41話 名前で呼んで
長期休暇へ入る前に、ファビオラは無事、書き上げた論文を提出し終わった。
そして、ヘルグレーン帝国へ向かう馬車の中で、どうやってヨアヒムと話す機会を得ようかと考える。
しかしその問題は、『七色の夢商会』の店舗に到着して早々に、すんなりと解決してしまった。
ぽかんと口を開いたファビオラの前に、騎乗したヨアヒムとバートが現れたのだ。
「第二皇子殿下、どうしてここへ?」
「この地区の、見回りをしていた」
ファビオラもその約束を覚えていたが、まさかヨアヒム本人が巡回しているとは思わなかった。
ヨアヒムはファビオラと視線の高さを合わせるため馬から降りる。
ファビオラは駆け寄って、お礼を言った。
「お忙しいのに……ありがとうございます」
とても嬉しいが、ヨアヒム直々の見回りは、恐れ多すぎる。
そんなファビオラの態度を見て、ヨアヒムの隣に立つバートが噴き出した。
「ほらね、忠告したでしょう? ヨアヒムさまの愛は重すぎるって……っぐ!」
「今は息抜きの時間なんだ。ちょっと遠乗りがしたかったから、ついでに見回りをしていただけで――」
バートに肘打ちを入れたヨアヒムが、咄嗟に言い訳をする。
息抜きの時間、とファビオラは繰り返した。
仕事中でないのならば、聞いてみてもいいだろうか。
ファビオラは勇気を出す。
「あの、相談したいことがあるのですが……」
余程ファビオラの表情が、切羽詰まっていたのだろう。
ヨアヒムがハッと息を飲んだ。
そして柔らかく微笑むと、快く引き受けてくれる。
「私でよければ、話を聞こう。長くなりそうなら、別日を設けてもいい」
「ちょっと複雑なので、お時間をいただけると助かります」
「互いの予定をすり合わせようか?」
ヨアヒムの言葉に、バートが懐から紙の束を出す。
おそらくそれには、ヨアヒムの予定が書き込まれているのだろう。
紙面をめくるバートへ、ファビオラは伝える。
「第二皇子殿下の都合のいい日時で、お願いします。私はまだ到着したばかりで、予定が入っていないから」
「それなら、明後日が空いてますね。今ぐらいの時間帯でどうでしょう?」
バートが予定の余白を指さし、ファビオラに確認を取る。
それを聞いてヨアヒムも頷いた。
「その後の予定が母上との晩餐だけだから、ゆっくり落ち着いて話せそうだ。ファビオラ嬢も、それでいいだろうか?」
「もちろんです。私が皇城へ伺いましょうか?」
「……皇城は癖の強い人が多いから、あまり近づかない方がいいよ」
ファビオラが誰かに、目をつけられてはいけない。
いい意味でも、悪い意味でも。
「私は視察と言って出てくるから、心配しないで」
「それでは第二皇子殿下のお越しを、お待ちしております」
ファビオラとヨアヒムの視線が重なる。
きゅっと唇を結んでいたヨアヒムが、恐る恐る口を開いた。
「その、よければ今後は、名前で呼んでもらえないだろうか。ファビオラ嬢がとても、礼儀正しいのは分かっているのだが――」
ファビオラはヨアヒムを、第二皇子殿下と呼んでいる。
しかし、ヘルグレーン帝国の民は、親しみを込めてヨアヒムさまと呼ぶ。
ヨアヒムはファビオラにも、そう呼んで欲しいと願った。
(家族じゃない男性を名前で呼ぶなんて、年頃になってからはしたことがないわ)
でもヨアヒムから、ヘルグレーン帝国の一員と認められたようで、ファビオラの心はそわそわと騒がしくなる。
呼ばれるのをじっと待っているヨアヒムへ、ファビオラは初めてその名前を口にした。
「……ヨアヒムさま」
声に出してみると気恥ずかしくて、ファビオラの頬が赤く染まった。
だが、ヨアヒムの頬も同じく赤く染まっていて、お互いに照れて笑い合う。
また少し、ファビオラとヨアヒムの、距離が近づいた気がした。
「では、明後日に」
軽やかに馬に跨ると、ヨアヒムはバートと並んで走り去った。
「懸念事項がひとつ消えたわ。あとのことは、相談してみないとね」
予想していた通り、ヨアヒムは優しかった。
ファビオラは大役を果たした心地に、胸を撫で下ろす。
取りあえず、これでアダンとの約束は守れた。
◇◆◇◆
「母上、明後日の晩餐ですが……もしかしたら少し、帰りが遅くなるかもしれません。私が戻らなくても、気にせず先に食べていてください」
「視察に行く予定なんて、あったかしら?」
側妃ウルスラが、細い顎に指をあてて考える。
