59話 一騎打ちの陰で
「ウルスラ、迎えに来ましたよ。さあ、私と一緒に逃げましょう」
中央の広場に意識を向けていたウルスラは、背後から口を塞がれた。
とっさに肘を打ち込むが、オラシオに躱されてしまう。
「あまり暴れないで。人々の関心が一騎打ちに集まっている今が、好機なのです」
「っ……!」
女性の中では背が高いウルスラも、男性の手にかかれば、あっさりと自由を奪われる。
必死にもがくが、オラシオの腕に抱きかかえられ、奥へ引きずられていった。
ウルスラの赤い瞳が、マティアスと戦っているだろうヨアヒムを探す。
愛息子の勝利を見届けることも叶わず、このまま攫われてしまうのか。
悔しい、と奥歯を食いしばったとき――。
「ウルスラを放せ!」
野太い声と同時に、どん、と衝撃を受ける。
誰かが突っ込んできて、ウルスラごとオラシオを横倒しにした。
「皇帝陛下! 下がってください!」
「相手は武器を持っているかもしれません! 御身が危険です!」
護衛騎士たちの警告が聞こえたのは、そのすぐ後だった。
だが、注意された当人のロルフは従わない。
「どこへ連れて行くつもりだ! ウルスラは儂の側妃だぞ!」
細身のオラシオに馬乗りになり、その体重をかけて押さえ込む。
護衛騎士たちは慌ててロルフを引きはがし、下敷きになっていたウルスラも助け出した。
直ちにオラシオは縄をかけられたが、舌鋒鋭くロルフを口撃する。
「私とウルスラは恋人同士だ。20年以上前から愛し合っている!」
「な、なんだって……!?」
初めて聞く話に、ロルフが目を白黒させた。
オラシオは嘲るように鼻を鳴らす。
「やっと今日、ウルスラと逃避行できるはずだった。お前は権力でもって、ウルスラを無理やり側妃にしたに過ぎない。私たちの仲を引き裂く、邪魔者だ!」
「そんな、馬鹿な……」
断言するオラシオに、狼狽えるロルフ。
護衛騎士たちも、あまりの修羅場に、押し黙ってしまった。
全員の視線が、それぞれの思いを込めて、ウルスラに向けられる。
ゆっくりと立ち上がったウルスラは、ドレスの皺をパンと伸ばし、腕組みをしてオラシオを見下ろした。
「茶番ね。頭がいいと、妄想を現実だと思い込めるの?」
ウルスラはオラシオを一刀両断する。
でもオラシオは、その程度ではめげない。
たくましい想像力でもって、それこそ20年以上かけて、ウルスラとの将来を夢見てきたのだ。
今ここで手を伸ばさずして、いつまたその機会がやってくるだろう。
熱のこもった金色の瞳は、妻のブロッサが願ってやまないものだ。
それをオラシオは惜しげもなく、ウルスラへと注ぐ。
「聡明なウルスラを理解できるのは、私だけだ。私とウルスラの間にある絆は、他の者には見えない。離れて過ごしていても、ずっとウルスラを想い続けてきた。そんな私の気持ちは、伝わっていただろう?」
「勝手に人の名前を、呼ばないでもらいたいわ」
その熱量は、ウルスラには必要ない。
ぴしゃりと冷たくオラシオを跳ね除けた。
二人が恋人同士ではないと理解して、あからさまにロルフは安堵する。
だが、それは少し早かった。
「ロルフもロルフよ。どうして言われたことを、鵜呑みにしているの。私がそんな人間だと、認めるのね?」
「ち、違う! 儂は決して……!」
ウルスラを助けた功労者のはずのロルフだが、叱られてたじたじと釈明を始める。
そんなロルフの姿は、護衛騎士たちにとって、見慣れた光景だった。
「言い訳はいらないわ。口を動かす暇があるなら、働きなさい」
「も、もちろんだ! 護衛騎士よ、不届き者を牢へ!」
ロルフの命令を受け、護衛騎士がオラシオを引っ立てた。
連行されるオラシオは、声の限り絶叫する。
「ウルスラ! 愛している! 君の気持ちは、ちゃんと私に届いている!」
「嘘だわ。私はずっと、会いたくないって思っていたもの」
ウルスラの呟きは小さくて、遠ざかるオラシオの耳には入らない。
それを聞き届けたのは、隣にいたロルフのみ。
ホッとしつつも、気になったことを口にしてしまう。
「……えらく美形だったな」
ロルフは醜男というほどではないが、顔に自信があるわけでもない。
そのせいで、オラシオの麗しい風貌について、つい言及してしまった。
「ほら! またそうやって、他人と自分を比べて勝手に落ち込む! その癖は駄目だと言っているでしょう!」
「だが女性にとっては、見た目も大事なのだろう? あんな色男に、愛していると言われて……」
少しも、心が揺れなかったのだろうか。
政略で結婚したウルスラとロルフの間に、通い合う心などはない。
それでもウルスラは後継者をもうけるという、側妃の役目を果たしてくれた。
日々の政務においては、当たり前のように補佐をして、ロルフに対して物怖じせず、はっきりと駄目出しをする。
それをどれだけありがたく思っているか、きっとウルスラは知らない。
