第2話
「ち、違うわよ。でも、勝手に着るのはおかしいんじゃ……」
「そうですね。それは失礼しました」美玲は立ち上がって背伸びをした。「でも、これでお互いの裸を見せ合った仲になったんです。別にいいと思いませんか?」
「よくないわよ!」雅麗姫は顔を真っ赤にして叫んだ。
美玲はクスクス笑いながら部屋を出ていった。雅麗姫は口をパクパクさせたままその後ろ姿を見送った。
(あの子、何を考えてるの? あたしを揶揄って楽しんでる?)
しばらく経って落ち着いてきたのだろうか。ふと疑問が浮かんできた。
美玲は一体何を考えているのだろう? 何故あんな真似をしてまで自分を勧誘するのだろう? 特調に忠誠を誓うような人物ではないはずだ。だが、自分に好意的に接している事も事実である。
ひょっとすると何か目的があるのかもしれない。たとえば妃花を誘拐したのは自分と引き合わせるため?
(でも、妃花さんは特調とは関係ないはず……。まさか!?)
そこまで考えた瞬間、全身に悪寒が走った。
(美玲が妃花を拉致したとしたら)
美玲の目的が復讐だとするなら納得できる。しかし、彼女がそんな事をしても何のメリットもない。
妃花を手に入れる事で得られるもの。美玲は彼女の頭脳を評価していた。だとすれば医学の知識? あるいは薬学の研究? いずれにせよ彼女は医師としての腕前は確かだ。医学に関するものならば歓迎すべきではないか。
それに美玲の口ぶりからは敵意のようなものは感じられない。少なくとも雅麗姫の身体に興味がないようで、この点だけは信用できそうだ。
(ダメよ。まだ疑っちゃ。まずは話を聞くべきよ。その上で本当に信頼できるかどうか判断しないと)
その時、ノックの音が聞こえてきた。雅麗姫は返事をしながら起き上がった。
そこに現れたのはスーツを着た男だった。男は胸ポケットから名刺を取り出すと、恭しく手渡してきた。
『国家安全部 特殊犯罪調査部主任 趙昌弘』と書かれている。
「特調の人?」
男は頭を振って答えなかった。
趙と名乗ったその男が何者か、最初は見当がつかなかった。雅麗姫が怪しんだ目で見ている事に気づくと、男は咳払いを一つした。「申し遅れました。私は国安局の者です」
「国安局?」
その言葉は知っている。警察機構の公安を頂点にした治安維持機関で秘密組織とつながりが深いという事くらいは耳にしていた。だが、直接接触するのは初めてだ。
「ええ、特調からの依頼を受けまして」
「依頼?」
雅麗姫は首を傾げた。「それってどういう意味?」
「いえ、その前に少し質問させて頂いてもよろしいでしょうか?」
「構わないわ」
「この病院で入院中の患者はどなたか存じていますか?」
「患者? 何の事?」
「例えば、そうですね。最近、ここの院長と話をされた方は?」
「ええと、さぁ、どうかしら?」雅麗姫はわざとらしく考えるふりをした。本当は知らないのだ。そもそも自分のいる病棟すら知らなかった。「ちょっとわからないわ」
趙はその答えを聞き流して続けた。「この施設には約一万七千人のスタッフがいます。その中で週に一度は検診を受ける人は全体のおよそ四割。そして、定期的に検査を受けている人が半分です」
「それが?」「残りの六千八百人の内、月に一度しか受診しない人を除外すると三百人ほどになります」
「だから、何の話よ?」
「月経不順の方はどの位おられますか?」
「月経? 毎月あるものでしょ?」
「ええ、もちろんです。月経がなければ人間ではありませんから」
「何が言いたいの?」
「いえ、確認です」
「つまり、こういう事? あんたたちの目的は」雅麗姫は目をギラつかせた。「産婦人科に関係あると?」
「否定はしません」「つまり月経周期の乱れと月経異常が同時に起こる場合があるわけね? その原因を調べるために月経周期を調べてるという事かしら? 確かにそういう話は時々聞くけれど、うちの病院に限って言えばありえませんね」「ほう、どうして断言なさるので?」「だって……」
そこでようやく雅麗姫は思い出した。自分が冷凍睡眠から覚める直前まで妊娠の可能性があった事に気づいたからだ。
(でも、そんな事があるかしら?)
