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鬼のほほえみ

 成貞の娘安子が江戸城大奥の人となり、早くも半年ほどが過ぎた。将軍は再び牧野邸に姿を現わし、その際は安子も同伴した。
 将軍の特別なはからいにより、安子はしばしの間、父の成貞と親子水入らずの一時を与えられた。二人きりになると安子はたちまちにして泣き崩れた。
 無理もない話しである。江戸城大奥にはいくつもの厳格なしきたりがあり、女同士の嫉妬や憎悪、醜い争いが常にあった。新入りの安子に対しての風当たりもむろん強い。
 今まで両親の庇護のもと、蝶よ花よで育てられた十六歳の安子にとり、毎日がつらいことの連続だった。それよりも何よりも、最も過酷な試練は、将軍との夜の営みだったのである。
「そういえば、成時様はいらっしゃらないのですか?」
 娘の問いに成貞は、しばし沈黙し険しい表情をうかべた。
「そうですか……わかりました。私とはもう会いたくないということですね。父上、どうか成時様に伝えてください。私のことは忘れて、他に良い人を探して幸せになってくださいと」
 安子は涙ながらにいった。しかし成貞は、この時本当のことをいえなかった。事態は安子が思っているより、はるかに深刻だったのである。
 しばし昔話や大奥での話しなどが続いた後、成貞は思い切って安子に秘事をうちあけた。
「今しがた将軍の膳に毒を盛った。ここなら毒味はおらぬ。案ずることはない。即効性の毒ではないので、じわじわと効果があり、やがて将軍は体が弱って死にいたる。いかに将軍とはいえ、これ以上、あの方に振り回されるのはごめんなのでな」
 と成貞が恐ろしい形相でいうので、安子もまたしばし沈黙し、青ざめた表情をうかべた。

 それから数カ月が過ぎ、元禄の世も幾度めかの桃の節句の季節がやってきた。今日の桃の節句は三月三日ときまっているが、これを旧暦になおすと四月三日となる。ようやく春も本番といったところである。
 この日、将軍生母桂昌院、御台所の鷹司信子、側室お伝をはじめとして位の高い大奥女中たちは、そろって江戸城中奥へと招かれた。
 江戸城本丸はおよそ三つの空間にわかれる。将軍が政務を行う「表」、将軍のプライベートな空間である「中奥」、そして、将軍の女たちが居住する「大奥」である。
 大奥女中達は打掛をひるがえしながら、普段は訪れることのない中奥御座の間へと赴く。そこはおよそ百五十畳はあろうかという、広大な空間だった。
 中心には将軍がいる。といっても、将軍の座所には簾がおろされており、その姿をじかに見ることはできない。幕閣の面々はすでに勢ぞろいしており、吉保もいれば、牧野成貞もいた。
 この日は能の鑑賞会が行われた。「敦盛」、「浮船」、「雨月」などという能のレパートリーが続くも、将軍の隣に座した御台所の信子は、始終口をへの字に結んだまま無表情である。そして能の中で京を連想させる場面にさしかかると、たちまち不機嫌さを表にだした。
 やがて「葵上」が曲目として演じられる。これは源氏物語で光源氏によって冷遇された、かっての愛人の六条御息所の物語であった。この時、信子は光源氏に見向きもされなくなった御息所に、自らの境遇を重ねあわせる。そして不快感を露わにし席を立ってしまった。さすがの将軍も、困惑した様子でこの光景を見守るしかなかった。
 だいたい将軍は、初めて嫁いできたその日から、めったに御台が笑ったところを見たことがなかった。まるで魂のない氷のようであり、将軍の御渡りも数年は途絶えていた。
 容姿は必ずしも悪くはなかったという。当時江戸城を訪れたドイツ人医師のケンペルは「ヨーロッパ人のような黒い瞳をしており、褐色がかった丸みのある、美しい顔だち……」と信子をほめている。
 もっともケンペルは、信子については詳細な記録を残しているが、将軍についてはなにも記録していない。直に接する際も、簾越しにしか拝謁を許されなかったのである。もしかしたら将軍は、子供ほどの背丈のため己が日本国のトップとして、外国人に侮られることを恐れたのかもしれない。

 この信子には、なにかと黒い噂が絶えなかった。
数年前のことである。将軍の寵愛を受けていた多喜恵という側室が懐妊した。
「本来であれば、一度でも上様の手が付いた者は里へ戻ることすら許されん。なれど私が特別に許す。今回だけ父母のもとへ戻るがよいぞ」
多喜恵は喜びすぐに旅支度を整え、故郷への帰路についた。しかしこれが罠だった。道中常に、信子の放った間者が付きまとっていたのである。やがて多喜恵と間者は城に戻ってきた。
「何か変わったことはないか? 男と密通しておる様子はなかったか?」
「さあ? それといった様子は……」
「ええい! ならば誰でもよい! 関わった男はおらぬのか?」
「そういえば、医者にかかっていた様子」
 間者の報告に、信子は不気味な薄ら笑いをうかべる。
 やがて彼岸の日がおとずれた。御台である信子は自ら餅を作り、お目見え以上の女中達にふるまった。その後は心得のある女中たちが、得意の歌や舞を披露した。信子は昼間から酒を飲み、珍しく上機嫌だった。
「酔ったのう……歌や舞も飽きた。多喜恵そなたは武家の家の出身で、弓の心得もあったのう。どうじゃ、この場で得意の腕前を披露してくれぬかのう?」
「私がですか? 生憎を私はこの通りの身上で……」
 多喜恵は、大きくなった腹をなでながら困惑の色を浮かべる。しかし御台にどうしてもとせがまれ、渋々弓を披露することとなった。すでに弓を放つ的も用意されており、周囲には、幕が張りめぐらされている。多喜恵が放った矢は見事的を射抜くも、次の瞬間何者かのうめき声がした。
 信子が乱暴に周囲の幕を引き剝がすと、そこには木に縛りつけられた男の姿があった。なんとそれは、多喜恵が里に帰った際世話になった医者のもので、助手をつとめていた者だった。
「そなたこの者を存じておろう。そなたと情を通じたと、この者がはっきりとそう申したのじゃ」
信子はまるで、勝ち誇ったかのようにほほ笑みうかべながらいった。よくみると、腕にも足にも明らかに拷問されたような痣があるではないか。恐らく拷問の末に、ありもしない男女の関係を自白させられたに違いなかった。多喜恵は己が罠にはまったことを悟る。
 この後、多喜恵も激しい拷問にさらされる。当然、おなかの子は流れてしまった。そして傷心の多喜恵は井戸に身投げしたのである。

 そもそも将軍に子がないことも、こうして密かに信子が裏で糸を引いてのことと、女中たちの間でしばしば噂された。そしてその嫉妬と憎悪の炎を、安子も強く感じていたのである。


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