込みやすくするの。ケーキだけだと、口の中がぱさぱさするから」
シルヴェーヌは、フォークで食べやすい大きさにしたケーキを、ぱくりと口へ運んだ。
生地に染み込んだ牛乳がじゅわっと口の中に広がって、ほろほろと崩れるキャロットケーキにしっとり感を与える。
「ん~! これこれ! 絶対に、ばあやにしか見せられない食べ方!」
目を細めて、次の一口分を切り分けていたシルヴェーヌに、こくりと唾を飲む音が聞こえた。
顔を上げると、物欲しそうなガブリエルが、シルヴェーヌの口元を見ていた。
牛乳に半身浴しているキャロットケーキは崩れやすく、なるべく早く食べなくてはならない。
「ガブも食べたい?」
「……うん」
「じゃあ、大きく口を開けてね」
シルヴェーヌは牛乳が滴るキャロットケーキを、フォークに刺して持ち上げた。
身を乗り出したガブリエルは、それを頑張って口に含む。
片頬を膨らませ、もっもっと咀嚼している姿は、完全に小動物だった。
「どう?」
「ん、美味しい」
大嫌いなニンジンが入っているキャロットケーキは、驚くほど食べやすかった。
シルヴェーヌが幸せそうに食べるから、誘われるように欲してしまったが、その事実にガブリエルが一番びっくりしている。
「ニンジンには、風邪をやっつける効果があるんだって。きっとガブの体にもいいと思うよ」
ガブリエルを慮ってくれるシルヴェーヌの気持ちが温かい。
わざわざニンジンを育ててくれたのだって、嬉しくてたまらない。
トクトクと、いつになく早く脈打ち始めた心臓が、ガブリエルの胸の内を物語っていた。
「まだ食べられそう?」
「うん」
甘えるガブリエルの口へ、シルヴェーヌはせっせとキャロットケーキを運ぶ。
みるみる顔色が良くなり、精気に満ちてきたガブリエルを見て、ロニーはひとつの仮説を立てた。
(もしかしたら、シルヴェーヌさまの癒しの力は、体臭だけでなく体液にも宿っているのではないでしょうか? 以前、シルヴェーヌさまの食べかけのりんご飴を齧った殿下も、活き活きしていましたし……)
それ以降、シルヴェーヌの食べているものを横から欲しがるガブリエルを、ロニーは見逃すようになった。
決してマナー的には褒められる行為ではないのだが、今は少しでもガブリエルに食べてもらいたいし、シルヴェーヌの体液を摂取できる機会はそんな場面しかないからだ。
幸いなことに、シルヴェーヌはカトラリーを共有するのを嫌がっていない。
(その行為に恥じらいを覚える年頃になるまで、どうかよろしくお願いします)
ロニーは陰で、シルヴェーヌへ頭を下げた。
◇◆◇◆
7歳のガブリエルが、長い時間起きていられるようになると、医師から家庭教師をつけてはどうかという話が出た。
成長が必要なのは、体だけではない。
「字を覚えると、本が読めるのよ」
「シルは本が読めるの?」
「ううん、私には家庭教師がつかなかったから、字を習っていないの」
「だったら、僕と一緒に勉強しよう」
そんな流れで、これまで自由奔放に育ってきたシルヴェーヌは、初めて教育を受ける好機に恵まれた。
ロニーが用意してくれた筆記具や帳面を見て、シルヴェーヌは顔をほころばせる。
「誘ってくれてありがとう、ガブ。私ね、妹が絵本を読んでいるのを見て、実はうらやましかったの」
「シルの妹は本が読めたの?」
「妹には家庭教師がついていたからね」
ガブリエルは、シルヴェーヌが体臭のせいで、隔離されていたのを知らない。
どうして姉妹間で違いがあるのだろう、と思ったが、自分も第一王子である兄とはずいぶん違う扱いをされている。
だから深くは考えずに、そういうこともあるのだと納得した。
「寝る前に、ばあやが物語を読み聞かせしてくれたんだけど、あまり長く読むと持病の喘息に良くないの。だから先が知りたくても、もっと読んでとお願いするのを我慢をしていたわ」
「字を覚えたら、その物語を僕と一緒に読もう」
「そうね、ガブも好きだといいわ。お姫さまと王子さまのロマンチックなお話なのよ」
王子さま? とガブリエルが自分を指さして、きょとんとする。
「そっか、ガブは王子さまだったわ。じゃあ、いつかパーティで、お姫さまとダンスを踊るのね」
「……シルはお姫さまじゃないの?」
「私はお姫さまじゃないわ。だけどガブと踊れるのなら、喜んでお相手を務めるわよ!」
ふたりの微笑ましい会話に、ロニーが加わってきた。
「殿下の体が丈夫になれば、私がダンスをお教えしますよ。男女どちらのパートも踊れますから、シルヴェーヌさまもぜひ、ご一緒にどうですか?」
8歳のシルヴェーヌにとって、夜に催されるパーティや男女で手を取り合い踊るダンスは大人の象徴だ。
ロニーからの夢のような申し出に、きらきらと瞳を輝かせるシルヴェーヌを見て、ガブリエルも俄然やる気を出す。
「僕、丈夫になる!」
健康への意欲を出したガブリエルは、成人までは生きられないと匙を投げられた過去などなかったように、それからますます回復していくのだった。
◇◆◇◆
9歳のシルヴェーヌの両手の上に、8歳のガブリエルが両手を乗せて、ふらふらする体をなんとか制御しようとしていた。
「いい感じだよ、ガブ。今までで一番、長いんじゃない?」
「んっ……」
ガブリエルが倒れそうになると、ロニーが助けに入る。
一度、この状態でシルヴェーヌと共倒れになったからだ。
「かなり足の筋肉がついてきましたね、殿下。これだけつかまり立ちが出来れば、歩けるようになるのもすぐですよ」
つかまり立ちの練習をしたあとは、ロニーがガブリエルの全身をマッサージする。
脚だけでなく、いろいろな場所の筋肉がこわばるし、筋を伸ばしたり関節を回したりする必要があるからだ。
シルヴェーヌも手伝おうとしたが、ガブリエルが恥ずかしがったので諦めた。
「座ってる状態から立ち上がるのも、とても上手になったわ」
シルヴェーヌに褒められて、うつぶせになり体中を揉まれているガブリエルが、枕に顔を押しつけて嬉しそうに笑う。
「早くシルと、ダンスを踊りたいから。それが、僕の目標なんだ」
耳と顔が赤くなっているのに、ガブリエルは気づいていない。
シルヴェーヌと一緒に読んだ物語の中では、王子さまがお姫さまを優雅にエスコートし、華麗なステップでダンスを踊っていた。
ガブリエルがその状態になるには、あと何年かかるか分からない。
しかし、ガブリエルは諦めるつもりはなかった。
挿し絵の王子さまとお姫さまは、とても仲が良くてお似合いだった。
そして物語の最後に、ふたりは結婚する。
(僕もシルと結婚したいな。そしたらずっと、一緒にいられるんでしょ? シルはお姫さまじゃないと言っていたけど、僕だけのお姫さまになってくれないかな)
幼な心に、ガブリエルはシルヴェーヌへの想いを、大切に育てていた。