7話 この世の女王
「エバ、最近いい噂を聞かないぞ。ちゃんと淑女科で、学んでいるんだろうな?」
学校から帰宅早々、玄関ホールで兄のホセに捕まり、小言を聞かされる13歳のエバは、母譲りの紫色の眼を細める。
宰相補佐に就任しているホセは、王城に寝泊まりすることが多く、めったにアラーニャ公爵家にはいないのに今日は運が悪い。
こうして会うたび、うるさく説教をしてくる6歳年上のホセを、エバは心底疎んでいた。
(なによ偉そうにィ! 宰相のお父さまは国内と国外を行ったり来たり、王妹のお母さまは療養中の王妃さまの代わりで公務に忙しい。お兄さまさえいなければ、この邸内で私に逆らう者はいないのよ!)
屋敷の使用人たちは、アラーニャ公爵令嬢であるエバの機嫌を常にうかがい、低頭して服従する。
それが幼い頃からエバを、この世の女王のように勘違いさせてきた。
自制を知らないエバは栗色の髪を逆立て、腹立たしい思いをそのままホセへぶちまける。
「誰がそんな出鱈目を吹き込んだの!? 私はレオさまの婚約者にふさわしいよう、誰よりも淑女たらんとしているわァ!」
「そういう癇癪持ちなところは、とても淑女とは思えないよ。それに母上の影を、勝手に使役しているそうじゃないか」
「勝手じゃないわ! ちゃんと、お母さまに許可を得ているものォ!」
本当は駄々をこねて、一時的に貸してもらっているだけだ。
だがそれを、ホセへ正直に言う気にはならない。
「影は王族である母上の身を護るために、王家から遣わされているのだ。エバの憂さを晴らす目的で、動かしていい存在ではない」
「レオさまに擦り寄る下賤な女たちを、ちょっと遠ざけているだけよォ」
紳士科と淑女科の合同授業中、ダンスの練習にかこつけて、レオナルドとの距離を縮めようとする女生徒は多い。
そんなあからさまな行為が目に余り、エバは影にひっそりと命じる。
『レオさまに対して不敬を働いたわ。あの女が、明日から学校へ来られないようにしてちょうだい』
どんな手を使うか、細かく指示するときもある。
それはエバの気分次第だった。
中には、美しい顔に醜い傷をつけられた令嬢もいる。
(私よりも身分が低いくせに、面の皮一枚のことで威張っちゃって! 自慢の顔が台無しになったのは、気分が良かったわァ!)
影が隠密に動けば、それは一切、法に触れない。
だから、エバへのお咎めも無い。
(私って賢い! 権力っていうのは、こうやって使うものなのよォ)
自賛するエバをよそに、ホセの苦言は続く。
「レオナルド殿下の婚約者は、まだエバに決まった訳じゃないだろう? たくさんの令嬢と交流したって、いいじゃないか。その中から、将来の王太子妃に相応しい方を見極められ、お選びになるはずだ」
現段階でおそらくエバは、レオナルドにとって最も親しい令嬢だ。
なにしろ1歳年下の従妹という、年齢の近さと血の繋がりがあって、小さな頃から一緒に遊んでいた幼馴染なのだから。
しかも、レオナルドを愛称で呼ぶのを許されているのは、家族以外にエバしかいない。
(さらに私は、レオさまの双子の妹ラモナの親友だった。その辺のポッと出の令嬢に、負けるとは思わないけれど……正式に発表があるまで、油断はできないわァ)
エバが見ている限り、レオナルドは学校生活を送る中で、他の女生徒へ興味を示したことはない。
だからこそレオナルドの婚約者に選ばれる自信がある。
しかし万が一、目を留められては困るから、こうしてこまめに蹴落としているのだ。
その努力をホセはまったく理解していない。
レオナルドを巡る戦いは、とっくの昔から始まっている。
「レオさまに相応しいのは、私よ。だからそれ以外の女なんて、どうなったっていいのよォ」
「それを決めるのは、エバではない。傲慢な考えを改めて――」
「どうしてお兄さまの婚約者が決まらないか、知ってるゥ?」
「……なんだ、いきなり?」
「年頃の令嬢はみィ~んな、レオさま狙いだからよ。そこが決まらないと、お兄さまたちの世代は、婚約なんて無理なの。つまりィ、お兄さまはねェ、レオさまの残り物をあさるしかないってこと!」
きゃはは、とエバは淑女らしくない嘲りの笑声をあげた。
いずれエバは王太子妃から王妃となり、このカーサス王国のすべての女性の頂点に立つ。
上から目線のホセだって、今にエバへ頭を下げるようになるのだ。
「エバの腐った性根は、どうやって形成されたのだろうな。私と血が繋がっているだなんて、信じたくもないよ」
