第6話 決意
朝の通学電車の中、健斗はいつものように立ったまま英単語帳を開いていた。脇をキュッと締めて、脚もきちんと閉じて。うつむいて単語帳に目を落としさえすれば、周囲の誰も自分が男子だとは気づかない。
もちろん、じっくりと顔を見られれば、うっすらと残った髭の痕や少し角ばった輪郭は隠せない。それでも、チェック柄のスカートを履いた学生をわざわざ男だと疑ってじっと観察する人なんていない。制服って、本当に最強の迷彩服だ。
最初の頃は、男だってバレるんじゃないかと毎朝ビクビクして、単語帳に集中するどころじゃなかった。けれど、最近はもう慣れたもので、周りの目なんてほとんど気にならない。無事に学校にたどり着けるようになったのも成長だろうか。
学校に着いて、教室のドアを開ける前に一度深呼吸をする。女の子として過ごすようになってから、もう2週間が経つけど、教室に入る瞬間は今でも緊張する。
「おはよう」
健斗が小さな声で挨拶をしても、教室の誰からも返事はない。けれど、以前挨拶をせずに教室に入ったとき、白石さんに冷たく睨まれたことがあったので、それ以来、返事がなくても毎日律儀に挨拶している。
健斗は自分の席に着き、カバンから教科書を取り出しながら教室をぼんやりと眺めた。
教室の前方、窓際には1軍の橘さんがいて、周りには彼女を取り囲むように数名の女子たちが集まっている。
華やかな笑い声が絶えず、彼女たちの輪の中だけが光を浴びているかのように明るい。
誰かが何か面白いことを言ったらしく、橘さんが大きな声で笑った。
健斗の耳にも届くその明るい笑い声が、教室全体に響き渡る。楽しそうな彼女たちの様子に目を奪われつつも、健斗はただ、遠巻きに見ているしかなかった。まるで、ガラス越しに別世界を眺めているような感覚だ。
文恵の言葉が頭をよぎる。「大きな声で笑っていいのは1軍だけだから」。今ではそのルールが、健斗の中に染みついている。
橘さんを囲む2軍の女子たちは、楽しそうに会話しながらも、どこか彼女に気を遣っている。
笑顔を見せつつも、「橘さん、やっぱ可愛いよね」「ほんと、何でも似合っちゃうもんね」と、橘さんを持ち上げる言葉が飛び交う。それが本音なのかおべっかなのか、健斗には分からない。
「おはよ!」
教室のドアが開き、クールな白石さんが入ってくると、教室の雰囲気が一瞬で変わる。それまで楽しそうに話していた2軍の女子たちは一斉に話をやめ、次々に「白石さん、おはよう!」と元気よく挨拶を返す。
1軍の彼女たちは、どこか他の生徒を従わせる空気をまとっている。教室に笑い声を響かせる彼女たちと、その周囲で気を遣いながらも控えめに振る舞う2軍の女子たち――。
対照的に、3軍の女子たちは机に向かって本を読んでいるか、話すにしても教室の片隅で、声をひそめて会話を交わす。笑うこともなく、顔には緊張感すら漂っている。
健斗は自分の席に戻り、英単語帳を開いた。教室の喧騒に耳を傾けながら、ふと周囲を見渡すが、結局、自分のいる場所はそのどこにも属さないと感じてしまう。ただ、朝のホームルームが始まるのを、黙って待つだけだった。
◇ ◇ ◇
2時間目の古文の授業が終わると、日直の健斗は黒板消しを手にして、黒板に向かって歩き出した。すっかり女の子としての振る舞いには慣れてきたものの、こういった雑用は今も昔も変わらない。健斗は淡々と黒板を消し始めた。
3分の1ほど消したところで、ふと隣を見る。もう一人の日直であるはずの小林がいないことに気づいた。彼の席の方を見やると、小林はサッカー部の仲間たちと楽しそうに笑いながら話していた。
「ちょっと、小林、日直でしょ。黒板消すの手伝ってよ」
健斗は、思わず男子時代と同じ調子で小林に呼びかけた。その瞬間、周囲の空気が変わった気がした。小林は、驚いた表情を一瞬だけ見せたが、すぐに笑顔に戻り、気軽な調子で答えた。
「あっ、わりぃ、わりぃ。日直だったの忘れてたわ」
小林は軽い足取りで立ち上がり、黒板へと小走りで向かってきた。二人で黒板を消し終わるころには、教室の中は静まり返っていた。健斗は何かおかしなことをしただろうかと、胸騒ぎを覚えながらも、そのまま黒板消しを元の位置に戻す。