(長子だからと、能力もないのに皇帝になった儂を、ウルスラは見捨てない。……もしも赤公爵家の令嬢でなかったら、心から愛した男性と結婚できただろうに)
そんな負い目が、ますますロルフを卑屈にさせる。
しかし、ウルスラはきっぱりと否定した。
「私に声をかけてきたとき、既婚者だったのよ? 相手にするはずがないわ」
「そ、そうか! 安心し……」
「本当に私が欲しいのならば、奥さまに頭を下げて離縁してもらって、ロルフとの結婚式より早く奪いにくるでしょう? そうしなかった時点で、あの男の本気は、たかがしれているのよ」
もしも、オラシオに今以上の行動力があれば――ウルスラは、ロルフの側妃ではなかったのか。
嫌な未来を想像してしまい、ずんと気持ちが重く沈み込む。
そんな暗いロルフを、ウルスラは笑い飛ばす。
「あの男はこれまで、自分の思い通りにならなかったことがないのよ。だから私も、簡単に手に入ると考えたのね」
「ウルスラ……」
「そんな安易な女じゃないと、見抜けなかった間抜けな男よ。評価するに値しないわ」
ウルスラは隣に立つ、背の高いロルフを見上げる。
がっしりとした体格に恵まれ、顎ひげには貫禄があるが、灰色の瞳だけがいつも気弱さを含む。
「しっかりしなさい! あんな男に負けるようでは、許さないわよ!」
「わ、分かった!」
ロルフが頷くと同時に、ワアアアア、という歓声が、地鳴りのように起きた。
ヨアヒムが勝ったのだ。
「決定的な瞬間を見逃してしまったわ。……今回の騒動でマティアスは廃嫡、ヘッダは破婚、青公爵家とそれに連なる一族にもその余波が及ぶ。それらへの対応と、ヨアヒムの立太子と、やらなくてはいけない仕事は山積みよ。ロルフにも、しっかり働いてもらうからね!」
ウルスラは、どんとロルフの腹を拳で叩く。
手荒に扱われて、嬉しそうに頬を染める夫を、ウルスラは案外悪くないと思っている。
だが、ヨアヒムが命を狙われるようになったのは、優秀な弟に気を遣い過ぎるロルフのせいなので、それを口に出して言うつもりはなかった。
◇◆◇◆
「私ってェ、可哀そうだわァ」
アラーニャ公爵家で謹慎中のエバが、ぐすぐすと洟をすする。
「ただ、レオさまが好きなだけなのにィ。ちょっと嫉妬するくらい、女の子なら当たり前でしょォ」
ちらりと上目遣いで見た相手は、兄のホセだ。
今日はエバの様子を伺いに来る日だと知っていたので、目の下には隈も作っておいた。
「あとどれだけ、こんな生活を続けないといけないのォ? ずっと外に出られなくて、頭が腐り落ちそうだわァ」
それまで大人しく、エバの恨み言を聞いていたホセだが、ようやく口を開く。
「エバが影をつかって襲わせた令嬢の中には、もっと長く屋敷に引きこもっている者もいるんだぞ」
「反省しているわよォ! だから今まで、言うことを聞いてきたじゃない!」
影のしでかした行為については、王家が賠償金を支払った。
だがそれで、令嬢についた傷が消えるわけではない。
エバの謹慎がなかなか解かれないのは、その罪の重さゆえだ。
しかし当のエバは、それをあまり理解していなかった。
(そろそろ私が出歩いたって、何の問題もないでしょ!)
エバがしおらしくしていたのは、社交界から自分の噂が消えるのを待っていたからだ。
自宅謹慎が始まって、もう半年以上も経つ。
退屈な貴族たちは、いつだって新しいもの好きだ。
すっかり過去となったエバの昔話に、花を咲かせているはずがない。
「ねえ、レオさまに会いたいのォ。物陰から、そっと顔を拝むだけでいいからァ!」
シクシクと、泣きまねを始める。
なんだかんだとホセは面倒見がいい。
ブロッサが押しつけたエバの部屋の鍵を、律儀に管理し続けているのがその証だ。
つけこむならホセの甘さだと、エバは知っていた。
「だが、しばらく王城でのお茶会はないし……」
「どこかでパーティはあってないのォ? レオさまが招待されるくらいの大きなパーティなら、私ひとり紛れ込んでも気づかれないわァ」
「そう言えば……外務大臣からパーティの招待状が来ていたな」
「それよォ! 外務大臣って、お父さまの部下でしょう? ちょうどいいじゃない!」
殊勝なエバに免じて、ホセは少しだけ、一緒にパーティに顔を出すと決めた。
短い時間、レオナルドを鑑賞したら、すぐに帰ると約束をさせる。
「パーティ用に、新しいドレスが必要だわァ。お兄さまがお金を出してよォ」
エバの遊興費は、オラシオによって凍結されている。
久しぶりにレオナルドに会えるのに、流行遅れのドレスなどまっぴらごめんだ。
「ドレス? エバはたくさん持っているじゃないか」
「同じドレスを着たら、私ってバレるじゃない!」
「それもそうか……」
エバの衣装室には、まだ着たことのないドレスがあふれているが、詳しくないホセは簡単に騙された。
(レオさまの目を奪う、素敵な装いにしなくちゃ!)
こうしてエバは、パーティに出席する機会をもらった。
そこでレオナルドが、ファビオラをエスコートするとも知らずに。