鳳凰
松の木を登り、一番屋根に近い枝から瓦にそっと片足をかけた彼女は、タイミングを計るように体を揺らし、
「せーの」
と小声で呟いてからもう片方の足も屋根の上に乗せた。
しっかりと体勢を安定させた後、彼女はわしの方を見て手招きした。
わしはそれを確認すると、彼女を真似るように木に登り、両足を揃えてジャンプした。
音も無く隣に着地したわしを、彼女は呆れたような表情でみていた。
「一体どうなっているんだ? なんでそんな静かに着地できる。靴がそういう素材なのか? ……む。今気づいたが、草履を履いているじゃないか。その恰好といい、君は相当変わってるな」
「同じような恰好しとるじゃろ。あんたに言われたかない。それにあんたも下駄じゃないか。それであんだけ動けてりゃ上等じゃよ」
「そうか。まぁそれはさておき、少しだけ説明しよう。今の時間帯、家の者は大体寝ている。規則正しい生活を心掛ける人たちだからな。だからといって油断は禁物だ。お手洗いに起きるかもしれないし。充分に注意してくれ」
「おう」
「そしてこれは私の部屋の窓だ」
彼女は目の前の窓を開けながら言った。
「ほらな。さっき言った通り開いているだろう」
「ドヤ顔するようなことでもないと思うんじゃが」
「ちょっと嫌だが、仕方がないから一旦ここから家に入るぞ」
「すまんな。汚らしい恰好で」
「ハハ。まぁいいさ。じゃあ入ってきたまえ」
まず彼女が下駄を脱いでそれを片手に部屋に入った。
それからわしも同じように部屋に入ろうとしたのだが、彼女が
「うわ。君の足ちょっと汚れすぎじゃないか? タオルを持ってくるから少し待っててくれ」
と言った。
タオルを持ってきた彼女はわしの足をごしごし拭き始めた。
「ちょ、やめんか! くすぐったいじゃろ!」
「君の足がこんなに汚いのが悪いんだ」
指の隙間まで隈なく拭いた後、彼女はタオルをゴミ箱に放り込んだ。
「よし。入っていいぞ」
「へいへい。そんじゃ失礼するぞ」
わしはようやく部屋に入った。
なんの面白味もない部屋だった。
綺麗に整理整頓されている。
彼女の言動からなんとなく散らかった部屋を想像していたから、そういう意味では意外といえば意外だったが、立派な庭や家の外観を見た後では特に違和感もない。
彼女は埃一つないフローリングに新聞紙を広げた。
「とりあえずその草履はここに置いておいてくれ。私は下駄箱にこれをなおしてくるから」
彼女は手に持った下駄を見せながら言った。
「なおす?」
「ん? あ、そういえばこれは方言らしいな。片付けてくるということさ」
「そうか。じゃあ待っとるぞ」
「ああ。大人しく待っていてくれ」
そう言って彼女は部屋を出て行った。
彼女を待つ間、軽く部屋を観察してみた。
文豪か、とツッコみたくなるような洒落た机。
隙間なく背表紙で埋められている本棚。
……。
あいつ実は頭いいのか?
なんか部屋を見ているとそんな気がしてきた。
いや、冷静に考えればこんな格式の高そうな家の生まれで教養がないほうが不自然か。
そんなことを考えていると、部屋のドアが開いた。
「お待たせしたな。それでは、風呂に行くか。場所は一階だ。慎重に行こう」
そうしてわしたちは、忍び足で風呂を目指した。
廊下にも高そうな絵が飾ってあったりして、身分の違いを感じた。
彼女の後について進みながら、わしは耳を澄ませた。
家の中にいくつか人の気配はあるが、動いている様子はない。
目を閉じて更に集中する。
気配は四つだ。
一つずつ確認してみたが、どうやら全員寝息を立てている。
これならひとまずは安心だ。
わしがそう結論付けて目を開けると、目の前に彼女の顔があった。
「! なんじゃ! びっくりするじゃろ!」
「いや、君が急に立ち止まって目を瞑るものだからどうかしたのかと思って」
「あぁ。そうか。すまんかったの。気配を探ってたんじゃ。今この家にいる者は全員寝ているみたいじゃの」
「は? どうしてそんなことが分かるんだ」
「まぁいいじゃろ。とにかく分かるんじゃよ」
「はぁ……。よく分からんが。まぁいいか。ちゃんとついてきてくれよ」
そう言って彼女はまた進みだした。
問題なく脱衣所に到着した。
彼女は浴室を確認して言った。
「やはり風呂はもう洗われているようだな。湯船につかることはできないが、我慢してくれ」
「おう」
「……んー」
彼女が急に考え込み始めた。
「どうしたんじゃ?」