さらりと流れる短い朱金色の髪は、少年だったヨアヒムを彷彿とさせる。
煌めく赤い瞳は、燃え盛る炎のようで、ウルスラの化粧っ気のない顔を、ひときわ鮮やかに彩っていた。
ヨアヒムは無表情を装い、なるべく冷静に答える。
「今日、新たな用事を入れたのです」
「ふうん、だからそんなに、嬉しそうなの?」
だが母の目は誤魔化せない。
「っ……!?」
「赤くなっちゃって、これは図星ね。バート、大丈夫なの? 相手の女の子は、ヨアヒムの初心さに呆れてないかしら?」
「安心してください。初心さに関しては、似たり寄ったりなので」
「それは貴重な存在だわ。きな臭いこの時世に、心清らかでいられる者なんて、ほんの一握りだもの」
「彼女はヘルグレーン帝国の民ではありませんからね」
「それなら納得だわ。赤公爵家と青公爵家を見て育てば、誰だって感覚がおかしくなっちゃうのよ」
ウルスラがわざと大きな溜め息を吐く。
赤公爵家を代表して、皇帝の側妃になった身だ。
生まれたときから両家の争いの渦中にいたウルスラは、いい加減うんざりしているのだろう。
その隙に、ヨアヒムがバートの口を塞ごうとする。
「バート、しゃべり過ぎだ」
「俺の主はヨアヒムさまだけど、雇い主はウルスラさまなんですよね。だから一切合切しゃべらないと、給金を減らされるんです」
「その通りよ。バートには、ヨアヒムに関する全ての報告を義務づけてるの」
「止めてくださいよ。もう私も、子どもじゃないんですから」
あの襲撃があった日から、色々なことが変わった。
ヨアヒムは夢を追い駆けるのを止めて、帝王学を教わり、剣の腕を磨き、常にバートがそばで護衛をするようになった。
とりわけヨアヒムを溺愛していたウルスラは事件に激怒し、皇位継承争いの発端をつくった皇帝ロルフを厳しく叱責するようになった。
おかげで世間的には、側妃と皇帝は、仲が悪いと認識されている。
しかし、その実情は少し違った。
「今朝も父上が、廊下で項垂れていましたよ。私に構ってないで、父上の面倒を見てください」
「嫌よ。いつまでも後悔ばかりして、情けないったらないわ。ヨアヒムを皇太子に指名するまでは、私室に入れないと決めているのよ」
堂々と皇帝を非難するウルスラに、なぜかロルフは感銘を受けてしまったらしい。
以来、ロルフはウルスラの後を、懐いた仔犬みたいについて回っている。
「父上のせいで、私の命が狙われているのは確かですが……そうでもしないと、辺境伯になった叔父上に対して、申し訳ないと思っているのでしょう」
「だったら、イェルノを超える為政者を目指せばいいだけのことよ。それを完全に諦めて、自分は劣っているからと殻に閉じこもり、さらには愚策でヨアヒムを危険な目に合わせるなんて。どれだけ引っ叩いたって、許さないんだから」
うわあ、とバートが声を漏らした。
時々、ロルフの頬が赤く腫れているのは、間違いなくウルスラの平手打ちのせいだ。
(父上もめげないな……その根性を、どうして政治に向けなかったのだろう)
そうすれば、ウルスラの見る目も変わり、褒められたかもしれないのに。
(いや、叱られている今がいいのか? それを悦んでいるのか?)
ロルフの心境は不可解だった。
考え込んでいたヨアヒムに、ウルスラが側妃として命じる。
「いつかその子を、晩餐に招いてちょうだい。侯爵令嬢なのに商会長だなんて、面白いわ。イェルノだけでなく、私も後ろ盾になりたいの」
どうやらファビオラのことは筒抜けらしい。
しぶしぶ、ヨアヒムは頷くのだった。
◇◆◇◆
「ルビーさん、ちょっと今いいかしら?」
副会長室をファビオラが訪ねると、ルビーがとある書類とにらめっこをしていた。
「どうぞ! 資料でいっぱいだけど、座って」
小さな応接セットの上には、巻かれた紙が所狭しと置かれている。
それらを脇へ避けながら、ファビオラは確保したスペースに座った。
「ちょうど休憩しようと思ってたの。ファビオラさんも、お茶でいい?」
「ええ、ありがとう」
ルビーが手際よく準備をしている間に、ファビオラは考えをまとめる。
(この三年間で、十分すぎるほどの防衛費を稼いだわ。それもこれも、ルビーさんが発明した七色の炎を生み出す薪のおかげよ。グラナド侯爵領にある普通の人工薪だけだったら、ここまで『七色の夢商会』は急成長していなかった)
その大恩に報いたい。
ファビオラは商会長の座を、ルビーへ譲る決意をした。