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暗 影.6


(…——くる…しい…。……なん…で…?)

 セレグレーシュが目を覚ましたのは、全身を内部からしぼりあげられるような苦痛からだ。

 すっかり日が暮れて、その日できることもなくなったので法印をたち上げ眠りについたはず……だったのだけれども――…

 これから(ふと)ろうとしている、()せた月明かりのもと。

 不安定にかすれがちな(せま)い視野に把握できたのは、上方でざわめく木葉の影と……こころもち距離をおいて座っている連れの女性の青白い横顔。

 伏せられがちに(ひら)かれている冷めた瞳が、じっとセレグレーシュを見おろしていた。

 夜のとばりにおおわれ、とぼしい月の光をうけようとも……独自の霊的な構造色を固持し、素の色合いで認識される闇人の虹彩。

 それと感知する素養がなくば、適度な明かるさがないとありよう(ありかた)を把握するのも怪しくなる――周辺の暗さには沈みこむ水色の目が……。

 近くに横たわる彼の苦境を確かに見ているようなのに、動じることなく()している。

 彼女は気づいてないのだろうか?

 気づいて、もらえないだろうか…——?

 とにもかくにも、この苦境からのが逃れたい一心(いっしん)で力をふりしぼり身体を起こそうとする。

 けれども、

 わずかに自分の肩が動いた気がしただけだった。

 背中が重く地面にへばりつき、重く()りかたまってしまっているようで……。

 感覚がないわけではないのに、そういった苦痛も(いき)が続かない狂おしさに()され(まぎ)らわされて、自分の身がままならない。
 意思だけは自由なのに、必要を満たせない肉体(からだ)が思うように動かない。
 何者かに支配され、抑えつけられているような感覚なのだ。

 どうにかして空気を吸いこもう。呼吸しようとするのだが、やはり(のど)空虚(くうきょ)で…――肺にはなにも入ってこない。

 目を(ひら)いていることも(つら)くなって、視界を閉ざす。そのまぶたの内側が朱色にそまって見えた。

(なんで、(いき)が……?)

 できないのだろう? と。

 このままでは、まずいことはわかっている。呼吸しないと生体活動が乱れ、うまく動作しなくなって死んでしまうのにどうすることもできなくて……。

〔…た……〕

 そこにいる者に助けを求めようとしながら、明確な意思表示すらできぬままに……セレグレーシュの意識は深く(しず)んでいったのだ…——

 🌐🌐🌐

 ねっとりとして濃い……
 希薄(きはく)なようでいて、異常なほど密度が高くもあるその闇の中には、なにかがいた。

 魂をそなえた、正体不明の生きものが。
 周囲の暗さ・複雑さに()もれて明確には見てとれないが…――
 手を()ばせば、指先が届きそうなところに出来たてのブロンズ像のごとく、霊的な光沢をおびて見える人型のシルエットがある。

 それは……、
 苦悩をかかえていた。

 声を出せぬままに(なげ)き、あえぎ(もだ)えながら……。
 そのどうにもならない苦境から救われることを願っていた。

 誰でもいい、なんでもいいから助けてくれと……
 めくらめっぽうに救済(きゅうさい)を求めている。

 呼吸できなくて身体をヒクつかせている今の彼とおなじように。

 ——現状からの離脱(・・・・・・・)を……望んでいる(・・・・・)——

 その存在と自分。

 そこには、たしかに共通する思いがあったのだ。

 闇の中に(ひそ)んでいるその生きものの(かたち)は、《人間》に似ていた。

 男の肩の厚みを連想させる筋肉のかみあい。喉仏(のどぼとけ)(すじ)ばしった足首の関節のごとき輪郭(りんかく)……

 固さと、しなやかさをそなえて見える。あれが胴から伸びた四肢なのならば、

 やはり、人…——だろうか?

