第13話 鹿鳴館
明治十六年、日本が既に先進国的である事を証明するべく、鹿鳴館が開かれた。岩倉具視が亡くなったこの年、西洋文化を取り入れた華美な洋風建築がお披露目された。鹿鳴館外交と呼ばれるひと時の始まりである。
山縣は、職場から馬車で帰宅すると、和服で出迎えた友子を見た。
「友子、一緒に鹿鳴館へと行かないか?」
既に友子は三十三歳だ。成熟した女性のはず――なのだが、山縣から見ると、まだまだあどけなさが抜けないように見える。老いではなく、色気が増したように感じてばかりだ。山縣は和装が好きであるが、友子のドレス姿を見てみたいという思いもある。
「旦那様……私が、ドレスですか……?」
すると友子が狼狽えたような顔をした。そして松子を隣に座らせたまま、おどおどと視線を彷徨わせる。
椿山荘の中にも洋室はある。絵画には、描かれたドレス姿の、西洋の貴婦人もいる。よって友子は、正直な所、憧れないわけでは無かった。一度はドレスを着てみたい。
「似合いますでしょうか……?」
「ああ、友子なら、何を纏っても映える。本当は、誰にも見せたくないほどなんだが――……これも、悪いが仕事でな。欧化政策の一環として、という事らしい」
井上馨が主導している鹿鳴館外交の幕開けに伴い、山縣もまた、妻を連れて夜会に出る事を望まれていた。苦笑している山縣を見て、力になれるならばと、意を決して友子は頷く。するとそれを見て、山縣の表情が柔らかくなった。純粋に、友子とひと時を楽しみたいという気持ちもある。
山縣は、先日横浜に出かけた時に注文していた、宝石のはまる首飾りの箱を、この日職場で受け取り持ち帰っていた。静かにその箱を取り出した山縣は、天鵞絨張りの箱から首飾りを取り出すと、歩み寄って友子の首に付ける。
「あ、あなた、これは?」
「よく似合っている」
和服の上につけたのだが、それだけでも友子の洋装を想像させるには十分だった。
その夜は、同じ布団に入り、遅くまで語り合っていた。
山縣の腕の中で、友子が微睡んだ時、優しくそのこめかみに口づけてから、山縣は幸せを噛みしめる。何年経っても、友子の事が好きでならない。そばに温もりがあるだけで、心が満たされる。
翌週、二人は鹿鳴館へと向かった。政府要人や華族の他には、日本に滞在中の外交官やダンスの講師などの異国の紳士と淑女が訪れている。山縣もまた、軍服以外ではまだ慣れない燕尾服を身に纏い、慣れないなと感じながら、馬車から降りる。先に地を踏み、友子に手を差し伸べた。友子は背に針金の入ったドレスを纏っている。薄い青のドレスで、白いレースが付いている。こちらは山縣が仕立て人を手配し、急遽友子のために作らせた品だ。
小柄な日本人はドレスが似合わないというが、山縣には、誰よりも友子が美しく思えた。それから山縣と友子は、それぞれ異国の講師にダンスを習ったのだが、外国人の男が友子の手を取ってダンスを教えている姿が、山縣には快いものでは無い。
それは友子も同様で、すらりと背の高い異国の女性講師に嫉妬めいた感情を抱いてしまった。そんな二人は、それぞれレッスンを受けながら目が合うと、どちらともなく苦笑するように小さく笑う。
そうした講義が終了すると、本格的に鹿鳴館の夜が始まった。
山縣は迷わず友子の手を掬う。そして二人は、慣れないダンスを踊る事になった。
「わっ!」
早速友子が、ドレスを踏み、体勢を崩す。山縣はそれを抱き留めると、楽しそうに笑った。友子は真っ赤になっている。それは失敗してしまったからではなく、人前で山縣と抱き合っているからという現実と、あんまりにも山縣の表情が素敵に見えたからだった。
周囲も、山縣の珍しい笑顔に驚いている。山縣はこの頃には、笑わない人物だと周囲に思われるようになっていたからだ。同時に、厳しい人物だという評価を下されがちだった。その山縣が見せた満面の笑みに、視線を惹きつけられた者は多い。
「大丈夫か?」
「は、はい!」
友子は山縣に支えられて、体勢を立て直す。そして慣れないハイヒールに痛む足をこらえながら、覚えたてのステップを踏む。ワルツの調べに乗りながら、山縣は友子の柔らかな腰に腕を回し、ぐっと体を近づけた。その距離感に、友子は再び赤面しそうになる。
