60話 右に出る者がいない
「くそっ! どうしてこうなったんだ!」
マティアスは取り巻きの一人の馬に相乗りし、追手から逃げていた。
(資金調達に成功し、兵士たちの装備を整えた。俺が皇太子になる日が近づいて、取り巻きたちの士気も上がっていた。昨日まで、何の問題もなかったはずだ!)
とくにマティアスの装備には金をかけて、剣ではなく槍をつくらせた。
馬上から攻撃するのに、有利だと思ったからだ。
(赤公爵家の襲撃は、すぐに皇城の兵士が大勢やってきて、一斉に検挙された。そこから起死回生を狙って、あいつの首を取りに皇城へ行ったが――)
中央の広場で待ち構えていたヨアヒムは、マティアスの槍など物ともしなかった。
長物をぶんぶん振り回すだけでは、基礎から剣術を習ったヨアヒムには通用しない。
後方支援をしようと取り巻きたちが矢を射かけると、それらはことごとくバートに薙ぎ払われた。
(何もかもが、うまくいかない! どうして! どうして! どうして!)
ヨアヒムに剣で突かれて馬から落ちたところを、マティアスは取り巻きに助けられて、這う這うの体で皇城から脱出した。
今は取り巻きたちの領地を目指していて、そこでこれからの挽回策を練るつもりだ。
(次こそ、必ずあいつを打ち負かす。俺の本気を見せてやるからな!)
しかし、駆けるマティアスたちを、鐘の音が追いかける。
皇城の兵士は撒いたはずなのに、なぜか前方からも見知らぬ兵士が現れる。
先頭を走る取り巻きは馬の手綱を引き、方向を変えた。
「この道は通れません。回避します!」
「あの兵士たちは一体、何なんだ!? 虫のようにわらわらと湧いてきて……」
それはヨアヒムがまだ成人する前、地方を視察していた際に、考案した仕組みだった。
鐘の拍子を変化させることによって、意味のある伝達を、遠方まで届けられるようにしたのだ。
多神教のヘルグレーン帝国には、各所にたくさんの神殿がある。
有事の際には鐘を鳴らし、助けを求めたり危険を知らせたり、相互に連絡を取り合っているのを、公務をさぼりがちなマティアスは知らなかった。
だから鐘の音が響く限り、マティアスたちは罪人として追われ続けるのだ。
「マティアスさま、このままでは、我が領地へは辿り着けません。どうしますか?」
「仕方がない。馬首をヴィクトル辺境伯領へ向けろ!」
マティアスが幼少のとき、叔父イェルノは皇室を抜け臣下となった。
そしてヴィクトル辺境伯と養子縁組をし、数年後にその爵位を継いでいる。
つまり第一皇子であるマティアスのほうが、今の立場は上だ。
(父上よりも頭がよかったと褒める者もいたが、母上は辺境へ逃げた腰抜けだと言っていた。せっかくだから、田舎で使い途もなく貯まる一方だろう叔父上の資産を、俺が活用してやる!)
通りすがりの領地で馬を奪って乗り換え、マティアスは取り巻きたちと走り続けた。
◇◆◇◆
「南の方で見失ったみたいです」
バートがマティアスたちの行方を報告する。
それを聞くヨアヒムは落ち着いていた。
「作戦通りだ。これで叔父上が、うまく捕らえてくれるだろう」
「完全にヨアヒムさまの読みが当たりましたね」
「義兄上は単純だからな。考えなしな行動をさせれば、右に出る者がいない」
しかし少しだけ、ヨアヒムは予想を外した。
マティアスは想像を絶する、考えなしだったのだ。
◇◆◇◆
「待て! このまま叔父上のもとへ行くよりも、いい案を思いついた!」
マティアスが取り巻きたちを呼び止める。
野宿などしたこともない彼らは、すでにボロボロでヘロヘロだ。
一刻も早く屋根のある場所で休みたいと、その身体が訴えている。
だが、マティアスには逆らえない。
「……どうするんですか?」
「カーサス王国を目指すぞ!」
「ヴィクトル辺境伯の屋敷を、通り過ぎるんですか?」
もうすぐ、食事とベッドにありつけると思っていた取り巻きたちは、絶望する。
「このまま乗り込んでいっても、いい顔をされないのは分かるだろう?」
マティアスは小馬鹿にするように笑う。
「ところがだ、俺がカーサス王国で殺されかけたと言って、ヴィクトル辺境伯領へ逃げ込めばどうなる?」
それは10歳だったヨアヒムと、同じ状況を作り出すということだ。
暗殺者の矢に射貫かれ、生死の境をさまよった第二皇子に、当時は多くの同情が集まった。
「俺たちも犯罪者として追われるより、被害者として厚くもてなされたいと思わないか?」
取り巻き立ちは互いの顔を見合わせる。
こうして逃げ続けるのも、疲れるものだ。
だからマティアスの考えに、一も二もなく賛同した。
「よし、そうと決まれば、急ぐぞ! 今日のうちにカーサス王国へ侵入し、ちょっと怪我をしてから戻ればいい!」
マティアスと取り巻きたちは、大通りを走る。
地理に疎い者でも、この真っすぐな道を行けば、カーサス王国に辿り着く。
「俺たちには、勝利の女神がついている!」
そう豪語して疾走するマティアスたちの存在は、すでにエルゲラ辺境伯領の兵士たちに察知されていた。
ファビオラが稼いだ軍資金で建てた、物見やぐらがそれを可能にしたのだ。
「領主さまに伝達してくれ。こちらに向かって数騎ほど、勢いよく駆けてくる集団がいる」
「盗賊か? 襲撃に対応できるよう、町民にも協力を仰ごう」
