246 マナトの追憶
「ヤスリブに比べて、マナトのいた世界は、犯してはいけない法というものが、細部に渡って支配するような環境だったみたいじゃからの」
「そうですね」
長老の言葉に、マナトはうなずいた。
「……ちょっと、紅茶を入れてくる」
長老は席を立ち、居間を出ていった。
「こちらの世界にやって来て……」
当時を思い出しながら、マナトはステラとリートの前で、しみじみと話し始めた。
「長老に見い出していただいて、マナを取り込んで水を操るという能力を手に入れて、キャラバンになって、いろんな国や村へと行商の旅をして、砂漠を歩いたり、戦ったり、交易したり……どんどん、日本にいた頃の記憶が遠くなっていって、なんであんなに辛かったんだろうって、ふと思ったりして……」
少し傾いてきたオレンジ色の陽の光が居間に差し込んで、マナトの横顔を赤く照らした。
「こっちでの、ただがむしゃらな日々が、必要としてくれる日々が、心の傷をどんどん癒してくれて……僕はただ、このキャラバンの村に、感謝しているんです」
「マナトくん……」
ステラはただ、マナトの名を呼んだのみで、あとの言葉は続かなかった。
「でも、感謝だけで、終わらせないようにしないとなって」
長老が、紅茶と、柔らかいクッキー風の菓子をお盆に乗せて戻ってきた。
「ほれ、アクス王国から取り入れた、最近流行りの紅茶じゃ。ステラ、ちょっと、テーブルの上の書類をどけてくれ。少し、休憩じゃ」
テーブルに紅茶と菓子が並ぶ。
ステラが、長老の入れてくれた紅茶を飲んだ。
「……美味しいですね!」
「この菓子も、なかなかいけるっすね」
リートも口をむぐむぐさせていた。
「うむ、うむ」
長老は満足そうにうなずくと、自身は紅茶にも菓子にも手を伸ばさず、紙と筆を取った。
「マナト、前に言っていた、資本主義と社会主義の話じゃが……」
「あぁ、はい。イデオロギーの話ですね」
少し長老は興奮気味に言った。
「分からぬ!ぜんぜん、分からぬ!なぜ社会主義は成功しなかったのか。皆が平等で公正な社会など、理想の世界なのではないのか?」
「長老、休憩じゃなかったんすか?」
リートが苦笑しながら言った。
「マナトは本当に、前の世界でのいろんな知識を知っておってな。わしがマナトに教えてもらっとるんじゃ」
「いいんですよ、リートさん。こうやって、休憩中に、前の世界について話すのが、日課になってるので」
「そっすか」
すると、長老が、白く長いあご髭をさすった。
「歳を食っても、学びの日々に変わりはないのじゃ。理想の世界を夢見るのは、マナトの世界の人々も、このヤスリブの地に生きる人々も、変わることはない」