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26話 思い浮かべる姿

「あれでは足りない、だと? どれほどの規模の私兵団をつくるつもりだ」



 宰相オラシオは、手の中の書類をぐしゃりと握りつぶす。

 公文書の中に紛れ込まされた暗号の内容は、主に金の無心だった。

 どうせ考えなしな第一皇子マティアスが、私欲のままに兵士をかき集めているのだろう。



「烏合の衆が揃ったところで、凡人にうまく采配できるはずもないのに」



 愚か者め、と息子に甘い正妃ヘッダを罵る。



「しかし……これ以上の横領は難しい。金額が多ければ多いほど、財務大臣の監査が厳しくなる」



 現に今の金額でも、何度か申請の差し戻しがあった。

 巧妙に官吏を説き伏せて無理に通したが、二度目は許さないとトマスの目が語っていた。

 

「邪魔だな。金で釣れる男であれば賄賂を握らせるが、あの国王陛下の親友ではそんな方法も使えない」



 倫理や道徳を重んじる国王ダビドと仲が良いだけあって、トマスは汚職の文字が最も似合わない貴族だ。

 オラシオが増税をちらつかせて民を扇動し、トマスを財務大臣の座から降ろそうとしたこともあったが、あえなく失敗に終わった。



「もう少し長く、軍備拡大の政策を訴えてくれたら、確実に民の印象は悪くなっていた。急に取り下げるなんて、何があったんだ?」



 オラシオが民に強調している、ヘルグレーン帝国との友好の輪を、信じたわけではあるまい。

 皇位継承争いのきな臭い噂は、国境を接するエルゲラ辺境伯領あたりには、間違いなく届いているはずだ。

 

「エルゲラ辺境伯はしょせん義弟、切り捨てることにしたか? それとも、自分たちの私財だけで、醜く足掻こうとしているのか?」

 

 王女が降嫁する家門には、莫大な支度金が下賜される。

 オラシオも王妹ブロッサと結婚して、実際にそれを手にした。

 だが、グラナド侯爵家の場合、それは数代前の話になる。



「当時の金など、もう残ってないだろう。辺境伯家と侯爵家が力を合わせたところで、たかがしれている」

 

 ふん、と馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

 そこでオラシオは思いついた。

 手間のかかる横領などせずとも、アラーニャ公爵家にはまだ、たんまりと金が残っている。

 

「そうだ、ブロッサの支度金があるじゃないか。ウルスラと逃避行をする際に持ち出そうと思っていたが、背に腹は代えられない。少しでも送金の額を上乗せしなければ、あちらも納得しないだろうから――」



 化粧の濃いヘッダの顔を思い出し、オラシオは顔をしかめる。

 そして握りつぶしてしまった紙面のしわを、丁寧に手のひらで伸ばした。



「今回はいいことも書かれていた。ウルスラが皇帝と、激しく口論していたとある」



 何について争っていたのかは分からないが、二人が不仲になるのは悦ばしい。

 オラシオは美しい顔に、うっそりと笑みを浮かべる。



「月並みな男では、ウルスラの才覚を理解できない。ウルスラに相応しいのは私だけで、私に相応しいのもウルスラだけ。せめて国が同じであれば、もっと早くに出会えたのに――口惜しいことだ」

 

 デビュタントの場で見初め合い、恋仲になったウルスラを妻に迎える妄想をして、オラシオは心の寂しさを慰めた。



 ◇◆◇◆



「お姉さま、いよいよ最終学年ですね」



 今日から学年が持ち上がり、新学期が始まる。

 ファビオラとアダンは、同じ馬車に乗って学校へと向かっていた。

 紳士科の校舎が手前にあるので、そこでアダンが下車するまで、いつも二人は何気ない会話をしている。



「あのパーティの後、特に何も起きませんでしたね」



 思い出すように、アダンが呟いた。

 ファビオラとアダンは王城から帰宅してすぐ、待ち構えていたトマスに事の次第を説明した。

 話を聞いて、しばらくテーブルをトントンと指で叩いていたトマスだったが、その程度なら問題ないという判断を下す。

 婚約者候補にされるかもしれないと怖れていたファビオラだったが、今のところ王家からの申し出もない。



「レオナルド殿下は学校を卒業された途端、公務が忙しくなったと聞きます。お姉さまを追いかけることも、難しくなったのではないでしょうか」

「私が知らない間に、アダンが何度もお誘いを断ってくれてたのよね。本当に助かったわ」

 

 ファビオラが考えているよりも、ずっと以前からレオナルドの執着は始まっていたらしい。

 だからこそ、レオナルドがすんなり引き下がるとは思えない。

 