飲み込みの早い山縣は、日本人男性にしては、ダンスが上手な方だった。一方の友子は、窮屈な服装や靴も手伝って、緊張の方が強い。しかしそばに山縣がいてくれるため、少しずつ体の硬さを取り去って、おずおずとテンポにあわせて踊りを楽しもうと努力した。
ダンスが終わってからは、山縣が葡萄酒の浸るグラスを手に取ってきてくれた為、普段はあまり飲まないのだが、緊張からカラカラになっていた喉を潤した。そうして壁際に下がる。山縣も隣に立った。
「旦那様、どうぞ踊ってきて下さいませ」
「俺は友子以外と踊りたいとはあまり思わないぞ。それに友子を一人にしておきたくない」
思わず山縣は本心を告げた。すると友子が真っ赤になった。そんな友子の、西洋風に結った長い髪に、山縣が触れる。友子の耳には、綺麗な装飾具が飾られている。首元には、先日山縣が贈った首飾りがある。
二人で並んで立ち、葡萄酒を飲みながら、暫しの間会場を見ていた。
友子は、そこに溢れる麗人達や異国の淑女を見て、自分の子供っぽい体型を嘆く。友子は彼女の自認よりはずっと美しく、会場に華を添えていたが、本人は羞恥を抱いていた。山縣には、自分よりも、もっと洗練された女性が似合う気がしてしまう。
もう友子も良い年だと、本人は感じている。三十三歳とは、年増だとしても良いと、本人は感じている。その年増が、不格好にも似合わないドレスを来て、下手なダンスを踊っていては、山縣に恥をかかせる気がしてならない。
「どうぞ、他の方と踊って下さいませ」
「俺と踊るのは、嫌か?」
「いいえ。そうではないのです。ただ、私……こういう場所は恥ずかしくて……苦手みたいです」
「直に慣れる」
山縣は優しくそう告げた。それから井上馨が挨拶にやってきたので、山縣は仕事をする顔つきになった。思考を切り替え、これもまた仕事であるのだと思い起こす。
しかし、友子とのひと時は楽しいとは言え――山縣もこの場が、あまり好きになれそうにはなかった。
その週末、山縣は富貴楼へと顔を出した。久方ぶりの事だった。
理由は、鹿鳴館で、顔を見た事のある女性達を幾人か目にしたからだった。
「鹿鳴館に赴かれたとか」
山縣が聞こうとしていた話題を、挨拶に訪れたお倉の方から切り出してきた。山縣は頷くと、酒盃を傾けながら、着替えた浴衣姿で問いかける。
「富貴楼の芸妓達の顔が見えた」
「ええ」
「長州軍閥の奴らが伴っているように見えた」
密偵からの話として、最近では富貴楼に、薩長の人間が多く顔を出しているとも聞いていた。するとお倉が悠然と微笑む。
「この店を、長州の香りがするなんて、無粋な事を申されるお方もおられるのですが、実際、贔屓にして下さる方には、長州出身の方も多いんですよ。実際に芸妓を上がって奥方になった娘もおりますが、妾としておそばにいる者が一番多いです。山縣様は、奥様と踊られたんだとか?」
お倉の声に、山縣は小さく頷いた。確かに、友子もそうであるが、日本人女性の多くは、あまり夜会やドレス、特にダンスといった事柄に馴染みがない。だから講師を呼んでいるが、そうであっても、芸妓達の方が舞踊の素養や芸事の披露で、社交の場には慣れ親しんでいるから、場に華を添えるのは間違いない。
「考えたものだなぁ」
「今はなく桂様の愛妻の、幾松の姐さんのドレス姿が絶品だという評判は、芸妓の間でも噂になっていますからね」
その当時から、芸妓や遊女を嫁に迎えるという流れは、政府要人の間にも存在しているのだと、静かにお倉は語った。久方ぶりに耳にした木戸の名を、山縣はすんなりと受け止める事が出来た。亡くなって以後は、特に親しかった時期を思い出す機会の方が増えている。お倉も山縣の傷が癒えたのだろうと察して名前を迷わず出した。
「楽しんで踊るという文化を取り入れるのは、悪い事ではないと思ったが――そうして見せびらかすため、日本人には不似合いな踊りを踊る事で、簡単に改正出来るならば、楽な事なんだろうがな」
山縣はそうは思わなかったが、鹿鳴館外交の成功を祈らないわけでは無かった。
なお――お倉に対して、政治的な言葉を零すようになっている自分の事を、この頃には自然なものとして山縣は受け止めていたから、そちらが不思議でもあった。