いや、待て! 冷凍睡眠の間に子供ができていた可能性は高いのではないか? ただ単に不妊症の治療をしているだけとは限らない。何らかの原因で凍結受精卵が自然分娩される事もなくはない。いや、絶対にあり得ないと言い切れるものではないはずだ。
それを裏付ける証拠が欲しい。
「どうしました?」
「ええ、ちょっと気になる事があって。でも、どうしてそんな事を聞いたの?」雅麗姫は何食わぬ顔で尋ねた。
「いえ、単なる好奇心です」
「興味を持ったのは何故? もしかして私の身体に魅力を感じたのかしら?」
「いえ、まったく」きっぱりと断言されて雅麗姫はむくれた。
「まぁ、でも」と、ここで美玲が会話に加わってきた。「貴女に色仕掛けは通用しないようですし、残念です」
美玲の言葉に趙が振り返った。「色……、ああ、貴女が」
雅麗姫の眉が吊り上がった。「え? もしかして知り合い?」
美玲は何も言わずにただ微笑んでいる。その笑みを見て雅麗姫は確信した。「美玲!」「はい」と美玲が嬉しそうな声で答える。
「これは、どういうこと? 何を隠してる?」「隠していませんよ」
美玲がクスクス笑うと雅麗姫はカッとなった。「あたしが何をしたというのよ?」
「いえ、何も。強いて言うなら、これからしようとしてる事でしょうか?」「何? 何をするつもり?」
美玲は笑っている。そして言った。「大丈夫ですよ。痛いのは最初だけですから」
「何よそれ!? まさか」
美玲は笑っていた。だが、瞳の奥に怒りが見えたような気がした。
趙の顔が強張った。「では、やはり貴女方が噂になっていた……」
雅麗姫は反射的に身構えたがすぐに脱力してしまった。「あたしが、なんなのかしら?」「……その件については我々にご説明させて下さい」「お願いするわ」
趙の態度は先ほどとはまるで違っていた。背筋を伸ばし表情を引き締めている。
その変わりように美玲が苦笑する。「仕方ないじゃないですか。あの女とまともにやり合える人間は限られているんですよ」「……ええと、誰のこと?」「私と同じで、あの女の事を嫌がってる人」「……」
趙が語った内容は次の通りだ。
二〇一八年、東京医科大学医学部において医学科に所属する大学院生・高階英章氏が提出した博士論文に問題が生じた。論文審査を担当する教授のデスクに置かれていたパソコン内にウイルスの痕跡が見つかったためだ。
本来、この手の問題は大学側のセキュリティの問題として扱われる事が多いのだが、高階氏は大学側を相手にせず、独自に調査を始めた。その結果判明したことは驚くべきものだった。
問題の博士論文をインターネットを通じてダウンロードした人物がいた。それが当時、東城大学医学部講師だった黒崎博氏である。彼はこの論文について、インターネット上で公開することに同意したらしい。
その後の展開は驚くほど早かった。黒崎氏は二ヶ月後、「論文データの入ったUSBメモリをなくしてしまった」と言い出した。それを受けて大学のサーバーを調査したところ、当該のファイルが発見されたのだった。ただしそれはすでに削除された後だった。そしてデータはコピーされ、ネット上で公開される事となった。
「誰がこんなことを? どうやってパスワードを突破したんですか?」
「それはわかっていません。我々は捜査機関に照会しましたが情報開示を拒否したのです」と趙昌弘主任は憤然とした様子で答えた。「ところが事態はさらに悪化する一方だった」
問題のデータをネット上に流したのは誰かわからないままだったが、別の問題が浮上した。データの内容があまりにも衝撃的なものだったために世間が騒ぎ出し、さらに警察上層部まで関与してきたのだ。そのため、一旦アップロードしたデータを消して再度公開したという経緯があった。