振り返ると――そこにいたのは白石さん。冷ややかな視線を健斗に向けている。白石さんだけでなく、その周囲にいた取り巻きたちも、同じように鋭い目でこちらを見つめていた。肌がピリピリとするほどの緊張感が、教室全体を支配している。
健斗は、一瞬にして何が起きたのか理解した。
「――やっちまった」
男子だった頃の習慣で、1軍の小林に気軽に呼び捨てにしてしまったことが、女子の世界でどれほどタブーな行動だったのかを、この瞬間思い知らされる。健斗は胸が締め付けられるような息苦しさを感じながら、その場に立ち尽くしていた。
取り巻きの一人が、白石さんにそっと耳打ちをしている。まるで健斗を批判するかのような表情だ。
「日直だから手伝ってもらっただけなのに……」
心の中でそう弁解してみても、冷ややかな空気は変わらなかった。白石さんの視線は、まるで「ルールを知らない外れ者」を見るかのような、冷たく鋭いものだった。
昼休み、健斗は文恵に呼び出され、人気のない非常階段に二人並んで座っていた。文恵はおにぎりをかじりながら、ため息をついた。
「2時間目のアレ、まずかったね」
健斗も手に持っていたおにぎりをかじりつつ、苦笑いを浮かべた。
「ごめん、つい昔のくせで呼び捨てしちゃったんだ。男子のときは普通だったから……」
文恵は無言でスマホを取り出し、健斗の前に突き出した。
「ほら、見て」
スマホの画面に映っていたのは、クラスメイトたちの書き込みだった。そこには、健斗に対する辛辣な言葉が並んでいた。
「小林君を呼び捨てにするとか、身の程わきまえろっての」 「ほんとそれ。男がスカート履くとか、気持ち悪すぎでしょ」
その言葉が健斗の胸に重く突き刺さる。口の中のおにぎりが急に味気なく感じた。
「これは……?」
健斗が問いかけると、文恵は冷静に答えた。
「クラスの裏SNSよ。表じゃ言えないこと、ここに書き込んでるの」
健斗は驚きつつ、文恵からスマホを借りて過去の投稿をスクロールしてみた。「今日の宿題多すぎ」や「授業つまんない」といった軽い内容に混じって、クラスメイトたちの陰口がちらほらと見えてきた。
「いつの間に……俺、こんなの知らなかった」
健斗はスマホの画面をじっと見つめた。文恵が隣で小さく笑いながら、健斗からスマホを受け取る。
「そりゃ、裏SNSだからね。発言していいのは2軍以上。3軍が何か言ったって、無視されるか、すぐに陰口の対象にされるだけ。だから、3軍の子たちはあんまり見ないのよ」
裏SNSの存在を知り、言葉を失った健斗に、文恵がさらに追い打ちをかける。
「ところで、稲垣さん、招待されてなかったんだ?あ、そうか。4軍の人は最初から存在しないもの扱いだもんね」
健斗は静かに息を吐いた。3軍の陰口が飛び交う場所にさえ招待されない。自分がどれほど底辺にいるのか、改めてクラスカーストの冷酷さを感じた。
健斗は文恵に問いかけた。
「米川さんは、この状況で満足してるの?」
文恵は一瞬、言葉を飲み込むようにしてから、諦めたように肩をすくめた。
「満足してるわけないよ。でも、3軍の私が何言ったって、カーストがなくなるわけじゃないし」
そう言って、文恵は少し冷めた目をしてペットボトルのお茶を飲んだ。
「カーストがなくならないのはわかるけど、それでも2軍になりたいとは思わないの?」
健斗がもう一度問いかけると、文恵は一瞬黙り込み、うつむいて両手で顔を覆いながら、少し震える声で答えた。
「もちろん、なりたいよ。私だって、みんなと楽しくおしゃべりしたいし、冗談に笑ったりしたい。彼氏だって、ほんとは欲しいんだよ……」
その言葉を聞いた健斗は、一瞬迷ったが、意を決して口を開いた。
「だったら、さ、一緒に2軍を目指そうよ」
「えっ?」
文恵が驚いて顔を上げる。
「そうだよ。2軍に上がる方法はあるんだろ?2軍の子と仲良くなるか、彼氏を作ればいいんだよな。それなら、やろうよ。できることから始めてみよう」
健斗の真剣な言葉に、文恵の表情が一瞬曇ったが、次の瞬間、彼の手をしっかり握った。
「……わかった。確かに、このままじゃ高校生活がずっと暗いままだもんね。一緒に頑張ろう!」
その握りしめた手から、少しずつ、二人の決意が固まっていくのを感じた。