12
自宅に帰って来た涼佑は、急いで私服に着替えようと鞄を椅子の上に置き、クローゼットを開けて服を取ろうと中へ手を突っ込んだ。
中を探っているうちにひやり、と湿った冷たいものに手を掴まれた。涼佑はその感触の正体を分かっている。視線を上げてもそこには何もいない筈だとも分かっている。幻覚だと思えば、そうなのだろうとも思う。確かに言えることは、その感触が手を伝ってきている、ということだけ。過去のトラウマが幻覚を見せているのか、それとも本当に掴まれているのか、もう涼佑は考えないようにしている。『手』に掴まれてもなるべく平常心を心がけ、瞬間的に手に力を込めて振り払えば、どうということはない。だから、今この時も涼佑はそうして振り払い、適当な私服を取った。
自宅の前で直樹と合流し、真奈美の家に着いた二人はいつものように中へ通される。しかし、いつもとは違って真っ先にリビングへ通された二人は、そこに絢と友香里の姿を見つめて不思議そうに首を傾げた。
「あれ? 真奈美の部屋とかじゃないんだ?」
「だって、待ち伏せるんでしょ? だったら、動きやすいように広い部屋の方が良いかなって話し合って決めたんだ」
「ああ、そうなんだ」
目で「そうなん?」と問いかけてくる直樹に、涼佑は助かると言いたげに頷く。巫女さんが戦う場は現実世界とは一線を画す妖域になるとはいえ、元々の建物や道の広さは変わらない。そういった意味では確かに真奈美の部屋よりはリビングの方が戦いやすいだろう。彼女達の心配りに感謝の意を述べつつ、さてこれからどういう作戦を取るか話し合う為、涼佑達もリビングソファに座った。
巫女さんも交えた作戦会議は、案外とすんなり決まっていき、後は待つだけとなっていた。巫女さんが近くにいると、『鹿島さん』は来ないかもしれないと思った一同は、涼佑だけ隣の部屋で待つことになり、リビングのすぐ隣にある和室を使うと良いと真奈美に了承を得て、涼佑は和室の襖を閉じて待機することになった。涼佑が来るまでは異変を直ぐ様感知できるようにする為、なるべく会話を続けることにした。
そうして和室への襖を閉め、世間話をしていると不意に、ずん、と空気が重くなる。「来た」と真奈美は思った。直樹達もその空気に気付いたらしく、自然と口数が減っていく。だが、肝心なのは『鹿島さん』に気付かせないことだと意識をしっかり持って、何とか会話は繋いでいてくれた。と、次いで彼らを襲ったのは、重い金縛りだった。いきなり全ての体の動きが止まり、頭は混乱しようともそれを表情に出すことすらできなくなる。今、この場にいる全員が「まずい」と直感した。
不意に閉めておいた筈のリビングのドアが独りでに開き、ゆらゆらとした動きで当たり前のように『鹿島さん』が入って来た。不揃いな両腕と片足を無理矢理取り付けたその姿で、体を覚束なく左右に揺らしながら侵入してきたのだ。重い空気と気配に和室の襖越しに感じ取りながらも、涼佑は全く動けないでいた。初めての金縛りに頭は完全にパニックになっており、「早く解かなければ」と気持ちばかりが逸る。
『鹿島さん』はリビングに入ってくると、まるで値踏みをするように真奈美達一人一人の顔を覗き込んでくる。頭などありはしないのに、皆一同、顔を覗き込まれるように屈まれると、厭な視線を感じた。直樹は間近で見せつけられるグロテスクな『鹿島さん』の姿に心底怯えていたし、絢と友香里、真奈美も悪意ある『鹿島さん』の行動と臭気に脂汗が流れる。そうしていたかと思うと、『鹿島さん』はやはり、真奈美の前まで歩み寄り、その柔らかな頬に不格好な手で触れた。ひやり、ともぬめりともつかない冷たく湿った感触が真奈美の頬を撫ぜる。その感触に怖気を感じ、恐怖から目を閉じてしまいたいのにそれすら叶わない。『鹿島さん』の両手が彼女の頬にかかり、そのまま引き抜こうと力が込められたその時、襖を開けて巫女さんが躍り出た。