「結局、犯人を逮捕することはできずじまいでした。そのせいで今でも一部のマスコミからは非難の声が上がっている有様です」と趙主任は吐き捨てるように話を結んだ。
「それでよく国安局が出てくることになったのですね?」「ええ、実はその事で話がしたいと特調の方から連絡がありまして」
美玲は肩をすくめた。「何しろ私は医師の資格しか持っていませんから。それにこの仕事、割がいいんで辞めたくありませんし」
美玲が特調からの報酬目当てで自分に近づいた事に趙は落胆したが、その一方でほっとした。少なくともこの少女が自分と同じような目的で仕事をしているわけではなかったからだ。
(そうよ、よく考えてみればそんな事をするような人間ならあんな真似はしない)「国安局からの呼び出しに応じなかった理由はそれでわかりました。では次にお伺いします。今度の事、どこまで関わっておいでですか?」「正直な所、さっぱり見当がつきません」
趙主任が目を細めると美玲は小さく息を漏らした。
「そもそも私とあなた方との接点は一体何なのですか?」
趙主任の目が泳いだ。それを見て雅麗姫は呆れ返った。どう見ても怪しい。「その点に関しての質問は一切お受けできないと思いますが?」「そうでしょうね」と雅麗姫が鼻で笑った。「で、本当の目的を聞かせてもらえないかしら?」「ですからさっき申し上げた通りで……」
「もう、結構です」と雅麗姫は両手を挙げた。「つまりは国家権力を後ろ盾にして、うちの病院に嫌がらせをしようとしているのよね?」「違います! 我々はあくまで……」
「あらぁ~?私はただ質問してるだけなんだけど」と雅麗姫はわざとらしく口元に手を当ててみせる。「で、さぁ? どうして欲しいの? 私を殺して遺体を処理しようっていうわけ?」
「と、とんでもない!」と趙主任は慌てて否定した。その慌てぶりに今度は美玲が小さく舌打ちをした。「でもさぁ、そう思われても仕方がないんじゃなくて?」
「ですから、我々の話をちゃんと聞いてください! お願いですから! どうか! どうか! どうか! どうか! どうか! 」
(こいつ、泣いている?)美玲の視線を感じて雅麗姫が趙主任を見下ろし、蔑んだ目で見た瞬間、彼の頬には一筋の涙が流れ落ちた。「わぁ!」
あまりの形相に驚いて、つい一歩退いてしまう。「どうか、落ち着いて話を」雅麗姫の足もとには白目を剥いた看護師の死体が横たわっている。
「あーあ」美玲は大仰に溜息をつくと、「これじゃぁダメですよ。もう少し時間をかけてゆっくり落としていかなければ」「すみません」
趙が頭を下げたが美玲が睨む。「まず、こちらの誤解を解くことから始めて頂かないと」「誤解? 私が? どうして? そもそもあなた方はいったいどこから来たのかしら?」
雅麗姫は腕組みをして考え込んだ。
(なぜ、ここまで疑われる? 何が問題なんだ?)
その時、趙はようやく気づいた。
(そうか、そういう事か! 我々がやろうとしていることの根底にあるものが、目の前にいる彼女にとって不愉快極まりないからなのだ。だから警戒される! これは思ったよりも難問になりそうだぞ! しかも、この娘を納得させねばならならんのか? どうすればいい?)
「まぁ、よろしいでしょう。どうやらそちらさん、相当困ってらっしゃるようですし。ここは一つ私に任せていただけないでしょうか?」「貴女に?」
趙は首を傾げた。「ええ、こう見えて私は交渉事には自信があるんです」
***
雅麗姫は美玲の運転する車に揺られながらぼんやりしていた。
(何者なのかしらこの子……?)