「さっき家を出る前に風呂に入ったんだが、少し汗をかいてしまったんだ。よし。やっぱり私もシャワーを浴びることにしよう。玄柊、先に入るのと後から入るのとどちらがいい?」
「わしの方が汚れまくっとるし、わしが後の方がいいんじゃないか?」
「そうだな。じゃあ先に入らせてもらおう。なるべく早く済ませる」
「ごゆっくり。んじゃわし後ろ向いとるからな」
わしは彼女に背を向けた。
脱衣所には鍵がかかるようだから、仮に誰かが来てもここなら安心だ。
衣擦れの音が聞こえる。
こんなことでドギマギするような歳でもないし、そんなことより久しぶりの温水での水浴びにわしは心躍らせていたのだが、ふと視界に入った鏡に映る彼女の背中に目を奪われた。
彼女の真っ白な背を埋め尽くすように巨大な
刺青だ。
そう確信した時点でわしは鏡から視線を外した。
それから彼女は浴室に入り、しばらくしてから出てきた。
「ふー。すっきりしたよ。ちょっと酔いが醒めたかな。飲み直さないと」
「いや、別に飲み直す必要はないと思うんじゃが」
「では、お待たせしたな。君も入るといい」
交代してわしもシャワーを浴びた。
体を綺麗さっぱり洗い流しながら着替えがないことに気づいた。
体は清潔にしたが、服は洗濯しなければどうにもならない。
わしは別にあの恰好でも問題ないが、彼女がそんなわしを部屋に入れたがらない。
さてどうしたものか。
「おーい」
「なんだい?」
「申し訳ないんじゃが、わしの着替え用意してくれんかの」
「ああ。そういえばそうだった。用意するよ」
脱衣所でガサゴソと音がした後
「すまない。ここには下着しかない。それに今この場を私が離れるわけにもいかないから、部屋に行ってから着る物を渡すよ」
という彼女の声と、洗面所の水を流す音が聞こえてきた。
「おう。助かる」
「というか君、下着もボロボロじゃないか。これ穿いてる意味あるのか?」
「一応あるじゃろ。ってか何を勝手に人の脱いだもん漁っとるんじゃ」
「漁ってるとはなんだ。失礼な。洗ってあげようとしただけなのに」
「あぁ。そうか。そりゃありがたい」
「……あ、まずい。破れてしまった」
「? 破れた?」
「申し訳ない。今、手洗いしていたんだが君の下着が犠牲になってしまった」
「下手くそか。わし、そんなことなったことないぞ。物を大切にせんか」
「あ、もしかしてこれ、君がずっと洗ってきたのか? ボロボロだからどれだけ雑に扱っているのかと思ったが、逆だったんだな。大切に長く使ってきたということか」
「いや、パンツについての分析なんかどうでもいいんじゃが……」
「愛用してきたものを、すまない」
「別に特別愛着があったとかってわけじゃないぞ」
「そうか。えーっと。じゃあこれはもう穿けないだろうし処分しておいてもいいか?」
「そうしてくれ」
浴室から出ると、彼女はこちらに背を向けて立っていた。
すぐそこの床にかごが置いてあって、その中に替えの下着が入っていた。
ふわふわしたバスタオルで体を拭いた後、パンツを穿いた。
「ありがとな。色々世話になって」
「構わないさ。それに部屋に戻ったら旅の話をたっぷり聞かせてもらうからな。それでチャラさ」
「太っ腹じゃの。……って、いつまで後ろ向いとるんじゃ。もうパンツ穿いたぞ」
「あ、そうか。どうだ。サイズは」
彼女は振り返りながら訊いてきた。
「若干小さいが、許容範囲内じゃの。ん? どうしたんじゃ」
彼女はわしの体を上から下まで見て唖然としていた。
「……なにがどうしたらそんな体になるんだ」
「なんじゃ。人の体にケチつけるのか?」
「いやいや。そんなわけじゃないけども……」
彼女はゆっくりと近づいてきて、わしの体をペタペタと触ってきた。
「うぉ! なにするんじゃ!」
「うーむ。鉄のようだな。君本当に人間か?」
「少なくとも鉄ではないな」
「えぇ……。実は鉄なんだと言われた方が納得できる」
「実は鉄ってなんじゃ。鉄が喋るか。……というかよく考えたらこのパンツって誰のなんじゃ? 勝手に使ってたら持ち主にバレたりせんかの」
「ああ。それなら心配ないさ。その下着は私のものだ」
「……は? 待て待て。それはおかしいじゃろ。これ男物じゃよ?」
「別に私が普段何を穿いていたっていいだろう。人の下着にケチをつけるのか?」
「いや、そういうわけじゃないが……。え、嫌じゃないのか?」
「別に。というかあげるよ。必要だろう?」
「いらんわ。……いるんじゃったわ」
「貰っておけ。それじゃ、部屋に戻るか。戻る時も慎重に行こう」
「わかった」
わしらはゆっくりと脱衣所の扉を開けた。