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「王妃殿下……」

 目の前で萎れた花のように首を前に傾けたままで微動だにしていないドレス姿の女性を見て、シェリーはそう呟いた。
 彼女は帰ってこなかったのではない。
 帰ることができなかったのだ。
 そう思ったシェリーは鬱々とした気持ちになった。

「妻はね、今世での夫にも義理を感じているらしくて時々戻りたいなんて言うんだよ。寂しいだろう? 僕という最愛がいながら仮初の夫の元に行こうとするなんてさ」

 グルックが本当に悲しそうな顔をする。

「だから物理的にいけないようにするしかなかったんだ。だってそうだろう? こんなに愛し合っているのに義理とか人情で不貞をするなんて許せるはずがない。しかもその相手が、今世で私の体を生み出した女の元恋人だって言うんだから笑えないよね」

 そう言いながらクツクツと声を出して笑う姿は、まさに狂っている。

「もちろん僕の最愛の妻に怪我なんてさせられるわけがないだろう? だからちょっと高揚する薬を飲ませてあげたんだ。少しだけ鬱になってそんなことを口走ったのだろうから、気分を上げてやれば良いだけだ」

 そう言うとグルックはぐったりとして動かなくなっている王妃に近寄り、顔の前にバランと落ちていた髪を優しく掬い取った。

「愛しい人。さあ顔を上げなさい。その美しい目を僕に見せておくれ……なんてね。こいつは偽物さ。侯爵夫人だよ」

 王妃の顎を指先で持ち上げるグルック。
 シェリーは思わず顔を逸らした。
 グルックの空いている手には数本の髪の毛が巻き付いている。
 それが自分の髪だとわかったシェリーは吐き気を催した。
 目を背けた視線の端に、黒い塊が蠢いているのが映る。
 おそるおそる顔を向けると、ズタズタのマントが辛うじて肩に掛かった状態の男性。
 刀傷だろうか、すでに乾き始めた血糊が黒い生地にこびりついているのがわかる。
 じっと見詰めるシェリーの視線を感じたその男性が、ゆっくりと顔を向けた。

「っい……」

 危うく名前を叫びそうになったシェリーは、自分の唇を引き結んだ。
 血まみれで床に体を投げ出していたその男はイーサンだった。
 イーサンが首をわずかに横に振る。
 グルックには自分が黒狼だと思わせておきたいのだろう。
 そう受け取ったシェリーは小さく一度だけ頷いて見せた。

「君はエドワードを知っているの?」

 グルックの声に振り向くシェリー。

「ええ、何度かお会いしたわ」

「そう、でも近くでまじまじと見たことはないよね? その男が黒狼エドワードだよ」

 違う! と思ったがシェリーは表情を凍らせて頷いた。

「怪我が酷いわ。治療は?」

「必要が?」

「だって! 彼はあなたの仲間でしょう?」

 そう言った瞬間にシェリーの頬に衝撃が走った。

「誰が誰の何だって? 冗談じゃない! その男は自国を裏切った売国奴だ。僕のように思想を持って離れた人間と、自分の欲のために逃げた奴を一括りにするな!」

 二度目の衝撃に備え、シェリーはギュッと目を瞑った。

「お止めください、宰相閣下」

 グルックを止めたのはサミュエルだった。

「ほう? 生き残ったのですか、さすがにゴールディの近衛隊長だ」

「ああ、辛うじてね。あいつらは何ですか? 死ぬ気で突っ込んで来るから切り捨てるしかなかったですよ。何処から湧いてくるのかぞろぞろと気色の悪い」

「それでもここに来たということは……全滅ですか?」

「さあ、どうでしょう。とりあえずあそこの部屋で動いているものはいない状態ですが」

「ではお仲間達も?」

「確認していないですが、私の部下はそれほど弱くはありません。あなた側の者たちは正規の訓練を受けていない。それこそ付け焼刃でしたね」

「それはそうですよ。あいつらは僕を信じている者たちです。騎士もいたがそれらは全員狼狩りに向かわせましたからね。あなたが相手をしたのは一般市民ですよ。どうです? 素人を切り捨てる感触は」

「全くもって気分が悪いですね。ところで義姉の具合が悪そうだが?」

 その言葉はグルックにとって何らかのトリガーだったようだ。

「義姉? 今私の妻を義姉と呼びましたか? 我が妻なら今頃ミスティ侯爵に話をつけているはずですが同行されますか?」

 声のトーンが落ち、部屋全体の温度が下がる。
 サミュエルはグルックの腕を掴んだまま、口を開かなかった。

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