一見すると無邪気で可愛らしい少女にしか見えない。だが、それだけではない気がした。どこか底知れぬ闇のようなものを感じさせる時が時々ある。
「それで何をしようというの?」
「まぁ、簡単なことです。この世界を変えてしまえばいいんじゃないですか?」
雅麗姫は怪しみの眼差しを向ける。何を馬鹿なことを言い出すのだろうか? ただでさえ国疫軍は厄介なのに。美玲の言葉を聞いて、雅麗姫は「はっ」と短く笑うと、助手席に座り直し前を向く。「無理に決まってるじゃない。あたし達が何年かけてもこの有様だというのに」「いえ、意外にうまくいくかもしれませんよ?」
美玲はまっすぐ前方を向いたままハンドルを握り、口の端を上げて笑っている。彼女の言葉を聞き流しながら雅麗姫は自分の思考の中に沈み込むようにゆっくりと瞳を閉じた。
二〇一九年八月三十一日金曜日 午前十一時四分 首相官邸地下会議室にて緊急閣議が開かれる事になった。総理である柳月太の召集により官房長官を除く全閣僚が集結した。
円卓を囲むようにして椅子が配置されており空席はない。だが全員が着席したわけではない。内閣総理大臣である李麗華の姿がなかった。だが彼女は来なかったわけではない。彼女がいなかったのは会議が始まるほんの少し前だった。そのわずかな間に、彼女は姿を消し、また戻っていた。
「どういうつもりかしら?」麗華の秘書官である徐詠芳は小声で独り言ちると携帯端末を取り出し電話をかけようとした。「お呼び立てしたのは、ほかでもありません」議長である総理の脇を固めている初老の男性は静かに語り始めた。「昨日、東城大学医学部付属病院の高階病院長が殺害されました。ご承知のようにこの事件では国安局が介入しておりまして我々としても大変遺憾な状況と受け止めております」
「ええ」と総理は生返事をした。
彼は眉間を押さえてしばらく考えると「その件についてだが、君はどう思っている?」
男性は肩をすくめて苦笑いした。
「その国安局と東城大学の関係が非常に悪いらしいのです」男は声をひそめ周囲の高官たちに聞こえないように配慮したが、それでも全員の耳に届いたようだ。何人かの大臣たちからは不満げな表情が浮かんでいる。「つまり彼らは国益を損ねるような行動をしているということでしょう。私は彼らの行動に懸念を抱いている次第でございます」
「うーん」総理は低くうめきながら、こめかみを押さえてさらにじっくりと熟考した。「この件について君の意見を聞かずに進めていいのかどうか。ちょっと待ってくれないか?」
そう言い残すと彼はおもむろに立ち上がった。そして「どうだね?」
と問いかけるが反応はなかった。
(あのバカ)
と徐秘書官は毒づいた。だがここで席を立って出て行くことはできない。そんな事をすればかえって失笑を買うだけだ。仕方なく、再び自分の携帯電話を手に取った。
「私は反対ですね」真っ先に手を挙げたのは法務大臣だ。禿頭に汗を滲ませつつ身を乗り出した。
「何故かね?」総理は目をつぶり軽くため息をつくと「そもそも、国のために働いてくれと頼むのが筋ではないか」
「それはそうかもしれないけど」と言いかけた女性財務大臣は、すぐに発言を撤回した。どうも、居心地が悪かったのだ。総理が自分に向かって何かを期待しているのは明らかだったが、自分が期待に応えられない事は目に見えていた。
「私もあまりお勧めできませんね」今度は経済産業大臣が挙手をして、発言の許可を求めた。「もし彼らが国のためというより自己の利益の為に働いているのであれば、それを正すことに意味があるとは思えない」
