由希の悲劇
……由希は強制的に右大臣・藤原家里の妾にされたとはいえ、それなりに不自由ない生活をしていた。家里も表向きは由希に優しく接していた。
ところが由希が十九を迎えた年のことだった。満開の桜も散りはじめる頃、王朝時代の一大行事である葵祭りが、四月の中の酉の日に盛大に催された。当日は内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉で飾る。したがって葵祭りと呼ばれるわけである。
祭りも一段落すると、右大臣邸では酒宴が催される。そして由希が座興に舞を舞ってみせた。
愛し 愛しや
世は乱れ 時はうつろえど
思いは募る 我が胸中に
我が心を知るは 一輪のすみれのみ
この舞の最中、由希は突如として軽いめまいを覚え、その場に昏倒してしまう。座が騒然となる中、人事不肖の由希は家里の部屋へ運びこまれた。
「それで由希の様子はどうなのじゃ?」
さしもの家里も、由希の身を案じて医師に尋ねる。しかし医師の申すには、単なる心労であり大事ではないという。そして倒れたその日のうちに、由希は目を覚ました。
「もう大丈夫じゃ。医師が申すには、さしたることではないそうじゃ」
と家里は優しくいった。
「それでは余は今宵も用があるので、ひとまず失礼する」
家里は立ち去ろうとする。しかし、その時背後で声がした。
「もう行ってしまわれるのですか?」
思いがけない声だった。由希はここへ無理矢理連れてきて以降、表向きは従順でも本心では己を拒み、抗っていること家里は重々承知していた。振り返ると、由希のしなやかな体が、ふわりとおおいかぶさってきた。
「梅妃様のもとへゆかれるのですね」
「違う、余にはまつりごとがある」
「恐ろしいのです。誰かが私を呪っているようで、私はまことに大事ないのでござりましょか? もし、このまま死んだら私の魂は一体どうなるのでありましょうや?」
「縁起でもないことを申すな!」
と家里はかすかに声を荒げる。
「仮に私がこのまま死んでも、魂は側近くにいてもよろしゅうございますか? 右大臣藤原家里様」
由希が目に涙を浮かべながらいうので、家里は思わず沈黙した。
「わしの方こそ、例え死んでもそなたのもとを離れぬ」
と家里は由希に甘い言葉をかけた。
「ならば証を……」
懇願する由希に、家里は懐からお守りを取り出し、それを由希に与える。
「そなたの魂と余の魂は一つじゃ」
もちろん由希はまだ幼い。権力者の言葉の裏表など知る由もなかった。
やがて由希は女の子を産んだ。娘は「幸」と名付けられる。しかし生まれて数日しか、母親のもとにいることは許されなかった。
家里の母達子は、出自卑しい由希を気に入ってはいなかった。ろくに教養もなく、学問もない由希のもとに孫を預けてはおけないと、自らのもとに引き取ってしまったのである
由希は反発したが、最後はどうすることもできなかった。
一方、家里の正妻である梅妃は、家里のもとに嫁いでもう何年にもなる。しかし、いまだ子を授かってはいなかった。そのため、由希に強い嫉妬の感情を抱くようになる。彼女は母の五条宮と結託して、恐るべき陰謀を画策するにいたるのである。
ある時、達子は病になった。様々な薬湯をためしてみたが効果はなかった。そこで梅妃が、自らのもとに仕えているという陰陽師に、達子の前で祈祷をさせることになった。しばらく厳かな祈祷が続いたが、やがて陰陽師は、意味不明の叫びと共にその場に昏倒する。そして次に陰陽師が発した言葉は、さらに衝撃的だった。
「子供を返して! 幸を返して!」
陰陽師は七転八倒の末、ついには達子に襲いかかり首をしめようとさえした。
「何をする無礼者!」
「子供を返せ! 子供を返せ! さもなくば殺してやる!」
座は騒然となった。その場にいた者達が必死に取りおさえはしたものの、祭壇はめちゃくちゃに破壊され、噂はすぐに宮中の隅々にまで広まった。しかし実のところ、問題の陰陽師は梅妃に命じられて芝居をしていたのであった。
「恐れながら、これは子を取り上げられた由希の生霊の仕業では? あの女を宮中に置いておくかぎり病は癒えず、さらに良からぬ事がおこるやもしれませぬ」
梅妃は、由希を宮中から追放せよというのである。しかし達子がそれに賛成しても、家里は由希を手放そうとしない。そのため梅妃と五条宮は、さらなる陰謀を画策するのだった……。
……将軍はようやく目を覚ました。
「夢であったか……」
すでに将軍は、夢の内容さえうろ覚えであった。もちろん、由希に魂を半分乗っ取られたことに、まだ気づいていない。
三月ほどして、将軍は再び牧野邸を訪ねた。例によって例の如く能の鑑賞会が行われ、その後は将軍による儒学の講義である。しかしその後の将軍のふるまいは、儒家が説く理想の君主のふるまいからは、はるか遠いものであった。
すでにお久里は覚悟していた。しかしこの日、将軍が夜伽の相手として指名したのは、お久里ではなかった。
「そなたはもうよい。安子とやら、そなたは残れ。他の者はさがってよいぞ」
なんと将軍が指名したのは、お久里の長女の安子だったのである。
「恐れながらお待ちくだされ!」
これに反発したのは、安子の婿成時だった。あまりのことに動転したか、一瞬、刀にさえ手がかかった。しかし成貞が鬼の形相で立ちはだかり、もはやどうすることもできなかった。
こうして、牧野の家は将軍の身勝手のためにめちゃくちゃになり、ほどなく安子は江戸城大奥へと連れ去れてしまうのだった。