元公爵令嬢ゲルダ、スパルタ農夫の妻になる。
「公爵令嬢ゲルトルート・ハリエラ。君との婚約を解消する」
婚約者だった伯爵家嫡男のクリストフは、いとも簡単に私を切り捨てました。
理由は簡単。
私の父が脱税と横領の罪に問われ、牢屋送り。公爵家は取り潰しとなったからです。
犯罪者の娘を娶るわけにはいかないと、クリストフは言いました。
父はそんなことできる人ではないです。優しく誠実で、領民からも慕われている人です。
私がどんなに訴えても、犯罪者の父親をかばう哀れな娘としか言われませんでした。
せめてもの情けで命だけは助けてもらえましたが、隣国との国境に投げ捨てられました。
まだ十七歳。数日前までただの学生だった私に何ができるのでしょうか。
私は使用人のような、飾り気のない灰色のワンピースだけ着せられています。
お気に入りのドレスもアクセサリーも、全て没収されました。
何をしたらいいのかもわからず、ただひたすら歩き続けます。
せめて人里に置いていってくれればいいのに、山道のどこかに置き捨てる。人としての尊厳すら奪われた気がしてならないです。
死刑と呼ばないだけで、殺すためにやっているのでしょう。
日が暮れて、のどが渇いて、お腹も空いていて……もう歩くこともままならない。
自慢だった銀髪は砂埃で汚れて、泣きたくなる。
座り込んでしまった私の耳に、犬の鳴き声が届きました。
そう。私、野犬に食われて死ぬのね。
逃げる気力すらもうない。
犬のものらしい軽やかな足音に続いて、人の足音が聞こえて来る。
大型の獣ではなく、人の。
ランタンの灯りが、私を照らした。
「お前、名前は? なんでこんなところにいる」
たぶん私とそう年の変わらない、フードをかぶった少年が聞いてきます。不躾な聞き方に苛立ちましたが、きっと私の名も犯罪者の娘として広く知れ渡っている。
ゲルトルート・ハリエラだと名乗ったら、どうなるかわかったものではない。
「ゲルダ」
「そうか、ゲルダ。行く当ては?」
「無いわ。家族ももういない」
今着ているもの以外、私には何もない。家と学園を馬車で往復するだけの日々で、それ以外の地に土地勘なんてあるはずもない。
もしこの少年に聞いて見知った土地に戻れたとしても、他の貴族……少しでも交流のあった令嬢や令息は、私を助けてくれない。クリストフの反応を見ていればわかります。
少年はならば、と口を開きます。
「俺はレオン。ゲルダ、仕事の手伝いをするならうちに置いてやる。ここは田舎だからな。働かないやつに居場所はないぞ」
「手伝い?」
「あぁ、なんの仕事か知らずにうんとは言えないか。ついてこい」
レオンは背負っていたリュックから水筒を取り出して私に投げて寄越す。
「声がかれている。喉渇いてるだろ」
「……ありがとう」
口調は乱暴でも、救いの手に違いありません。水を分けてもらって、レオンについていくことにしました。
ひなびた田舎という言葉がこれほど似合う土地もないでしょう。
たどりついたのは街灯もない集落。
月下なのでよく見えませんが、家屋が数軒しかない。
ブモオーという低くて野太い鳴き声がこだましています。
これはなんの声でしょう。変な臭いもします。
レオンは恐れる様子もなく、大きな舎の中に入っていく。私も他にできることがないのでついていきます。
レオンがコートを脱いで灯りをつけてまわって、初めてレオンの顔がわかりました。
目にかかるくらいの茶色い髪。空を思わす青い瞳。背は頭一つ分高い。
かなり鍛えているのか、筋肉質なのが服を着ていてもわかる。
レオンの背後には白と黒の斑柄をした大きな動物が四頭。同じ柄で小さめの動物が一頭います。
さっきからしている臭いは、この動物の糞、のようです。
「これはなに」
「牛を見たことないのか?」
「肉を食べたことならあるけれど、生きた姿を見たことはないわ。これが牛?」
四足歩行の牛は、私の背丈よりも大きい。
「こいつらの世話をするのが俺の仕事。牛乳を町に出荷して金をもらう」
「私、食べられちゃったりしない? こんなに大きいんだもの。ひと一人簡単に食べられるんじゃ」
「はははは。んなわけない。こいつらは草食だからな。食べるのは牧草だし、飲むのも普通の水だよ」
草食……もしかして私、無知をさらしただけですか。
「朝夕二回、牧草を食わせて水を飲ませ、乳を搾る。寝床の掃除をしてやる。翌朝の搾乳後に町の業者が買い取りにくる。冷却魔法具さまさまだな」
「そうなのね」