「なるほど」と総理大臣が重々しくつぶやくと、今度は農林水産大臣が挙手をした。「国安局の人間に頼らずとも我々の力でこの国の食糧自給率を高められるはずではありませんかな?」
彼の顔つきからは微塵もその意思がないことがありありと伝わってくるが、この場の雰囲気を変えようとあえて空気を読むことなく口火を切ったのだ。だがこの男も、他のどの大臣たちと同様に、総理が自分の考えに賛同してくれるとは露程にも考えていない。
「それも一案ではあるが」と総理は言って一旦言葉を止めたが「いや」と続けた。「しかし私はその提案には賛成しかねる」
その答えは、大臣たちもある程度予測はしていたが、残念そうな態度はおくびにも出さない。
その後もいくつか反対意見が出されたが、結局、総理の考えが変わることはなく「では本案件は見送りとする」と言う言葉で、その議題は終了となった。
***
午後三時三十三分 内閣法制局は庁舎内のとある部屋で、先程の閣議で出された文書をまとめていた。その書類の表題には『特殊戦略調査班報告書』とあり、その下に連なる文字が連なっている。その内容は多岐にわたるが「高度に政治性の極めて高い案件につき」詳細は割愛させていただいたと注釈が記されていた。そこに現れたのは内閣官房に所属する若手の女性官僚。「ご苦労様です」
彼女の労いに「いや、これも仕事のうちだから」と言って彼女は缶コーヒーを差し出す。「そういえば、最近柳月さん見ませんねぇ」
そう言われて女性は苦い顔をした。彼女は今、柳月総理の補佐官を務める立場にあった。つまり彼女こそが件の「高階病院長が殺された事件の調査をしていた政府組織の人間なのだ。
「まったく、どこをほっついているんだか」と、女性が鼻から大きな息を吐き出して愚痴を漏らすと、ドアが開いた。噂の主である柳月総理の登場だ。彼は挨拶をする間もなく質問攻めに遭うことになった。
彼女の報告を聞くにつれて、柳月総理の顔から血の気が引いていくのがわかった。そして一通りの話が終わると、彼は椅子の背もたれに深く背中を埋めて大きく息を吐いた後、「まさか、そんな事が本当に?」と言ったきり言葉を失ってしまった。
(さては、知らなかったんだな)
内心で呟いたものの彼女はそれを口にしなかった。柳月総理はこの国の最高権力者であるが、同時に政治家でもあるのだ。彼も政治家なら国民が求めている事を考えなければならない。だが、彼はこの事態を想定していなかったのだろうか?
(あり得ない事じゃないだろうに……いや違う、おそらく、こうなって欲しいと思いつつもどこかで現実を受け入れられなかったのか……いずれにしても私と同じか……そうでなければ……)彼女は胸の奥がずっしりと重くなるような気分に襲われた。「どう思う?」「どう思いますか?」
二人はほとんど同時に声をかけ合った。「どうやら私たちは同じことを思ってるようね」「同感だ。このタイミングでのこの事出て来ていいのかね? この国は」
彼女は唇を真横に結んで黙って首肯した。「だがこのまま放っては置けない。なんとかしなきゃならん」「私も同じ考えです。まずは東城大学に乗り込んでみます。なに、向こうには高階病院長を殺した共犯者の可能性もある」「私の部下も連れて行かせる。くれぐれもこの事は他言無用だ」「わかっています」
***
二〇一九年八月三十一日金曜日 午前十時五十八分 総理官邸地下駐車場には黒塗りのセダンが停まっていた。その運転席で彼女は腕組みをして思案を巡らせていた。
(いったい、どうやって調べたものかしら?)「何者なんですかあの女?」
助手席に座っている部下の唐木は不思議そうに後部座席にいる麗華の後ろ姿を見ていた。「知らないわよ」麗華は不機嫌に言い放った。(この役立たず!)