「卒業と同時にヘルグレーン帝国へ行くわ。物理的に手の届かない距離にいたほうが、安心できるから」

 

 それに、警戒しなくてはならないのは、レオナルドだけではない。

 同じ学年に在籍しているエバもまた、ファビオラにとっては要注意人物なのだ。



「王太子殿下の婚約者候補には選ばれたくないし、アラーニャ公爵令嬢から恨まれるのも御免よ」



 予知夢を思い出し、ファビオラの声がしぼむ。

 じっと考え込んでいたアダンが、神妙な顔で提案してきた。



「レオナルド殿下から申し込まれるより先に、誰かと婚約してしまうのはどうでしょうか?」

「王太子殿下が横やりを入れたら、どんな婚約も解消されてしまうわよ」



 なにしろカーサス王国の、次期国王なのだ。

 レオナルドに逆らえる者は少ない。



「そこが盲点なんですよ。お姉さまはヘルグレーン帝国に、拠点があるじゃないですか」

「まさか、あちらで婚約者を探せと言うの?」



 驚くファビオラに、アダンはもっと大きな爆弾を落とした。



「探す必要はありません。すでに、出会っていますから」

「……誰と?」

「レオナルド殿下に、負けない身分の方ですよ」

「まさか……第二皇子殿下?」



 突拍子もなくて、ファビオラの体は固まる。

 アダンは一体、何を言い出したのか。

 ファビオラが突っ込みを入れる前に、馬車が紳士科の校舎前に着いた。



「ボクは可能性のない話を、しているつもりはありませんよ」



 行ってきます、とアダンは笑顔で登校していった。

 取り残されたファビオラは、一人で頭を抱える。



「いくら第二皇子殿下が親切だからって、『自国の王太子殿下と婚約したくないから、代わりに婚約してください』なんて、図々しいことを頼めるはずがないじゃない」



 ヨアヒムとの邂逅は、ほんの数分だった。

 あちらはファビオラなど、覚えていないかもしれないのだ。

 

「それに、第二皇子殿下に対しても失礼だわ。現時点で婚約者はいないみたいだけど、それも皇位継承争いが落ち着くまでの話でしょう」



 お山の大将みたいな第一皇子マティアスを、目の当たりにした今なら分かる。

 何をどう比べても、絶対にヨアヒムが皇太子に選ばれるだろう。

 そしたら素敵な令嬢たちが、こぞって周りを取り囲むに決まっている。

 その様子を想像してみたら、ちょっとだけファビオラの心が痛んだ。

 あの男の子にそっくりなヨアヒムを、いつの間にか随分と慕っていたようだ。

 

「待って……第二皇子殿下の隣に立つには、私じゃ相応しくないって分かっているけど……繋ぎだったら、どうかしら? 本当の婚約者じゃなくて、本当の婚約が決まるまでの間の、仮初の婚約者だったら……」



 おそらくヨアヒム側は、皇位継承争いが決着するまで、相手を選ばないつもりだろう。

 なぜならば、青公爵家とそれに連なる一族に、婚約者の命を狙われる恐れがあるからだ。

 そんな危険な立場に、身を置きたい令嬢もいないと思う。

 だったらファビオラにとっては好機だ。

 

「その空白の期間を、譲ってもらえないかしら?」

 

 契約書を交わして、お互いに後腐れを残さないと誓って、予知夢でファビオラが殺される19歳までを、やり過ごさせてもらえないだろうか。

 さらにヨアヒムの婚約者になれたら、ヘルグレーン帝国の社交界とも繋がりができ、貴族たちが大好きな噂話の収集をするのも容易い。

 

「いいことだらけかもしれないわ。……もしも、お願いするとしたら、私からの謝礼はどうしよう? 第二皇子殿下だから、お金なんていらないわよね?」



 うーん、と考えていたら、御者から「着きましたよ」と声をかけられた。

 ありがとうと伝えて、商科の校舎へ向かう。

 しばらくは名案だと浮かれていたが、やがて酷な現実に気がついてしまう。



(もしかしたらヨアヒム殿下には、すでに好きな人がいるかもしれない)



 現時点で婚約者がいなくても、誰かを想っている可能性はある。

 だったらファビオラが、仮初でも婚約者になるのは申し訳ない。

 

(私の記憶の中から、あの男の子が消えないように、第二皇子殿下の心にも、誰か住んでいる人が――)



 ファビオラは眩しい日差しに手をかざし、指の間から射す光に目を細めた。

 青い空に思い浮かべた姿は、ヨアヒムか、あの男の子か。

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