レオンは腕まくりして、一輪車で牧草を運んで牛に与える。井戸水を汲み上げて牛の前のたらいに張ってやる。
牛たちは嬉しそうに食む。
レオンが牛の横に屈んで乳搾りするのを見守ります。蹴られたら骨が折れるんじゃないかと思うほど大きいのに、怖くないのかしら。
「どうだ、やれそうか?」
「え、私も同じことをするの? 見ているとかなりの力仕事なのに」
「また山道に戻りたいなら案内するけど」
働かざるもの食うべからず。私に選択権なんてはじめからありませんでした。
「……お世話になります」
レオンの家においてもらうことになりました。私の住んでいた屋敷よりずっと小さい。物置小屋くらい。
キッチンとテーブルセット、ベッドが二つあるだけのこじんまりした家です。
「……他のご家族は?」
「去年親父が死んでからは一人。おふくろは俺を産んですぐ死んだ」
レオンはこともなげに言う。
「ごめんなさい」
「なぜ謝る」
「初対面なのに余計なことを聞いたわ」
「べつに、家族がいないのは本当の事だから、謝られる方が困るんだが」
私もここに来る前のことを聞かれたら困るのに、無神経が過ぎた。
「奥のベッドを使え。シーツの交換と洗濯も自分でやれよ。服の洗濯も自分でなんとかしろ」
「……わかったわ」
何でもしてくれる使用人はもういない。それに、同じくらいの年齢のレオンに服や下着の洗濯を頼むなんて無理。
夕食に、とパンとホットミルクをもらえました。
まる一日何も食べていなかったから、神の恵みのように思える。
屋敷で食べてたような食事とかけ離れているけれど、文句を言える立場じゃない。
お腹を満たしたらあとは明日に備えて眠るだけ。
隣のベッドに男の人がいるというこの状況、しかも今日出会ったばかり。
疲れていても寝つけそうもない。
翌朝、日が昇ってすぐレオンに布団をはぎ取られました。
「仕事だ」
「もう少し丁寧に起こしてほしいわ」
「山道で寝たいなら好きにすればいい」
それを言われると私は言い返せなくなる。ここにおいてもらって働く以外、道はない。
「ほら、仕事の前に食っておけ」
レオンが用意してくれたのは水とパン、そして目玉焼き。簡素な朝食をいただきます。
牛舎に着いたらすぐ、レオンに言われるまま食べ残しの牧草を掃除して新しい牧草をあげる。
その間にレオンが乳を搾る。
蹴られないよう気をつけながら古い寝わらをとって、新しいわらを敷く。すると待っていましたとばかりに牛たちはそこで横になる。
ようやく朝の仕事が終わって、全身の筋肉が悲鳴をあげています。
牛舎の前で足を投げ出して座り込むと、私の横に白い犬|(ジョンというらしい)が来ました。
レオンが井戸水を入れたコップを渡してくれます。
「おつかれ」
「どうも」
水が美味しくて泣きそうです。
これまでの人生で、こんなに全身使って動いたことはありません。
他の家の住人たちも起きてきました。
気の良さそうなおじさま、おばさま、おばあさまたちです。
「おやレオン、いつの間に嫁をもらったんだね」
「嫁じゃなくて従業員。昨日拾ってきた」
言い方。言い方がひっかかります。
拾ったって犬猫じゃないんだから。
何か言うと山道に置いてくると言われるから反論しません。
「ゲルダです」
「そうかい、ゲルダ。レオンはぶっきらぼうだけど根はいい子だから、いい夫になると思うよ」
「え、あの」
ただの住み込み従業員なんですが。
レオンが否定したのに、もう皆さんの中でレオンの嫁認定されてしまっているようです。
ちらりとレオンを見ると、めんどくせぇと顔に書いてありました。
それからすぐ、町からきた業者さんが牛乳を買い取っていき、レオンが小さな袋を私の手のひらに乗せます。
「今朝分の給料。食事代と住居費は引いてあるからな。服が欲しけりゃ自分で金を貯めて町で買い揃えろ」
開けてみると銅貨が五枚。
お給料なんて、生まれて初めてもらいました。じわじわと、胸が温かくなります。
貴族から見たらはした金と言われるでしょう。
でも、身一つになってしまった私には宝物に見えます。
牛たちの糞は村の人が買い取ってくれて、畑の肥料になるそうです。
おすそ分けでたまごと採れたて野菜をいただきました。
農村はこんなふうにして成り立っているのですね。
昼の間は疲れがたまってしまったみたいでベッドの住人と化しまして、夕刻前にまた起きてレオンが作ってくれた食事を食べて牛の世話をする。
半月もすると慣れてきました。
洗濯もお料理も、近所のおばさまに習いながら、下手くそですができるようになりました。
自分で働くようになって、やっと自覚できました。