そう心の中で罵りながらも、この状況では致し方ないと思った。なにしろ彼女は国家機密安全保障委員会の委員にして、特別捜査官なのだ。
(だけど)「あーもう、どうすりゃ良いんだよっ!」
麗華が髪をかきむしると「大丈夫ですか? 麗華お嬢様? どうぞこれを」「ふん、誰に物を言っているの?」「すみません」
(こんなことになるなんて……でもやるしかないわね)「とにかく、この事は絶対他に漏らすんじゃありませんよ。それとこの件に関する記憶の消去は可能なのでしょうね? できないという事は認めませんからね」「は、はい、お任せください」「頼りにしているんですからね」
麗華が「さっさと行きますよ」と言うが早いか車が急発進する。
***
午前十一時七分 麻生母娘を乗せたタクシーは国立感染症研究所の前で停止した。雅美は緊張していた。その様子に気づいた妃花は雅麗姫に何かを耳打ちすると二人で目を見合わせうなずいている。
運転手は行き先が目的地である事に安堵して笑顔を浮かべていた。
(いよいよか)「あのぅ」
突然の声に驚いて振り返ると、いつの間に来たのか雅麗姫と美玲がいた。二人は並んで立っている。
「どうしたんです?」と声をかけると「どうやら、ここは私が預かる事になったらしい。申し訳ないが先に失礼させてもらう。料金のことは心配はいらない」
とだけ言い残し、返事を待たず、二人の美女は去っていった。
「あの……」呆気に取られていると「どうぞ」と声がした。
そこには先ほどの美人二人が揃って微笑んでいた。
妃花たちはエレベーターホールに向かって歩きながら小声で会話をした。「上手くいくかしら?」「どうかしら?」
二人は不安そうだったが、妃花の頭には別の考えがあった。
それは雅麗姫たちが「お守り代わりに」渡してくれたカードの事だ。
実はこれは、彼女たちが所属する秘密情報機関【桜の会】のメンバー証でもあった。これを持っているという事は彼女たちの組織に所属しているということを表しているのだが、このカードは桜の会の正規メンバーが持つものではなく予備メンバーのものだった。なぜ、予備メンバーとはいえそんなものを渡すのか、その答えは簡単だった。自分たちは表立って動くことができないからである。だからいざという時の事を考えて自分たちの代理をしてくれと言っているのである。「まぁダメもとだ。駄目で元々。やって損はないはずだ」
三人の乗ったエレベータが動き出したところで「どちらへ?」と訊ねた。
(どこに行くのだろうか)と、ぼんやりと考えていたところ、目的の階に到着を告げるベルが鳴り響いた。扉が開くと廊下が続いている。そして突き当りのガラスドアには【特別室専用フロア入口】と書かれた表示が見て取れた。そして、その前には屈強な男が一人立ちふさがっていた。男は近づいて来ると恭しく「どうぞ」と言いながらドアを開ける。そしてその脇に立って「ご案内させていただきます」と深々と一礼した。
ドアの先の空間は広く天井も高い豪華な造りになっており壁一面に大きな窓ガラスが嵌め込まれていた。部屋の中央にはテーブルが据えられておりその上には小さなカードのようなものが置かれていた。その周囲には複数のモニターが設置されており監視カメラの映像らしきものが映されている。
その部屋に通された麻生親子はしばらく部屋の様子を観察していた。
「こちらにおかけになって少々お待ち下さい」と言って案内人は退出しかけたが、妃花はその男を呼び止めた。
「ねぇあなた、ちょっといい?」
***
同じ頃 国立感染症研究所付属病院 特別個室病棟 高階病院長が殺害されてから、約六時間後の午後十二時三十三分。一人の看護師が昼食の食器を片付けている最中の事だった。ドアをノックする音が聞こえ、入出の許可を求める声がした。看護師が応じてドアを開くとスーツ姿の中肉中背の男が入ってきた。その後ろには若い男性と白衣の女性が従っていてその顔には見覚えがあった。
「高階先生、面会の方が見えられました」と言って医師を招き入れると、「えぇ?」と目を丸くしている間に高階は連れ去られてしまった。その瞬間を逃さず看護主任は病室のロックをかけ、内側からしか開けられないように設定して「さっきの二人、警察みたいですね。いったいどういうことでしょう」と、困惑の色を浮かべていた。
***
その頃 首相官邸地下にある統合幕僚監部 柳月は部下からの電話を受け「何だと!? もう一度言ってくれないか?」と言った後、受話器を握りしめて、唇を強く噛みしめている。
彼の表情は、徐々に青ざめていった。その様子を秘書官が見守っている。
そして数分の沈黙の後「わかった。すぐに向かう」と言って静かに受話器を置いた。
その頃、状況を重く見た政府は国家安全保障会議を臨時招集し緊急事態条項の発動を視野に動いていた。参加者は内閣総理大臣柳月秀平 、柳月内閣法制局長官、鮫島内閣官房総合外交政策局長、葛井内閣調査室長(国家安全保障担当)、そして内閣参与の真嶋満喜子(しまぬきよしこ)だ。彼らは憲法解釈の大幅変更を含めたドラスティックなプランも検討している。例えば同盟国の同意を得て核兵器を使用するなど。