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第19話 闇を孕んだ瞳



 三州屋を手放したという今紫と、山縣が久しぶりに顔を合わせたのは、秋の事だった。今紫から頼りがあったのである。懐かしいなと感じて山縣は、約束に応じた。待ち合わせをしたのは――遊郭だった。

 あまり好ましい場所では無かったが、妻もいない。買う事が目的でもない。そう考えながら、場所を紙で確認していると、部下の会計監査官である中山寛六郎が顔を出した。

「吉原ですか。山縣さんがお出かけになるのは、珍しいですね」

 部下の間にも、山縣の身持ちの硬さは、今でも知れ渡っている。

「買うつもりではないからな。お前も独り身だったか? 一緒に来るか?」

 面倒見の良い山縣が気を回して誘うと、照れくさそうに中山が笑った。
 こうして二人は、待ち合わせの日、今紫が指定した、新橋へと向かった。

 約束した吉田屋に行くと、山登という名の、部屋持ち遊女のお座敷へと案内された。二十四歳の彼女は年季が空ける直前だったが、その手腕が高くまだ見世にいるらしい。今紫の弟子のような存在だと、手紙には記してあった。

「山登でございます」

 姿を現した山登は、姉から『山登』という名を、もう八年近く前に継いだ美女だった。長身で整った顔つき、物腰、どれも友子には似ていないというのが、山縣の第一印象だった。打算的に、鹿鳴館外交は既に影を潜めてきたが、夜会文化は残っているため、ドレスを着せて隣に飾るには丁度良いなと山縣は漠然と考えた。

 後添えを貰えというのは、山縣がしきりに促されている事でもある。そうでなくとも、多くの政治家は妾を持っている。飾っておく妾もいれば、子供を産ませる妾もいる。しかし――そうした時流は、山縣には受け入れがたい。だから漠然と、打算的に考える事で、女性と距離を置いたというのが実情だった。

 一方の中山は、あまりにもの美しさに、己では高嶺の花過ぎるなと考える。

 山登はお辞儀をした後、山縣と中山に酒を注いだ。それから、どこか寂しそうな瞳をして、窓の方を向く。それまで外見にばかり感想を抱いていた山縣は、その時になって初めて、山登という遊女をしっかりと見た。寂寞を感じさせる瞳が、友子と重なったからである。

「どうかしたのか?」

 山縣が問いかけると、山登が自嘲するように笑った。しかし、何も言わずに首を振る。その様が儚げに見えた。山縣は、友子を見ていた時に、すぐには気づく事が出来なかった闇を、そこに見た気がした。

「失礼致します」

 そこへ今紫が顔を出した。今紫は年相応の老け方をしているが、相変わらず艶がある。山登が山縣の隣から立ち上がろうとしたのだが、今紫はそれを片手で制して、中山の隣に腰を下ろした。頬を赤らめた中山が、挙動不審な様子に変わる。

 その夜は、たわいもない話をした。雑談に興じたのだ。今では山縣は、こうしたお喋りを、無駄な時間だとは思わない。部下と親交を深めるという効果も感じている。ただその夜は、終始、山登が見せた暗い瞳の色が気になっていた。

「――そろそろ帰る」

 山縣が切り出したのは、夜更けの事だった。今紫もまた立ち上がる。見送るという彼女に、山縣は笑みを返した。中山も慌てたように立ち上がろうとしたのだが、山縣が呆れたように苦笑した。

「残っていけ」

 それから山登を見る。しっとりとした顔で、彼女は頷いていた。

 遊女である山登の仕事は、一夜の恋を売る事であり、それを期待して訪れた中山がそこにいるのだ。残していく事に躊躇いはない。

 こうして山縣は、今紫と共に玄関へと向かった。すると、そっと出口の前で、今紫が山縣の袖を引いた。

「良い男になられましたね」
「随分と上からの物言いだな」
「これは失礼を致しました。最近では、新聞でも元勲の事一色ですのに。その中でも名高い山縣様――は、やはりお礼にお店ではなく、無理にでも一夜肌を重ねたかったものですね。大年増になってしまったこの体が憎いですわ」
「今も十分綺麗だぞ」
「あら。お世辞を言えるようになったのですね」
「俺も歳をとったからな」

 つれない山縣に苦笑して、今紫は手を離す。そのまま今紫に見送られて、山縣は外へと出た。暗い夜道を徒歩で歩きながら、吉原の甘い匂いが着物に染み付いている気がして短く吹き出す。そうしながら、山登の瞳に宿っていた暗い諦観の色を想起していた。

 ――山縣は、彼女の目を、忘れられなかった。

 友子を重ねていた。友子も同じ色を宿した瞳をしていた記憶がある。しかしその時は、すぐに友子が笑顔になったから、気のせいだと、気にとめなかった。もしもあの時気がついていたならば、友子の闇が深くなる事は無かったのかもしれない。そんな悔恨に襲われる。

