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第17話 七草粥


 明治二十五年の夏、伊藤が久方ぶりに、山縣を富貴楼へと誘った。話題は、次の内閣の話である。この頃には、首相を指名するために話し合う面子は、ほぼ固定しつつあった。伊藤を筆頭とし、山縣はそれに次ぐ発言力を持っている。

「次は俊輔か」

 鰻を食べながら山縣が述べると、伊藤が窺うように山縣を見た。

「狂介、お前に入閣して欲しいんだよ。狂介の力を貸して欲しい」

 その声に、箸を置きながら、山縣は小さく首を振る。

「断る」

 私生活が理由ではないが、山縣は乗り気では無かった。しかし伊藤は食い下がる。

「頼む。お前の力が必要なんだ」
「……たとえ入閣しても、すぐに俺は辞表を出すと思うぞ」
「すぐって、どのくらいだい?」
「やって、数ヶ月だな」

 この頃には、山縣は伊藤の考えを支持しない時は、『何もしない』ようになっていた。決して邪魔はしないが、積極的には動かないのだ。それは波風を立てないためではない。伊藤のやる事は、伊藤なりの信念がある事だと理解しているから、妨害したりはしないというだけだ。

 その言葉の通り、山縣は入閣後、すぐに伊藤内閣の閣僚の座を降りた。

 辞した日帰宅しながら、山縣は己の選択に後悔が無いと考えていた。既に年が明けていた。その日は、一月七日だった。玄関を潜るが、出迎えてくれたのは女中達であり、妻の姿は無い。念仏が聞こえてくる。だから山縣の方から妻の元へと向かう。すると友子は、山縣を見て、泣きじゃくった。

「友子、落ち着け。松子は元気だろう?」

 もう十歳を過ぎている。松子は、他の子とは違い、病気をしない。山縣ではなく、友子に似たのだと感じている。

「今年も元気に過ごせるように、七草粥でも食べるとしようか」

 山縣が努めて安心させるように告げると、友子が泣きながら笑った。

「ええ、ええ。私が摘みに出かけたのよ」
「そうか……」
「七草を摘むにつけても過ぎし子の年をはかなく数へつるかな」

 和歌だった。山縣と友子の共通の趣味だ。しかし山縣は、凍りついた。意味を理解して、背筋が冷えた。子供が病気にならないようにと願って積む七草、それを手に取りながら、亡くなった子が生きていたならば、今年で何歳なのかを考える、そんな意味の和歌だった。

 あまりにも物悲しい。山縣は目を伏せる。自分だって悲しいのだ。そんな想いが溢れてくる。そう怒り出したい気持ちが、一時だけ沸いた。だがそれ以上に、ここまで病んでいる妻の――既に明るさの欠片も見えない表情が、衝撃的だった。

 愛する妻に、闇をもたらしてしまったのは、誰でもなく己だ。
 山縣は、無力感に苛まれた。友子を抱きしめる山縣の腕は、震えていた。




 ――しかしその後、山縣にとっては、友子の事で、衝撃的な出来事があった。



 妻の友子が、病死したのだ。

 急な訃報だった。ある朝、少し目眩がすると話していた。体調を気遣ってから、山縣は仕事に出かけた。そして、職場に使用人から連絡があった。

『大変です、奥様が――』

 山縣は目を見開いた。もうじき、重要な会議が始まる直前だった。しかしそれらを捨て置いても、すぐにでも駆けつけたい。心ではそう考えたし、気づくと椅子から立ち上がっていた。

「山縣さん?」

 しかし――室内にいた部下に、不思議そうに声をかけられた時、山縣は椅子に座り直していた。職場であるから手紙に記して使用人は連絡を寄越したのだが、その紙を何度も見る。峠だと書いてあった。

「そろそろお時間ですよ」
「――ああ」

 茫然自失とした状態で、結局山縣は会議へと出席した。内心では焦燥感が強く、いくら思考を切り替えようとも、妻の顔が過ぎる。朝見送ってくれた時も、花のような笑顔を浮かべていた。

 そのまま会議を乗り切り、他の日程は断りを入れて、山縣は急いで帰宅した。すると、布団に横たわった妻の隣に、白衣の医師が座っていて、山縣を見ると小さく首を振った。その意味を理解したくなくて、山縣は震える指を友子の頬に伸ばす。

 冷たかった。思わず手を引く。硬かった。いつも柔らかかった友子の頬とは違いすぎる。

 西郷の遺体を検分した時と同じ感覚だった。しかしあの時との違いは、涙が出てこない事だ。信じられなかった。衝撃が強すぎる。

「友子は……死んだのか?」
「ええ。お亡くなりになりました」

 その日から、葬儀の関係で、山縣は仕事を休んだ。誰も咎めない。どころか葬儀でさえ、挨拶の場に変わった。来客者は、山縣に媚びるように上辺のお悔やみを述べる。それらは山縣の耳を素通りしていく。誰が来たのかも、山縣は記憶していない。気づくと、葬儀は終わっていた。現実感を欠いたままで、山縣は椿山荘の庭を見ていた。

 次の瞬間、山縣は霙に濡れながら、富貴楼の前に立っていた。己がどうやってここへ来たのかも思い出せなかった。事前の連絡もしていない。そんな山縣を目にして、店の者がお倉を呼ぶ。驚いて出てきたお倉は、山縣を座敷まで通した。山縣は人形のように白い顔で無表情だ。

「山縣様?」

 冬の最中、凍えている様子の山縣に、お倉が火鉢を近づける。しかし山縣は暖まろうとするでもなく、虚ろな瞳をしていた。何も映していない硝子玉のような山縣の黒い目を見て、お倉はただ事ではないと感じた。

「一体どうされたのですか?」
「――妻が死んだ」

 お倉は息を飲んだ。ここの所、引退を考えていたお倉は、要人の家族の情報までは把握していなかったのである。お倉の代わりに、既に様々な芸妓達が、その手腕を発揮するようになり、各地に店が出来始めていた。

「妻が死んだんだ」

 山縣が繰り返した。

「っ」
「どうすれば良い? どうしたら良い? 何も無くなってしまった」
「そんな、松子様がおいでになるでしょう?」
「あれもいつ死ぬか分からない。俺のせいだ。俺の体が弱いばっかりに……だが、友子は健康だった。あいつは……ああ、俺のせいだ。俺が気苦労をかけた。だから、だから――」
「山縣様」

 その時、バシンと音を立てて、お倉が山縣の頬を張った。
 山縣が息を飲み、目を見開く。

「落ち着いて下さい。そのような事では、何も変えられませんよ。貴方が揺らいでどうするのですか。貴方は、もっと大きなものの支柱を作ろうとしているお方でしょう?」

 それを聞いて、山縣は頬を押さえながら、呆気にとられたような顔をした。

「お気を確かに」
「お倉……」
「お辛いのは痛いほど分かります。ですが、今貴方が欠けては、日本の黎明の次に待つのは、再び混沌です。今度は明けぬ夜が来るかもしれません。やっと、今この大日本帝国は陽を見ているのです。山縣様のご尽力の賜物でしょう? それを、見捨てるのですか?」

 何度か瞬きをしながら、山縣は怜悧に変わったお倉の、滔々とした声を聞いていた。
 彼女の声には、強い意志が感じ取れる。
 それを耳にしている内に、山縣は漸く、現実を認識出来るようになってきた。

「――いいや、俺は守る」

 山縣は、しっかりと答えた。小さな声だったが、そこには決意の色が含まれている。

「守りぬく、この、残された世界を」


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