父が罪を犯したとは今でも思えない。
けれど、万に一でも本当に罪を犯していたなら、父が多くの人に迷惑をかけたことを恥じる気持ちはもっているべきでした。
父が不正に得たお金で、のうのうと暮らしていたことを恥じるべきでした。
今なら私を切り捨てたクリストフの気持ちがわかります。
私は関係ない、私に罪はないと、言うような人間そばにおいておきたくないですよね。
レオンと暮らすようになってもうすぐひと月。
初めてレオンよりも早起きしました。
お隣のおばさまに教わったとおり、たまごを焼いて、お鍋で牛乳を温めて。
初心者にしてはうまくできたんじゃないですか。
作った朝食をテーブルに列べて、それからそっとレオンのベッドに歩み寄ります。
寝顔は穏やかでかっこいいです。口調は乱暴だけど。
「レオン、おはよう。起きて。朝よ」
「……ゲルダ?」
ぼんやりしながら目をこすり、パッと我に返ったようです。
「なんで先に起きてる。雪でも降るのか!?」
「失礼すぎない?」
今は夏です。雪なんて降るわけありません。
私が作った朝食も食べてくれたけれど、驚きすぎて言葉もないようでした。
村の皆さんから新婚新婚と言われますが、私たちは本当にただの雇い主と住み込み従業員。
それ以上でも以下でもありません。
真面目に毎日牛の世話をするレオンを、尊敬できます。懐かれているのも愛情込めて育てているからです。
これが雇われの身だから思うのか恋愛感情だからなのかはわかりませんが、負の想いでないのは確か。
レオンが本当のお嫁さんをもらうときには、奥様に悪いので他に住居を探さないといけません。
そうならないで欲しいなと思う気持ちがどこかにありました。
レオンと暮らし始めて半年。
季節が秋に変わる頃、村に不釣り合いな馬車が来ました。
それも町の乗り合い馬車ではなく、貴族私用の馬車。
「この村にゲルトルート・ハリエラがいると聞いた。出せ」
降りてきた強面の大男が脅すように言って、みんな騒然としています。
「こんなへんぴなところに貴族がいるもんかね! 仕事の邪魔をするなら出ておいき!」
おばさまが啖呵を切ったら、男が手を上げました。
「おばさま!」
「ゲルダ、あぶないから出ていったら駄目だ」
駆け寄ろうとする私をレオンが止めました。
男に続いて馬車から降りてきたのは、クリストフ。
私を切り捨てたクリストフでした。
「久しいねゲルトルート。辺境の村に似つかわしくない銀髪の美少女がいると噂を聞いて調べさせてみたら……。やはり君で間違いなかったな。薄汚い田舎暮らしは君には辛かろう。第一夫人に据えてやるからうちに来ないか」
「……は?」
いまさら何を言っているのか、わからない。
「君のお父上が脱税横領したというのはね、他の貴族がでっち上げた嘘だったというのが明らかになったんだ。だから君を妻にするのになんの問題もなくなった。君は、血筋だけなら良いからね」
嘘の証拠で……他人に陥れられたがために我が家は没落、離散したのかと思うと、怒りとも悲しみともつかない気持ちが湧き上がる。
のうのうと私を妻にすると言えるクリストフの神経もわからない。
震える私の肩を、レオンが支えてくれた。
「さっきから何を言っている。この子は俺の妻のゲルダ。人違いで失礼なことを言うのはやめてもらえないか」
「レオン」
口を開こうとした私に、レオンが『話を合わせろ』と目配せしてくる。
半年、毎日一緒に働いていたからなんとなくわかるようになった。
「ええ、私はゲルダ。レオンの妻です。あなたが探している令嬢は、そんなに私と似ているのですか」
「見え透いた嘘でしらをきるつもりか。ゲルトルート。伯爵夫人になればそんな汚いボロなど着ず、ドレスを身に着けて何不自由なく暮らせるというのに」
誰かが何くれなく世話してくれてドレスを着て笑っているだけでいい日々。クリストフにとって都合のいいお人形。
そんな生活になんの価値があるのか、私にはもうわからない。
「それはゲルトルートという方に言ってください。私は今の暮らしに満足しています」
「次期伯爵のオレより、ろくに贅沢もさせてくれない農夫がいいと? 地に落ちた元公爵令嬢の君を救ってあげると言っているのに」
伯爵家は家格で言えば公爵家よりも下。
もしかしたらクリストフは、私の家のほうが格上であることが気に食わなかったのでは。クリストフの言葉の端々から感じられます。
格上だった私が地べたを這いずって、それを救ってやると。
父を陥れたのは、この人ではないの?