 椿山荘に帰宅した山縣は、嘆息してから松子の部屋の前を通った。今年で松子も二十歳を迎えた。成人した娘の嫁ぎ先も、無事に決まっている。思春期に寂しい思いをさせてしまった娘だが、幸い明るく元気に育ってくれた。今では立派な淑女と言える。

 その娘に年の近い山登を、再び思い出した。しかし彼女に重なるのは、亡くした長女を産んだ頃の友子だった。女としてみているという意味ではない。闇が、気にかかって、胸騒ぎがするのだ。

 山縣は、その後暫くの間、ふとした時に、山登の顔を思い出していた。
 それから二ヶ月が過ぎた頃、思い出したように、山縣は新橋へと向かった。

 個人で訪れたのは、買ったのは、初回の事であるから、最初から顔を見るだけのつもりで来ていた。山登はといえば、山縣の姿に、最初は驚いた顔をしていた。

 酒盃を手にした山縣の前に、山登が座る。高い位置だ。

 吉原では、初回は話をしない。前回は、今紫という大御所の手伝いとして山登は顔を出していたから例外である。

 じっと山縣は、山登を見た。山登もまた、山縣を見ている。山登は始め、透き通るような瞳をしていたが、時が経つにつれ、やはりその眼差しは暗く変わった。

 ――山縣が二度目に店を訪れて、山登と言葉を交わしたのは、その三日後の事である。

「山縣様は、どうして私をお買いに?」
「聞きたい事があってな」
「何でしょうか?」
「どうしてそのように、暗い瞳をしているんだ?」

 それは、本心では、友子に直接問いかけたかった事だったのかもしれない。しかし、子供の事だと分かりきっていたし、気のせいだと片付けていたから、実現しなかった行為だ。山縣は、山登に問う事で、代償としようとしていたのだ。

「――私の父は、吉田安兵衛という名で、唐物屋をしておりました」
「そうか。それで?」
「日本橋の芸妓と、母が居るにも関わらず、情死したんですよ」

 山登の瞳が暗く変わった。この言葉を聞いて、山縣は初めて、友子の事ではなく、自分の両親や、入水自殺した祖母の事を思い出した。

「母は、私と姉を育てるために、籠の鳥となりました。姉も、そうして私も。この山登という名を譲ってくれた姉は、今は妾をしていて籠から出ましたし、母も年季が明けましたが――年季が明けても行く場所のない女は、政府の規制が厳しくなった今でもひっそりと古くからの岡場所で営業をしております。ほかに生きる術がないのですから」

 政府、という語を口にした時、山登は山縣を、一層寂しそうな瞳で見た。

「失ってばかり、けれど年季が明けてもこうして住まいがあるだけで私は幸福なのですが――もう私も年増。いつまでもこの見世にはいられませぬ。けれど、見世から出たいという想いもあるのです。籠の外を私は感じたい」

 儚げな彼女の醸し出す空気は、友子とは全く逆のものだった。友子は晩年までは、常に向日葵を彷彿とさせる明るさを保っていたが――山登は暗い。

「最初はお喜代という名で奉公に上がり、今はこうして山登を名乗っておりますが、私という個は、一体どこにあるのでしょうね」

 静かにその言葉を、山縣は聞いていた。
 そして帰路についた。山縣が三度目に見世に行く事は無かった。

 ――だが、山登の元に通っているという中山から、何度か話を聞いた。そんな時、山縣は山登の瞳を思い出しては、深く考えている。闇を救済しなければ、友子のように病んでしまう気がして怖かった。だから中山に言った。

「しっかりと、寄り添い、癒してやっているのか?」

 珍しく女を気遣う言葉を、中山は耳にしたように思った。
 実際の所、中山が求めているのは、人肌であり、山登の気持ちではない。
 そして客としての意識が強かった中山は、何か直感めいたものを覚えた。

「山縣さんは、どうして三度目に出かけて、床を共にしないのですか?」
「俺には、もう亡いとはいえ、妻がいるからなぁ」

 苦笑した山縣を見て、中山が唸る。

「山登は大人気で、年季も丁度明けたからと、身請け話がひっきりなしみたいですよ? このままじゃ、誰かに盗られてしまうかもしれない」
「籠の外に出たいと話していたからな、山登も外界に触れたら、少しはあの暗い瞳が変わるかもしれん」

 優しい顔で思い出すように山縣が笑ったのを見て、中山は険しい顔をした。

「分かりました、分かりました! 俺が、山縣様の代わりに買っておきます」
「どういう意味だ?」
「きちんとご自分で、その想いを伝えて、寄り添って、闇を癒してあげるべきですよ」

 この時の山縣は、面白い冗談を聞いたと思った。

 ――中山が山登を身請けしたと聞いたのは、そのひと月後の事であった。


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