唾棄するかの如く告げると、ホセはさっさと自室へ引き上げていった。
その背を見送り、勝ち誇るエバは鼻を鳴らす。
図星を突かれると、人は怒りを露わにするという。
「やっぱり、婚約者が決まらないのを気にしてるのねェ。だったら私がいち早く、レオさまに選ばれるように協力してくれてもいいのに。お兄さまは頭が固くて、使えないわァ」
エバは首を横に振り、ツインテールにしている巻き髪を、くるりと指に絡めた。
「レオさまも14歳、そろそろ婚約者候補を決める動きがあってもいいはず。それとも、まだラモナの死を引きずっているのかしらァ?」
レオナルドの双子の妹ラモナは、4年前に10歳という若さで天国へ旅立った。
当時の王家は長い間、ラモナの死を悼み、喪に服したものだ。
その可憐な容姿から、天使や妖精に例えられていたラモナは、エバが初めて敗北を喫した相手だった。
「私よりも身分が高くて、私よりも多くの者に跪かれ、私よりも良いドレスを持っていた」
――決定打だったのが、レオナルドだ。
6歳のエバは、母に連れられ王城を訪れた。
そこで初めて、本物の王子さまに出会ったのだ。
王妃そっくりな、ストロベリーブロンドの流れるような髪、淡いピンク色の瞳。
貴族の少女が持っている人形なんて比較にならないほど、レオナルドの容姿は美しかった。
エバは一瞬で目を奪われてしまう。
しかし、エバが夢中になったレオナルドは――ラモナを愛していた。
「私が見惚れたレオさまよりも、ラモナは美しかった。特に波打つ銀髪の輝きは、神様の愛を独り占めすると言われていて……」
忌々しい思い出に、エバはぎりぃと奥歯を噛む。
すべての人を惹きつけて止まないラモナは、その清らかな心でエバをも包み込もうとした。
『私たち、親友になりましょう?』
今まで、レオナルドと遊ぶばかりだった7歳のラモナは、同性の友だちというだけでエバに懐いた。
ラモナと仲良くすれば、レオナルドの印象も良くなると考えたエバは、狡猾さを隠してそれに頷く。
『私のことは、エバと呼んでいいわよォ』
『嬉しい! じゃあ、私もラモナと呼んでね』
そこへレオナルドも加わり、王族の血を受け継ぐ三人の子は、傍目からは楽しく遊んでいるように見えた。
しかしエバの胸中は、ずっと穏やかではなかった。
「ラモナの持つすべてを、奪いたかった。特にレオさまから捧げられている、無償の愛が欲しかった。だってそれまでは、私がこの世の女王だったのよォ!」
アラーニャ公爵令嬢として、生まれたときから何人もの乳母と世話係にかしずかれた。
エバは気に入らないことがあれば、すぐ暴力に訴える子どもだった。
エバが振り回したフォークで、目を突かれた使用人もいた。
エバに背中を押され、燃え盛る暖炉にころげた使用人もいた。
そうした積み重ねがあって、アラーニャ公爵家の使用人たちは、エバへ従順になっていったのだ。
(ラモナを消してから4年――まだ、レオさまの愛は私に向けられないわァ)
ラモナの死をきっかけに、まったく表舞台へ出なくなった王妃もまた、立ち直れていない一人だ。
その王妃のもとへエバは足繁く通い、私がラモナの代わりになりますと、殊勝な声掛けをして励まし続けている。
エバをレオナルドの婚約者に、推してもらおうという魂胆あっての行動だ。
「王妃さまの私への印象は、悪くないはずよ。ただ、王妃さまはすっかり衰えてしまって……なんらかの意思決定の場に呼ばれることは、ないでしょうねェ」
媚びを売っていたが、無駄になりそうだとエバは判断する。
「やはりレオさまに直接、アピールするのが一番ね。早くラモナを忘れてもらわないと!」
それと同時に、レオナルドへ近づこうとする令嬢を、排除するのも忘れてはならない。
レオナルドが学校へ入学した年は、12歳から18歳までの全学年の女生徒が、熱狂的にその身を取り巻いたという。
そしてエバが一目惚れしたレオナルドの美麗さが、貴族社会に周知されていった。
「当時はレオさまに馴れ馴れしい女生徒が多かったけどォ、次の年に私が入学して以降、唐突に退学していく女生徒が増えるにつれて、徐々に礼儀正しくなっていったのよねェ」
くふふ、とエバは含み笑いをする。
レオナルドが卒業するまで、あと4年。
それまでには、婚約者の候補が絞られるだろう。
「まあ、その頃にはァ、私しか残ってないんだけどね!」
エバは足取りも軽く、自室へと向かった。