case1.漠然とした不安
横浜。
駅から少し歩いたところの雑居ビル群。
そのうちの一つ、年季を感じる五階建て。
人一人しか通れないような狭い階段をのぼって三階へ。
『高遠カウンセリング』
一人の年若い女性がドアを開けた。
オークチックの床、白く塗られた壁、不織布のソファ、観葉植物。ビルの外観とは似つかわしくない小綺麗さ。アロマが焚かれているようで、ほのかに甘い香りがする。
受付で自動発券機のボタンを押して番号札を受け取り、ソファに腰掛ける。
少しして、
ぬぅっ
奥の部屋から長身の男が出てきた。
ボサボサと言える頭髪に黒縁眼鏡。眼鏡が目の隈を隠す。
無精ひげは隠そうともしない。
寄れた白衣を羽織り、中は無地の黒Tシャツに七分丈のズボン。ピンクサンダルが目に留まる。
にこっ
薄ら笑いを浮かべて、
「頼岡さん、どうぞー。」
男に促され、女性が談話室に入る。
三年前にここでカウンセリングルームを立ち上げた。
それまで新卒でサラリーマンをしてたんだが、まぁ嫌になってな、働くのが。上からは目標達成の圧力。下からは「上手く仕事できなくてごめんなさい」アピール。客からは難癖。そんな毎日だった。
そんなこんなでうつ病になって、しばらく休職することになった。で、その休み中に色々あって、カウンセラーになることにしたってワケ。「色々」の中身は、面倒だから後で話す。
「頼岡さん、お久しぶりです。久しぶりと言っても一週間ですが。その後どうですか?気分の方は。」
「その後、ですか。はい、いや、前に来て、帰ったばっかりのときは、いい気分だったんです、けど、それから段々と、やっぱり、不安、不安になってきて、うん、いや、はい、それで、不安になって、なってきたので、また今日来たって、感じです、はい。」
二十四歳女性。OL。大学卒業後、横浜の保険会社に就職。一人暮らし。恋人は無し。友人関係はそこそこ。軽度のドルオタで、たまにコンサートに行ったりグッズを買ったりする。
悩みは、漠然とした不安。何のために生きているのか、と度々考えてしまう。一度考え込んでしまうと頭がいっぱいになり、呼吸が荒くなって、動けなくなる。
心療内科に通い続けているが、なかなか不安は払拭されないという。
まぁ俺にとってはどうでもいいが。
適当に話を続けたところで、そろそろ本題に入る。
「なかなか気持ちのコントロールは難しいですよね。悪くはなってないということなので、これから徐々に調子を上げていきましょう。」
「は、はい。」
「さて、頼岡さん、」
前のめりになる。
「今日はどうします?」
蛇のような目つきで睨めつける。
「抜いて、いきます?」
彼女は目線を合わせないまま、
「えっ、あっ…はい、お願いします…」
にこっ
「分かりました。準備しますので、少し待ってください。」
デスクワゴンを引き出し、中から水晶を取り出す。
コン
クッションを敷いて転がらないようにし、右手を添える。左手は、上に向けて開いておく。
「はい、できました。じゃあ頼岡さん、目を閉じて。」
「はい…」
「思い浮かべてください、今自分が悩んでいることを。どんなときに悩んでしまうでしょうか?仕事をしているとき?家に一人でいるとき?誰かに会ったとき?ゆっくり、だけどしっかり、イメージしてください。あなたを悩ませているのは、何でしょうか?」
スッ
スオオオオオオオ
彼女から靄が立ち込めてくる。
灰色に近い白の靄。
「あなたの悩み、それはどうしたら解決すると思いますか?何でも構いません。倫理や道徳はこの際考えないでください。あなたに悩みばかりもたらす世界を、どうしてしまいたいでしょうか?」
スウウウウウ
靄がまるで惹き込まれるかのように、高遠の左手の上で渦を巻く。
それが段々と、濃く、大きくなっていく。
三分後。
彼女から靄が出なくなった。高遠の左手には、手の平大ほどに膨らんだ靄の塊が、実体となって収まっていた。
「はい、もういいですよ。目を開けて。」
彼女が目を開ける。
「どうですか?」
「あ、はい。やっぱり気分がスッキリしてます。頭の中が軽くなったというか、視界が晴れたような、そんな気がします。」
彼女は心なしか目が大きく開いており、背筋も伸びている。語気も先ほどより堂々としている。
「そうですか、それは良かった。」
にこっ
「また何かありましたら来てくださいね。お疲れ様でした。」
「はい、ありがとうございます。」
会計八千円を済ませて、彼女は去っていった。
「さて、と。」
物体を手に、カーテンで区切られた部屋に向かう。
シャアッ
薄暗く狭い部屋には所狭しとラックが立てられており、そこには先と同じような物体が無数に並べられていた。
高遠は空いているスペースに物体を押し込み、メモ書きを貼る。
『頼岡明奈』
『二十代前半女性』
『漠然とした不安』
「大分増えたな。まぁしょうがないか。」
カーテンを閉じ、デスクに戻る。
「ふあーああ。また客待ちだ。」
俺は黒魔術を使える。自分でもおかしな話だと思う。でも使えるもんは仕方ない。
仕事が嫌になって休んで、それで時間がいっぱいあったから、この世の全てを呪ってやろうかなと思って古本屋やら雑貨屋やらで色々買い漁って試してたら、なぜかこんなのができるようになった。
水晶に手をかざしていると、傍にいる人の憂鬱気分を吸い出すことができる。吸い出したそれは実体化し、ボールみたいな丸い形になる。大きさはどの人の気分の重さとかで変わるが、だいたいボーリング玉より小さいくらい。たまに野球ボールくらい小さかったり、ビーチバレーのボールくらい大きかったりする。
吸い出した後、その人は気分がスッキリする。当然だ、憂鬱気分が無くなったんだから。ただ、しばらくするとまた憂鬱気分を感じるようになる。これも当然だ、一時的に吸い出しただけで、悩みの根本的な記憶や体験は残っているから。しばらくすればそれを辿って自然と憂鬱気分が復活する。ただ今までにないくらい気が晴れるので、一度これを味わうとなかなか抜け出せないらしい。
らしいというのは、自分にはできないから。友人を何人か実験台にしてハイにさせた後で、自分のが吸えないか試してみたが、駄目だった。まぁ自分が鬱じゃなくなったところで一銭も儲からない。
だからカウンセラーになることにした。適当に話を聞いてちょちょいと吸い出せば金が貰える。なかなかいい商売だ。サラリーマン時代の貯金をはたいてここに拠点を構えたが、立地もそこそこで客入りも悪くない。最初は黒魔術なんて信じないだろうが、とにかく一度吸ってしまえば最後、信じようが信じまいがリピーターになること必至。コスパだけ見れば最強だ。
頼岡も最初は半信半疑だったが、今や週一で足を運ぶようになった。一回八千円。笑えてくるな。汗水たらしてサラリーマンにしがみついていたのが馬鹿としか思えない。
それで残った鬱ボールはこうして日陰で保管している。放っておけばどんどん縮んで消えてなくなるが、だいたい二か月半かかる。だからこうして部屋を埋めるくらいには溜まってしまう。
一応使い道はあるんだけどな。これについても面倒なので今度話そう。
ガラッ
お、また誰か来たな。よしよし、今日は客の出入りが悪くない。久しぶりに鰻でも食うかな。
席を立ち、客を迎えに行く。警戒されないよう、できるだけ、笑顔で。
にこっ
「あぁこんにちは、今日はどうされました?」