そうだとしたら、絶対クリストフの言葉に頷くなんてできない。
土下座して詫びたって、絶対こんな人の妻にはならない。
「他人の妻を横取りするのが、由緒ある貴族のすることなのですか、クリストフ次期伯爵様」
私はあくまでもゲルダ。
こんな人に膝を折ったりしない。
「断るなら、この村を焼き尽くしても構わないんだぞ」
「そのときは裁判で証言しましょう。貴方が私の夫と村人たちを殺し尽くしたと。他国の村を焼くなんて真似をしたら、伯爵家はなくなるのではないかしら」
村のみんなも、私を援護してくれます。
「ゲルダを拐う上にここを焼くってんなら許さないぞ!」
「今日のことを一部始終書いて、お前のとこの国王に手紙を出してやる!」
「二度と来るな!」
四方八方から石を投げられ、クリストフも男も逃げるように馬車に乗り込み、退散していきました。
みんなに守られた以上、私は身の上を隠していることなどできません。
レオンに嫌われるのも承知の上ですべて話しました。
自分は間違いなくゲルトルート・ハリエラその人であること。
父が罪を犯したということで家が没落したこと。
クリストフは元婚約者で、父の罪を理由に私との婚約を破棄したこと。
そして今回の村に来たときの発言から考えて、父に濡れ衣を着せて陥れたのはクリストフの家であるだろうこと。
「私がいることでみんなに迷惑をかけるようですから、私は今このときを以てここを離れます。そうすればもうクリストフがここを攻撃する理由もなくなるでしょう」
深々頭を下げて、お礼と謝罪をします。
「迷惑をかけてごめんなさい。この半年、いろんなことを教えてくれてありがとう、みなさんと一緒にいられて幸せでした」
来たときと同じように、着の身着のままになるだけ。
レオンのもとで働いた分、貯金も少しはあります。
きっと、うまくやっていけます。
荷物をまとめるため家に戻ろうとする私の手を、レオンが掴みました。
「今回のことはお前のせいじゃないだろう、ゲルダ。なんでお前が出ていくなんて話になる」
「……すべて話した上で、まだ私をゲルダと呼んでくれるの?」
青い瞳は私をまっすぐ捉えます。
「ゲルダは俺の妻だろう。出ていけなんて思っているやつは、この村に一人もいない」
本当に、ここにいていいんでしょうか。目頭が熱くなります。
おばあさまが話してくれます。
「ゲルダが訳ありの身の上だってことはすぐにわかったさ。あんたの年頃で料理も洗濯もしたことないなんて、そういう身分の人間でもないとありえないと思っていたからね。でも、わからないことをなんでも聞いて、覚えようと努力するあんたを、見ていたらどうでもよくなった」
おじさまもおばさまも、口を揃えて言います。
「ゲルダが来てから、レオンは昔みたいに笑うようになったんだ。親父を亡くしてからずっと暗い顔をしていたんだよ」と。
レオンを見上げると、レオンもどこか照れ臭そうに笑います。
「ほら、な。これからもここにいていいんだ」
「……はい。ありがとう、みんな」
それから、私はまわりの思い込みではなく、正式にレオンと結婚しました。
村のみんなで国王に書面を送り、それがもとになってクリストフが裏で手を回してハリエラ家を没落に追い込んだことが明らかになりました。
クリストフは貴族の位を取り上げられ、囚人に。クリストフが誇っていた、きらびやかな服を着て使用人に世話をされる生活は二度と訪れない。
貴族位は復活して、お父様は再びハリエラの領地を運営することになり。
仕事が落ち着いた頃会いに来てくれました。
「貴族の暮らしに戻らなくてもいいのかい、ゲルトルート」
「はい、お父様。私がいないとレオンが泣いちゃいますからね。それに、牛たちの世話をしないといけません」
「……なぜ俺が泣くと決めるんだゲルダ」
父の前だからか、レオンはとても居心地悪そうです。
「レオンくん。娘を助けてくれてありがとう。どうかこれからもよろしく頼むよ」
「はい」
復権のあと、父は従弟を養子にとったので、その子がハリエラ家を継ぎます。
私とレオンの間に生まれる子は、ただの農民として生きる。
それでいいと思います。
「あのとき私を助けてくれてありがとう、レオン。もう山道に置いていくなんて言わないでね」
「まだ根に持っているのか。嫁を山に置いてくるなんて言えるわけがないだろう……」
領地に帰る父を見送ったあと、レオンと二人でまた牛たちの世話をします。
牛の数が増えて、私たちの子と一緒に仕事をするようになるのは少し先の話。
END