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その頃ミスティ侯爵の執務室では、イーサンのマントを羽織ったエドワードが一人の女性を前に苦悶の表情を浮かべていた。
「ではどうあっても帰らないと?」
「もちろんですわ。私は兄を信用していませんし、夫のことも信じることはできません」
「ではこの先どうなさるおつもりですか?」
「身分を捨てて隣国に参ります。平民として余生を送りますわ。そのことは息子アルバートも承知してくれています」
「皇太子殿下が?」
「ええ、グルックは狂っています。しかし私への思いは本物です。私が一緒に逃げようと言えば必ずそうするでしょう。私が死ねば彼も後を追うかもしれませんよ?」
「都合ねぇ……」
「姪もそろそろでしょう。私とドレスを交換して身代わりになるから逃げろと言われたときは驚きましたが、彼女も自分の寿命を考えてのことなのでしょう」
彼女の話だと、ミスティ侯爵夫人の部屋で王妃のドレスを着て床に蹲っているのはミスティ侯爵夫人ということだ。
エドワードは素早く頭の中で作戦を組み立てた。
「なるほど。あなたの言う通りかもしれない。でも一度は辺境伯領地に来てもらいますよ。何か身代わりがバレたときの人質となって貰います。全てが片付いたら、あなたの希望を叶えましょう」
「なるほど。でも帰ると兄がいますでしょう? また利用されるのはまっぴらですの」
「ご心配には及びません。サミュエル殿下がここにきているということは、義父はもうこの世にはいないということだ」
「兄は……死んだ?」
「ええ、ほぼ確実と言って差し支えない」
「そう……そういうことなら……同意します」
「助かります」
二人がソファーから立ち上がろうとしたとき、ドアが蹴破られた。
憤怒の形相で仁王立ちしているのはグルックだ。
「思ったより早かったな」
「貴様……」
エドワードがグルックの後ろに目を遣ると、シェリーが髪を掴まれた状態で引き摺られていた。
「シェリー!」
グルックが目を見開いた。
「皇太子妃殿下を呼び捨てにするお前は……イーサンか? ははは! そうかイーサンか。お前、辺境伯の所にいたのか。ミスティ侯爵はどうした?」
なぜか嬉しそうに目を細めるグルックを、エドワードは苦々しく睨みつけた。
「シェリーを放せ」
「嫌だね。こいつは大事な人質だ」
万が一のことを考え、イーサンを替え玉にしていたことが功を奏したのか、グルックはエドワードとイーサンを間違えて認識していた。
「さあ、こちらにおいで」
グルックはシェリーの頭を掴んだまま、王妃に手を差し出した。
王妃が真っ青な顔をして立ち竦む。
エドワードが静かに言った。
「シェリーと王妃を交換だ。それで文句はなかろう?」
グルックがニヤッと笑った。
「いや、ダメだ。この女も連れて行く。しかしお前も難儀な奴だな。この女の夫はこの家の娘に入れ上げて妻を蔑ろにしている。それなのにこの女はお前の所には戻ってこない。嫌われてたんじゃないのか?」
エドワードは何も答えない。
「サミュエル殿下はどうした!」
「ああ、あいつはエドワードのところにいるよ。しかしこの女も多情だよな。わが妻とは大違いだ。涙ながらにエドワードを助けてくれと言いやがった。婚約者を捨てて王族になりたがった挙句、夫が昔の女とよろしくやっている間に、次期辺境伯に鞍替えしてるんだものなぁ。ああコワイコワイ」
扉を背にしているグルックには見えないが、片腕を切り裂かれた状態で、目を血走らせているジューンが暗器を手に身を潜めていた。
まさかここまで手こずるとは思っていなかったエドワードは内心焦っていた。
誰よりも先にこの部屋に来たレモンとジュライには、屋敷を取り囲んでいた辺境伯の兵士たちを連れて街道沿いに潜むよう指示を出して逃がしてあった。
しかしそのレモンもかなりの手負いだったが。
「拙いな……」
誰にも聞こえないほど小さな声でエドワードが言ったとき、すぐ横で王妃が口を開いた。
「ねえ、グルック。このまま辺境伯の領地に行きましょう? あの地で暮らしましょう」
グルックがパッと明るい顔をした。
「ああ、それも良いね」
「だからその娘を放してやってちょうだい。私がいるのだから良いでしょう?」
一気に笑顔を収めたグルックが言う。
「優しい君ならではの言葉だけれど、この女は連れて行くよ。この女の夫は父親の所に行っているだろう? 戻ってきたときに面倒だからね」
気を失いそうになりながらも、イーサンが生きていることを知ったシェリーはホッと息を吐いた。
いると思っていたアルバートがいないことが心配でたまらなかったのだが、彼が父王の救出という言い訳で、この屋敷を出ているなら、今は安心だ。
シェリーはそのまま気を失った。