兵士と町民は、訓練を通じて信頼関係ができあがっている。
こうして、いつもは自然豊かでのどかな町は、一気に臨戦態勢をとった。
◇◆◇◆
「旦那さま、大変でございます!」
いつもは慌てたところを見せない執事が、イェルノの仕事部屋に飛び込んできた。
「どうした? まだマティアスは到着しないか?」
鐘の音が届いてから、ずいぶん経つ。
それにしては本人がやって来ないと、イェルノも不思議に思っていたところだ。
ヨアヒムと違って、地方の視察などしたこともないから、道に迷ったのだろうか。
「それが……マティアス殿下たちは、カーサス王国のエルゲラ辺境伯領で、身柄を拘束されたそうです」
「っ……!? 何がどうして、そうなったんだ?」
イェルノを頼ってくるはずのマティアスに、にぎやかな皇都や商都とは違う、質素な民の暮らしぶりを見せてやって欲しい、とヨアヒムに頼まれていたのに。
「心根を矯正する間もなく、しでかしたということか?」
「そういうことでしょうね」
イェルノは頭を抱える。
「マティアスに会ったのは、4歳のときが最後だった。とても元気のいい男の子だったが、まさかこんな愚か者に育つとは……」
「許可もなく国境を越えようとすれば、侵略者として捕縛されるのは当たり前ですが、そんなことも知らなかったのかもしれませんね」
イェルノの落胆ぶりに、執事も同情する。
「エルゲラ辺境伯から旦那さまへ、『こっそり引き渡してもいいけど、どうする?』という申し出があっています」
「はは……リノには、迷惑をかけてしまったな。だが、マティアスの更生を促すためにも、ここはちゃんと手続きを踏もう」
国家間で犯罪者を引き渡すには、多くの面倒な手続きが必要だ。
それが終わるまで、しばらく虜囚として扱われれば、マティアスにも罪の重さが分かるだろう。
「久しぶりに、皇城へ足を運ぶか。さすがにこれだけの事態の報告を、手紙で済ますのは良くない」
執事はイェルノの言葉に、ただちに出立の準備を始めるのだった。
◇◆◇◆
「ちょうどいいじゃない。牢に繋いだあの男は、カーサス王国へ帰すつもりだったから、マティアスたちと交換しましょう」
ロルフやウルスラ、ヨアヒムを含めた重鎮たちが居並ぶ席で、イェルノはマティアスが捕まえられた経緯を説明した。
それに対して、ウルスラが一声を発し、咎人たちの処遇が決まろうとしている。
「あのけしからん男は、ウルスラを無理やり攫おうとしたのだぞ? ヘルグレーン帝国の法で、裁かなくてもいいのか?」
生ぬるいと、ロルフが顔をしかめる。
オラシオをただ送還するのが、不満なのだろう。
しかし、それはとんだ勘違いだった。
「ロルフは知らないのね。ファビオラさんが教えてくれたのだけど、カーサス王国には死刑があるんですって」
「っ……!? 神々はそれをお許しになるのか?」
「あちらは一神教でしょう? 私たちよりも戒律が厳しいのよ」
神様の御使いの一族に対して犯された罪には、特に厳しい罰則が設けられている。
国庫からの横領は、それに該当するのだ。
「民の多くが、王族を神様と等しく敬うのだそうよ。不心得にも国王陛下を欺いたあの男を、助けて欲しいという嘆願がどれだけ集まるかしらね。死刑を免れるかどうかは、それ次第よ」
ヘルグレーン帝国よりも苛酷な制裁に、ロルフと重鎮たちが顔を青ざめさせた。
「さっそく交渉人を決めましょう。おそらくやり取りは、マティアスたちがいるエルゲラ辺境伯領で行われるから――」
ウルスラの言葉に、誰もが国境付近に住むイェルノを見た。
イェルノもまた、自分が適任だろうと手を挙げた。
だがそこに、ヨアヒムも立候補する。
「私も同行させてください」
予想外の発言に、みんなの視線が集まった。
ヨアヒムはウルスラに届けられた、ファビオラの父トマスからの手紙の内容を思い返す。
そこにはレオナルドの異常な執着の様子が、事細かに書かれていた。
「ファビオラ嬢が厄介なことに巻き込まれています。交渉を終えたら、カーサス王国の王都へ向かいたいのです」
ファビオラを救いたい、と正直に打ち明けたヨアヒムに、第二皇子派の重鎮たちは目じりを下げる。
そして多くの者が賛成の拍手をした。
「ヨアヒム殿下が婚約者を大切に想う気持ちを、私は尊重したいですなあ」
「いや、喜ばしいことよ。次代のヘルグレーン帝国は、ますます繁栄するでしょう」
「機転の利く、素晴らしいお嬢さんだった。ぜひ助けてあげてください」
公私混同を誰も責めなかった。
ヨアヒムは頭を下げて感謝する。
「ヨアヒムは婚約者に夢中なのか」
初めて知った、とロルフが呟く。
それにイェルノが、言葉を足した。
「私は数年前に会いましたが、英知にあふれた女の子でしたよ。特に営業が秀逸で――」
ほう、と素直に耳を傾けるロルフ。
イェルノに抱いていた劣等感は、ウルスラの指導のおかげで、ずいぶんと薄くなっていた。
そんな兄弟の隣では、ウルスラがヨアヒムを激励する。
「頑張ってくるのよ、ヨアヒム。戻ってくるときは、ファビオラさんと一緒にね」
「尽力します」
それから数日後、ヨアヒムはイェルノと共に、エルゲラ辺境伯領を目指した。
そしてそこで、血相を変えたアダンと再会するのだった。