10 Caseエビータ⑩
ほぼ同時間の応接室では、出された紅茶に誰一人手を付けず黙り込んでいた。
静寂を破るようなノックの音に、全員の肩が揺れた。
「失礼します」
入ってきたのはメイド長だった。
その顔はかなり青ざめている。
それに気づいた医師が立ち上がり、メイド長をソファーに座らせた。
「お茶を淹れるから少し落ち着きなさい」
医師の声にメイド長は小さく頷いた。
そんな様子などお構いなしに、家令がメイド長に嚙みつくように叫ぶ。
「君も見たよな? 奥様の体から血が溢れ出ていて……ご主人さまがそれを手で……」
家令の言葉にメイド長が顔を顰めた。
「家令様? 大丈夫ですか?」
家令の言葉には返事をせず、メイド長は言った。
明らかに家令の様子がおかしい。
目の焦点が合ってない?
そう思ったメイド長は医師の顔を見た。
「混乱しているんだろう。先ほど鎮静剤を飲ませたよ。錯乱状態だっからね」
「そうですか」
「それで? 君も本当に見たの?」
「私は……チラッとしか見てないのです。ご主人様の背中が覆いかぶさっていて……それに家令様が私の前に立っていらしたので。でもシーツは赤く見えました」
「そうか」
黙り込むメイド長と医師。
その横で頭を抱えて蹲り、ぶつぶつと独り言を呟く家令。
家令を見ながら眉間に皺を寄せる警備隊員。
そして警備隊員が立ち上がった。
「私は一度戻って報告をしてきます。指示を仰いできますよ」
「ああ、それが良いでしょう。これは個人的な意見ですが、どうも精神的な問題のようですね。あの状態の遺体から血が溢れることなんて絶対にないし、痕跡もない。どうもマイケル様と家令はショックを受けているようだ」
怯えるメイド長の前に紅茶のカップを置きながら医師はそう言った。
「なるほど。そのご意見も個人的にということを付け加えて報告しておきます」
見送った医師がメイド長に声を掛けた。
「奥様の……エビータ様の葬儀は?」
メイド長がゆっくりと医師の方へ顔を向ける。
「それが……ご主人さまがお許しにならないのです」
「それでは遺体が腐敗しますよ?腐って蛆がわいてくる」
「私もそれは申し上げたのですが」
「死者への冒涜だ! いくら離し難いとはいえ、それはダメですよ」
「ええ、そうですよね。でも私の話はお耳の届かないのです」
「困りましたね……」
メイド長がパッと顔を上げた。
「神官様に来ていただいてはどうでしょうか。神官様の言葉なら……」
「そうですね。それがいい。私は教会に手紙を書きます。寄付金も用意せねば……」
医師は黙っていた。
「私にできることは何もなさそうです。今日のところは帰りますが、また何かあれば呼んでください」
「わかりました。お騒がせいたしました」
医師を見送るためにメイド長が立ち上がった。
医師を乗せた馬車を見送ったメイド長が庭を横切るとき、庭師の少年が駆け寄った。
「メイド長、朝方は真っ赤に染まっていたバラが元に戻りました。私の見間違いだったようです。すみませんでした」
「バラが? 真っ赤に?」
「ええ、奥様のお部屋の下のバラだけが全部真っ赤になっていたように見えたのです」
「……」
「きっと朝日が反射していたんでしょうね。本当に真っ赤でしたから。血みたいだった」
庭師の言葉にメイド長の体が揺れた。
「そうですか。見間違いは誰にでもあります。噂を広めないように口を噤んでいてくださいね」
「わかりました。メイド長? お顔の色が青いですよ? 大丈夫ですか?」
「ええ……私は大丈夫です。私は……」
「少し休まれてはいかがですか?」
「そうね、その方が良さそうね」
マイケルは食事もせずエビータにしがみついて離れない。
家令は教会に手紙を出すと、商会を呼んで現金を用意さるとは言っていたが。
使用人達は手よりも口を動かし、仕事は何も進まない。
集まっては話し込み、チラチラとこちらを伺う態度が腹立たしい。
メイド長は自室に戻り仮眠をとり、夕方頃に部屋を出た。
妙に人の気配がしない。
その日のうちに半分以上の使用人が、荷物をまとめて屋敷を去っていた。
そしてエビータの死から2日目の夜を迎えた。