追走.1
真昼
その若者は、かさばる
片側が解放されている
一八〇センチ代半ばほどの長身で…――細身ではあっても、必要な部分に適度な肉はついている。
極度に
彼が胸の前に抱えているのは人間がひとり、中に横たわれそうな大きさの長方形。
全面の角が丸く成形され、やわらかな印象に仕上げられた法具箱だ。
焼けて黒っぽくなった竹のような暗い色相をしていて、深みのある
どういった素材によるものなのか…。
木材、紙とも。
五〇度ほども左上がりに斜め抱きされているその箱の
一個一個があやつる者のにぎりこぶしほどもあるそれを、右の手のひらで
建物の
そのくり返しのすえに彼が行きついたのは、朱鷺色の
法の家の外周の片翼。
その西側のなだらかな
「お、来たな……。用向きの
「はい」
前もって話をつけていたのだろう。懇意らしい青年から用意されていた青鹿毛の手綱をうけとる。
「なるようにしかなりませんけどね」
「(それは)いいわけだな。私は知らないからな。やんちゃは、ほどほどにして、ちゃんと戻ってくるんだぞ? エーファが心配する」
(――…そうは思えない……とまでは言わないけど…――友人としては、そう思うんだろうな……)
必要や偶然でもなくば、顔を合わせることもない母親の名を出された彼は、相手とは
借りうけた馬に目をむける。
全体的に黒いが、目や鼻のまわり、わきや
身なりや乗り物・所有物が立派だと、野盗に目をつけられやすくなるが、彼にはそういった事実をくらまし対処可能な
なによりもそれは、先をゆく者にならう様式でもあった。
単身の身軽さだ。
そこそこ整理された道や平地を行くのであれば、機動性も高い。
進む方向さえ
いくぶん大きめのショルダーバッグを腰のベルトに
いっけん遠出するようには見えない。
そんな装備の若者の指示で駆けだした黒馬が、褐色の鼻先をむけたのは、南…――。
そうと見てとったところ。馬を
遠ざかってゆく騎馬を視界に捕捉しながら。三歩踏みだした後、数秒間、足を止め、対象へもの思わしげな視線を
走りだしこそ緩慢だったが、人工の盛り土の傾斜をななめに通過する過程で、ぐんぐん速度を上げ、あいだに横たわっている距離を一気につめようかという後者は、十二、三歳くらいの利発そうな目をした男子だ。
セレグレーシュのまわりに
よゆうを感じさせる気のままの動作ながら、人間の脚力ではありえないようなスピードでつき進む。
その
《千魔封じ》の草原で最大ともいわれる《空白の円》の奇形樹形を視界のはしに。目標としていた人馬が、その側面をすり抜けようとしていたところだ。
ドドッドッ……と。馬の脚力が生みだす
「なぜ、彼らを追う?」
少年が人の言語でたずねると、馬上で中腰になっていた彼、アントイーヴが、えっ? と。声がした方をふり返った。
疾走する馬とならんで走る存在を視界に。
冷静に手綱をひきよせて、じょじょに馬の速度をゆるめる。
驚かなかったわけでもなさそうだが、そこで彼が
追いついてきた少年を左下に見おろした彼の瞳には、相手の虹彩が黄にほどちかい明るさの琥珀色にうつった。
未成熟なその姿には異質なほど冷たく、冴え冴えとしてみえた魔眼。
アントイーヴがその少年を目にしたのは初めてで――これが初対面でもあったが…――
――彼が
考えたアントイーヴは、(おそらく…そうだ)と認識した。
けれども…。
確定的な判断をくだしながら、どう
なにか変だなと思って見れば、パッカラ…パッカラっと、ゆるやかな
違和感の正体は、そればかりではなかった。
噂の
将来の美貌を約束するような容姿もあいまって、女子の評価が高かった。
アントイーヴが耳にしたその
笑顔の合間に見かける飾らない表情が大人びているとも。
とらえどころが無く、ほかの人間をことごとく無視するという話も耳にした。
愛想のない態度は、
だが、それだけではわりきれない…――
正しくは、安易に見過ごしたら命取りになりそうな不穏な兆候、おもむき。
印象が
気配が存在したのだ。
とにもかくにも彼を――
この顔でどうやって微笑むのか、とっさに想像できなくなるような
噂に聞いた柔和さ・友好的な反応が特定の人物にのみに向けられるものだとしても、その本質……本性を疑いたくなるような……。
睨まれる理由としてありえそうなところでは、その
事実がどうであれ、無難と思われる答えを返すにこしたことはない場面である。
「…。ふたりが心配だから」
返されたその言葉をどう受けとめたのか、金茶色の頭の少年
そして、わずかながら沈黙がつづくと、ぽつりと指摘したのだ。
「不用意な干渉は、彼の失点につながる」
おためごかしは無効のようだ。むしろ
それと見てとったアントイーヴは、相手の顔色をうかがうのをやめて、対応をより事務的な方向に切りかえた。
「彼らの目的地を知っていますか?」
「いや」
「では、彼の試験が行われる予定地がどこか、わかりますか?」
ななめ上にアントイーヴを映している少年の瞳は、冷めてるようでありながら油断なく視界にある相手の反応を観察している。
「ベルドゼの北…」
それでもひと呼吸の
(――
それにしても逆方向か……。店長に睨まれても昨日、発つべきだったかな……)
〝ベルドゼ〟ことベルドルーゼは、《法の家》から見て北方に位置する。
しかし、ふたりが向かった方角は南だ。
おそらく、森の中を南下して、そのうちつきあたる道に出たのだろう。
《法の家》の敷地(正確には、それを囲む《千魔封じの
その唯一といってもいい街道が北へ抜けるものなので、方向違いもいいところだ。
試験の流儀にならい目的地を
期間的にも、そこまで遠回りするゆとりはないはずで…――というこれは、森を南へぬけたと想定した場合の話であるが。
いずれにせよ。志願したのが彼女なら、他人の言うことなど聞くだろうか?