 漠然(ばくぜん)と思案していると闇の中にしずんで見えなかった二つの目が(ひら)かれ、それを立証(りっしょう)するような形状を暴露(ばくろ)した。

 いや。実際はまぶたが閉ざされたままなのに(ひら)いたように見得(みえ)た――感じられたのだ。

 人類(ヒト)のもの……。
 あるいは魔性を秘めた人形(にんぎょう)のものの(ごと)く、たしかな輪郭、質感のもとに(きわ)だつ目縁(めぶち)
 明度が低くも漠々(ばくばく)とした闇にまぎれ、赤っぽくも思える皮膚にかばわれている眼球の白。

 中央には色鮮やかな虹彩と闇の深さを感じさせる漆黒の瞳孔。

 色の深さが異なる二重の円。

 それが彼…――セレグレーシュの気配を感じとったように、こちらを凝視している。
 そして互いのまなざしの焦点がかみあった瞬間、セレグレーシュは……。

 ——深紅と紫……
   ……黒——

 混ざることなく複数の色が重なって存在するその者の瞳を感じ取り(・・・・)理解した(・・・・)

 その存在の本質を明かすように。
 可能性を知らしめるように――

 自身を見ている彼にうったえ……すがるように……
 狂おしく、めくるめくような変化をみせた多色の虹彩。

 セレグレーシュはその時、その者の名と……魂のありかたを明確に把握(はあく)したのだ。

 ——彼は……

 それは、いつの日かきっと。
 補塡(ほてん)され、到達(とうたつ)するだろう白い眩惑(げんわく)……その基根(きこん)

 とても(せま)い……あやふやで、うすっぺらな一、二次元から、三・四次元的接点のもとに成立するだろう可能性…――《次の名(・・・)》がある。

 それが成立(なる)のであれば、いま、これは(おこな)われ必ず失敗するのだろうと――
 それは、けっして錯覚(さっかく)などではなく……彼の中に生まれた刹那(せつな)の悟りだった。

 けれども。
 現在(いま)そこにあるのは、そうなる以前の(もと)。素材だ。

 ——…グウィンヴァルト…——

 ほとんど、なし崩しに思考を()めたその響きを。
 その者のいま現在の名――その本質をそれと理解するのとどうじ、基因の不明瞭な罪悪感、自責(じせき)の念がセレグレーシュ心の片隅(かたすみ)からあふれだした。

 不明瞭ななかにも重要なことを思い出せそうな禁忌めいた抵抗……
 このていどの安易な(やすい)衝動(しょうどう)…――状態でそれはするべきではないと――。
 短くも永遠にも思える深い葛藤(かっとう)がそこにあったのだが……。

 不意に意識が()みわたり自分をとりもどせたように思えた、その瞬間――
 セレグレーシュの感覚は、なかば強引にどこかへ引きずりもどされたのだ。

 🌐🌐🌐

 ()ざされているまぶたの裏が赤色(せきしょく)()まり、
 脳天から胸元まで、()めあげられているような苦痛がよみがえる…——

 そのなかに、とうとつに思いだされた言葉……響きがあった。

『セレグレーシュ……』

 遠くにあるようなのに、やたら身近に感じた(なつ)かしい男の声。

『どんなに――…しくても、(つら)くても……安易(あんい)に……むこうの者の名を呼んではいけない……』

 普段話すときの
 まだ人の集落にあって、頭も眉も()っていなかった七つか八つのころ……

 泣いていた彼の頭に乗せられた大きな手のひら。

 あたたかくて。少し重くて。
 容認されることの安心感、充足(じゅうそく)をもたらした、その感触。

『それは、おそらく……。こんな(こうゆう)解釈はおかしいのかも知れな…が、俺がそう……たいのかも知れないが、きっと、…――……』

 いつか耳を傾けていた父親の言葉がとぎれとぎれに分断されて、かき消えた。

 ドッ…ドッ……ドッ…

 いつからか聞こえていた胸の鼓動。

 酸素欠乏の苦痛にもどかしくリズムを刻んでいた(しん)(ぞう)が四方八方からググッ…と抑えつけられ、(あらが)いきれず萎縮(いしゅく)したように動きをとめ…——

(そう…かもしれない……けど。だけど……それは…――ほんとうに……ほんとうに、いけないこと?)

 ――〔…だって、それは……解放されたがっているんだ…。……〕――

 それは自分に相違(そうい)ないのに、いまの自分ではないような子供の呟き……質朴(しつぼく)な疑問だった。

 幼いようでいて、おとなびてもいるそれが闇に響いて浸透(しんとう)し、かき消えたような感覚を覚える。
 ともなく胸のあたりで生々しいものが、ドグォッと狂おしくも激しく跳びあがった。

 胸もとに感じた臓腑(ぞうふ)慟哭(どうこく)

 その衝撃にまぎれて、たしかでもなかったが、その時なにかが破裂(はれつ)したような…——そんな感覚がどこかにあり、

 探し求めていた空気(もの)が、スゴゴォゥッと彼のなかに流れこんできたのだ。

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