5.神官
「一緒に祈りを捧げて頂いて、ありがとうございます」
「いえいえ、ミカエラさま。貴女のために祈ることができるのは、我々にとっても幸せなことです」
神殿で神に祈りを捧げることは、ミカエラに課せられた義務のひとつだ。
爽やかな朝早い時間に、彼女は神殿で祈りを捧げた。
ミカエラを取り巻くようにして祈りを捧げていた神官たちは、彼女のために祈る。
彼女のために祈ることは、王太子殿下を、ひいては王家を守ることに通じているからだ。
「此処は、いつ来ても落ち着く場所ですわ」
神殿は虚飾に満ちた王宮とは違う。
太い柱が何本も立ち並び、所々に彫刻の程された白亜の建物は質素ではない。
かといって虚栄に満ちているわけでもない。
神のための場所は、どこまでも厳かで尊く、高い精神性を感じさせる清らかな場所であった。
神殿という実体がありながら神の加護という目に見えないものを得られる場所は、ミカエラにとって、ありのままの心内を吐露できる貴重な場所でもある。
(私は自分の心さえ騙さなければ生きていけない所に住んでいるから……)
誰が味方で誰が敵なのか分からない王宮で、人間に頼ることは難しい。
腹の中で考えていることまで見透かされ、攻撃の対象にされるような魔窟なのだ。
口にさえしなければバレない、というものではない。
油断ならない場所で孤独に生きるしかないミカエラに、心休まる時などないのだ。
しかし、神ならば心の中で思いの全てをぶちまけても悪影響はない。
たとえそれが、気休め程度の効果でしかなかったとしても。
ミカエラは、神殿に足を運ぶと祈りながら神に不満をぶちまける。
なぜ自分は『愛する人を守る』と、いう異能など持っているのか?
こんなモノが何の役に立つというのか?
自分は幸せになれないのか?
愛されず、愛を知らない自分が、愛する人だけは持てるというのは矛盾ではないか?
などなど。
答えの得られない不満をぶちまけるのだ。
どれだけ苦しいと言っても、痛いと言っても、神は受け止めてくれる。
心の中で愚痴るくらい、許して欲しい。
王宮では、気休めすら得られないのだ。
自分の部屋ですら自分の居場所だと感じられないミカエラにとって神殿は特別だ。
だから彼女は、神殿で祈ることが好きだった。
これが神に縋るということなのかどうかは、ミカエラには分からない。
しかし、ここでしか得られない安らぎがある。
ならば、祈るのは悪いことではないだろう。
ミカエラは神殿で神官たちに歓迎されていた。
それだけでも王宮とは違う。
「それでしたら、もっと頻繁にいらして下さってもよいのですよ? 神殿は国を守るのはもちろん、人々の心に安寧をもたらすための場所でもあるのですから」
「ありがとうございます、エド神官」
エド神官は、七色に輝く神々しい髪と瞳をミカエラに向けて笑みを浮かべた。
七色に輝く髪と瞳を持っているのは彼だけだ。
虹色の髪と瞳は、それだけでも美しい。
彼は見た目の美しさだけでなく、神官としての素養についても回りから認められていた。
将来は大神官になるのでは、と、目されている人物である。
(天使というものがいるのなら、まさにエド神官のような存在なのではないかしら)
その美しい笑顔を眺めながら、ぼんやりとミカエラは思う。
神殿には王家と肩を並べるほどの力があり、神官たちへの国民の信頼も厚い。
王家としても無下に扱うことはできず、ミカエラが神殿に足繁く通う事は歓迎されるだろう。
もうじき王妃教育にも一区切りがつく。
そうしたら通う回数を増やしても問題ないかもしれない、と、ミカエラは思った。
「そうですよ、ミカエラさま。いつでもいらしてくださいね」
「ありがとうございます、サリス神官」
ミカエラは、水色の髪と瞳を持つ美しい神官に笑みを返す。
確か40歳を超えているらしいが、色白で若く見える美形であるサリス神官は、青年にしか見えない。
神官たちは総じて若々しく、美しい。
痩せ細り艶の無い黒髪を持つミカエラは、神殿でも浮いた存在だ。