思案するなかにアントイーヴの
これという確信をもって行動していたわけでもなかったが、やはり問題が起こりそうだと。
「ほんとうは……これがある人の意思だと。そう信じるから行くんだ」
「誰の意思?」
アントイーヴは、その追及には答えることなく言葉をくり出した。
「質問を返します。貴方はなぜ、ぼくを追いかけてきたのです?」
その問いは聞き流されたので、さらに質問を重ねる。
「彼に契約を求めるつもりですか?」
「そんなことはしない」
「では、協力してくれますか?」
一瞬だったが……。
無感動に見えた少年
「われがおまえに力を貸さなければならない理由がどこにある?」
いくらか低い音で、ひと呼吸のうちにまくしたてられた解答。
そこでアントイーヴは、
「目的も理由も知りませんが、貴方は彼を認めているのでしょう? それなのに契約はしないという。
事情がどうあれ、思慮深く、やさしい
「好きに憶測を働かせていればいい」
「そうします。何事もなく終わるのなら、ぼくも手だしはしない。雲行きが怪しくなったとき少し力を貸してもらえれば、それで(いい)。彼に危険がおよんだ時だけでも……」
「…。われは……ときに安定を
「法印には、貴方がたの不安定を
「
ぽつりと告げた
「おまえは力の
「それは…、わからないよ。勢いで出てきてしまったけれど、ぼくはただ…。……
「いっときなりとも、おまえと契約する気はない。われは動かぬかもしれぬぞ?」
事情はぼかし、助力を確約してしまおうという働きかけに対し、その気もなく
おそらく、その事実を指摘しても堂々めぐりになるだけだろう。
会話の流れを変えたかったアントイーヴは、自分の心理状態が許容するところまで本意を語ることにした。
「
静かに思いをうちあけながら、彼は、かすかにほほ笑んでいた。
「《絆》を求める気もありません。《鎮め》を目指す道から外れた未熟者が、
アントイーヴの表情に
「ぼくは……
語る彼のまなざしが、ほどなく到達する森にそそがれた。
そのはじまりに一本だけ、とびぬけて高く成長している巨木を映す。
「——去年の初冬。
思いあたることならあった。
その頃、そのあたりで起きた事といえば…。
丘の北東に湧く湖のほとりに闇人の命がひとつ、沈んだことだろう。
——…魔力をふるうこともしない獣人に
——いや。未満の学生が背伸びしたそうだよ。あのあたりに住みついていた妖威……獣がいたろう? あれを、いちおう鎮めたらしいんだけどさ…——
——ひどいな。結果が救いようがない…。あのていどの妖威を鎮めるために、
——過信が導きだした悲劇だな…——
身近な土地で起きた
神鎮め文化が生まれた頃から、優れた法印使いを輩出してきた《ぺリ》と呼ばれる名門氏族。
そのなかでも期待されていた才子の
おおやけには、さわりていどの情報しか流れなくても限られた方面――《家》の上層とその氏族内では、かなり噂された。
「自分の力を……対処能力を過信していました。
進む方角を見て、まなざしを逸らそうとしないアントイーヴの横顔を、稜威祇《いつぎ》の少年は特に表情を変えることもなく、じっと観察していたが、
ぽそっと、もとの題材に会話をひき戻した。
「あの女は、なにをしようとしている?」
「ぼくの
「走り疲れた。馬の背中を貸せ」
「どうぞ。馬を驚かせないで下さいよ?」
このさいは協力だろうと監視だろうとかまわなかったので、アントイーヴの目もとに、やわらかな微笑がきざまれた。