第26話
「とにかく、下りてみよう」レイヴンは誰にともなくそう言い、下降しはじめた。
「え」
「下りるって?」
「あれ、泳ぐの?」動物たちは一斉に質問した。
「いや、まだ水面近くにいるみたいだから」レイヴンは誰にともなく説明しながら下降を続けた。
「いるみたいって、誰が」コスが質問を続ける。
「ほら、彼がさ」レイヴンは触手で下の海水面を示した。
そこには確かに、さっき皆を呑み込もうとして、次にむせ込んで、さらに次に皆を吐き出したあのでかい生き物がゆるやかに泳いでいたのだ。
「クジラ?」キオスが訊く。
「うん。ザトウクジラさんだ。ちょっと訊いてみよう」
「大丈夫なのかな」コスが不安げに訊ねる。
「ははは、心配ないよ。彼も悪意があってあんなことしたわけじゃないんだから」レイヴンが説明したあと「すいません、こんにちは」と信号レベルをできるだけ大きくして呼びかけた。
「目玉をくり出してやる」ザトウクジラはぼそりと呟いた。
「え?」レイヴンは体を硬直させ下降を中止した。
動物たちは言葉をなくしていた。
「脳をくり出してやる」ザトウクジラはまた呟いた。
「え、あの、なんですか?」レイヴンは、話しかけてはならない相手に話しかけてしまったのではないかという怖ろしさに苛まれはじめた。「ぼくのこと?」
「あ、ああいえ、違います、失礼しました」ザトウクジラは声のトーンを一オクターブ以上も上げて答えた。「こんにちは、レイヴンさん」
「あ、どうも、はい、レイヴンです」レイヴンは安心するやら照れ臭くなるやら困惑するやら複雑な心境に揉まれた。
「ええとお仲間を探していらっしゃるんですね?」そんなレイヴンに対しザトウクジラの方から話を切り出してきたのだった。
「あっ、はい」レイヴンの心境には驚くやらが加わったが、これまでの経験から動揺は見せずにいた。「仲間の特徴をお伝えするので、それを海水で皆さんに報せていただけますか」卒なく用件だけを的確に伝える。
「承知しました」ザトウクジラからの反応は拍子抜けするほどの快諾だった。「ではまず、お仲間のお名前から伺えますか」
「──あ、ええと、マルティコラスといいます」レイヴンは、今自分が油断していないかどうか、大急ぎでセルフチェックを実施しなければならなかった。
本当に、取り引きしてよい相手か?
「わかりました」マルティの個性や特徴を聞き終えたザトウクジラは頷いた。「私も発信しますが、シロナガスクジラさんにも依頼しておきましょう」
「シロナガスクジラさんに?」レイヴンは訊き返した。
「ええ」ザトウクジラはまた頷いた。「なんといっても彼がもっとも遠くまで信号を送れますから」
「ああ」レイヴンも頷いた。「ぜひ、お願いします」
「舌を引っこ抜いてやる」ザトウクジラはそう呟いた。
「え」レイヴンは体を硬直させた。
「あ、いえ、失礼しました」ザトウクジラはさも何か軽い言い間違いをしてしまったかのように詫びを入れ「それでは道中お気をつけて」と見送りの挨拶をした。
「あ、はい、ありがとうございます。さようなら」レイヴンも返し、大陸のある方向へ推進し始めた。
ザトウクジラの音声が、高く低く聞こえる。それは今話をした一頭のみならず、何頭も、もしかすると何十頭ものクジラたちの奏でるものなのかも知れない。
それだけを聞くと、大いなる安心感、信頼感というものに包まれる。あとはすべて任せておけばいい、という想いに身をゆだね、ほうと息をつくことができる。
「目玉をくり抜いてやる」
だが垣間見える海原の暗い水底に、そう呟く声がふと聞こえるのだ。
あれは、一体──
「あの人、誰に向かって怒ってたのかな」ぽつりとキオスが言う。
「怒るっていうか、すごく恨んでいたよね……誰かを」コスが少し怖ろし気に声をひそめて言う。
「誰を? あの鳥のことを?」キオスもまた声に戦慄を帯びさせつつ訊く。
「シロナガスクジラをじゃない?」オリュクスは特にいつもと変わらぬ調子で意見を述べる。
「えっ」「なんで?」コスとキオスが驚く。
「自分より遠くまで信号を送れるから」オリュクスはすでにこの話題に飽きたようであくびをする。
「まあとにかく、先を急ごう」レイヴンは誰にともなくそう告げ、浮揚推進を続けた。
──誰だって構わないさ。
そんな風に思う。
──ぼくに対してじゃなけりゃ。
だがそれは確かにそうだったのだろうか。ザトウクジラはレイヴンに対して怖ろしい恨みの言葉を吐いたのではないと、誰が保証してくれる?
ワタリアホウドリが? それともシロナガスクジラが?
──まあとにかく、先を急ごう──
レイヴンは自分が一番びくついていることに蓋をして、実際先を急いだ。