(男性ばかりの神官の方が美しいから、女性としては複雑だわ)
「ミカエラさまに来て頂けて、神も喜んでおられるに違いありません」
「ええ。そうですとも」
「我々としても気にかけて頂いて嬉しいです」
「一緒に祈ることが出来て光栄です」
神官たちは、ミカエラが喜ぶような事を言ってくれる。
美しい神官たちに歓迎されて、ミカエラも悪い気はしなかった。
それに実際、彼女が悪意よりも好意を感じられる場所は、神殿以外には無かった。
「我々はミカエラさまに、いつも感謝しております。そのお返しが少しでも出来るのであれば、ありがたいことですよ」
「オズモ大神官まで。嬉しいですわ」
オズモ大神官は白髪に灰色の目をしていた。
年齢は60歳程度と聞いているが、それよりも老けて見える。
しかし、その見た目に騙されてはいけない。
賢者でもあるし、戦士でもある。
動きはヨボヨボしていて見えるが、いざという時にはキレのある動きで相手の隙を狙い、攻撃することが可能なのだ。
神官たちは皆、癖があり、見た目とは違う。
神官たちと同行する機会の多かったミカエラは知っていた。
王太子婚約者という立場のミカエラは、神殿と王家の架け橋になるのに適切な身分である。
政治色が強くなり過ぎることを、神殿も王家も嫌っているからだ。
王族でも政治家でもないミカエラは、神殿の行事に駆り出すのに適した立場にいた。
だから度々、神官たちとは共に行動する機会がある。
安定していると言っても国に反感を持つ者はいて、ミカエラは攻撃の対象にされやすい。
何度か神官たちと行動している時に襲われたこともあるが、悪漢を撃退したのは神官たちだ。
神に仕える神官たちは穏やかではあるが、いざという時には強い。
頼りにはなるが、敵に回したら厄介だということだ。
だからミカエラは、神殿が落ち着く場所だからといって安心しきってしまうわけにもいかなかった。
「ミカエラさまが居れば、王家は安泰だ」
「代々の王太子殿下に比べて、アイゼル殿下のお健やかなことよ」
「王位争いがないのは久方ぶりです」
「全てはミカエラさまのおかげ」
「ええ。安定した政治が成されれば、国も平穏。皆が幸せに暮らせます」
神官たちは、にこにこと語り合う。
「いえいえ。私のおかげなどではありません。神官の皆さま方が敬虔な祈りを捧げて下さっているから、神さまが守って下さっているのですわ」
ミカエラの異能について、神官たちの全てが知っているわけではない。
それでも、何かしらの恩恵があるのだろう、と、察しているのだ。
神に仕える者たちの勘は侮れない。
歴代の王太子婚約者も、神殿に祈りを捧げに来ていた。
だが、途中で婚約者の方が変わったり、王太子の方が変わったりと忙しかった。
それだけ、この国では暗殺が日常化しているのだ。
殺されないまでも、王太子やその婚約者が倒れることは、よくあることである。
それが王太子婚約者にミカエラが据えられてからは全く無い。
王太子が病や怪我で寝込むこともないし、ミカエラが姿を現さない日もないほど順調だ。
痩せ細っているミカエラの健康を危惧する声はあるものの、実際に倒れることはないのだから婚約者としての地位を奪うのは難しい。
高位貴族たちが歯噛みしても、ミカエラの王太子婚約者としての地位は揺らがないのだ。
王太子婚約者の変更がないことで、現在の政権は安定している。
王太子の変更がないことは、それよりも更に政権の安定に貢献しているのだ。
神官たちは、理由は分からないまでも、ミカエラに神の恩恵がもたらされていることを疑ってはいなかった。
ただし。
例外は、いつも存在しているものだ。
灰色の髪に青い瞳を持つティア副大神官は、神殿の隅からミカエラを見据えていた。
肌色はくすんでいて、他の神官たちとは明らかに違う。
彼はミカエラを認めていない神官のひとりだ。
「みな騙されている。あの女は、悪魔だ」
憎々しげな呟きは誰の耳にも届くことなく、神殿の奥へと消えていった。