「遅いっ……!」
若干苛立ったような声を上げ、彼女は『鹿島さん』に素早く近付き様、刀を抜き去って斬り付けた。真奈美の頬に添えられていた腕を切り落とそうとしたが、寸でのところで避けられてしまった。
「ちぃっ……!」
舌打ちをし、もう一歩踏み込んで再び刀を振るおうとしたが、それより早く『鹿島さん』が動き、あるものを引き寄せて自分と巫女さんの間に盾として割り込ませる。それに刀を振りかぶった巫女さんの動きが止まった。
「友香里……! お前!」
『鹿島さん』が盾として引き寄せたのは、真奈美の隣にいた友香里だった。彼女の頭を乱暴に掴み、無理矢理割り込ませた『鹿島さん』は勝ち誇って笑っているように肩を揺らす。この為に左腕を得たのかと思うと、巫女さんの胸に怒りが湧き起こる。生者であり、何の罪も無い友香里を傷付ける訳にはいかない。振りかぶる途中で巫女さんは無理矢理刀の軌道を変え、何とか友香里を刃の軌跡から守った。刀が下へ振り下ろされたと見るや、『鹿島さん』は巫女さんへ友香里を突き飛ばし、彼女が友香里を受け止めている隙に、真奈美の体を軽々と持ち上げて妖域を閉じてしまった。
皆の体の自由が利くと、同時に『鹿島さん』の気配も遠ざかっていく。金縛りに遭い、真奈美が連れ去られてしまったことでパニックが表面化する一同に構っている暇は無い巫女さんは、友香里に「後を頼む」と言い残して『鹿島さん』の気配を追う為、外へ飛び出して行った。
どんっ、と感じた上下の揺れで、涼佑は何となく『鹿島さん』が移動しているのだと分かった。相も変わらず、彼がいる場所はネオンで飾られた空間と意味が通らない文字で形成された世界。前と同じようにガラスドアのプレートを見る。そこには『繧たし縺励?縺かしまセ縺輔s』と書かれていた。以前、ここに来た時と同じような文字列だと思った涼佑だが、前と違うのは解読不能な箇所が違っていることだ。確か、前の解読可能な文字はと思い起こしてみると、ある一文が出来ることに気が付いた。
「……あ、これって、そういう意味だったのか」
解読可能な部分だけを読んでみるが、以前と違ってドアは開かない。そこではた、と思い至った涼佑は以前見た文字と組み合わせて呟いてみる。すると、ドアはすんなり開かれ、彼は次の空間へ足を踏み入れた。
望の時と違って厭なものは感じない。それより彼が次の空間で感じ取ったのは『鹿島さん』の『焦り』だった。
「時計……? いや、時限爆弾か? これ」
涼佑の目の前には、何本もの束のような物が小さなテーブルの上に鎮座している。黒いコードで目覚まし時計と繋がれたそれは映画や漫画でよく見る時限爆弾に見えた。チッチッチッとやけに針が動く音が大きく響くそれを見て、彼が抱いた印象は正に『焦り』であった。
「時限爆弾ってことは、『鹿島さん』はもうすぐ消える……ってことか? えっ!?」
言いながら何とはなしにひょいと束の一つを持ち上げてみる。が、それは筒の束のように見せているだけで、ただの張りぼてが涼佑の手で持ち上げられているだけに過ぎなかった。中は空洞になっており、特に怪しいものは何も入っていない。ただ、時計だけが忙しなく動いているだけだ。
「どういうことだ? ハッタリってことか?」
先程のガラスドアに書かれていた文章と合わせて考えてみても、まだよく分からない。もう少しヒントが欲しいと思った涼佑は、次のドアへ目を向けた。