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「お噂は常々耳にしていますし、まさにそのお噂通りである意味安心ではありましたが。いいですかリートフェルト卿、いくら貴方様が噂に違わぬ社交界の花であったとしても、こんなにも気軽に女性の気持ちを受け入れてはなりません!」

 社交界の花こと、レオン・ファン・リートフェルトは夜会の最中でありながら絶賛説教を受けている。
 夏の夜、風通しの良い中庭のベンチで男女が二人、であるにも関わらず、あまりにも甘さの欠片も無い。
 懇々と説教をしているのはヘンリエッタ・キールス子爵令嬢。緩やかに波打つ栗色の髪が夜風に揺れる。丸く少し垂れた碧色の瞳は今はきつくレオンを見据えている。

 今日の夜会で出会ったばかりの人物であり、そしてレオンに告白してきた相手でもある。

 告白をされたのでそれを了承した、だけなのに。その結果まさかの説教である。
 こんな展開を誰が予測できただろうか。レオンは吹き出しそうになるのを必死に堪えつつ、ほんの少し前の彼女とのやり取りに意識を向けた。






「リートフェルト卿、ずっとお慕いしておりました! 結婚を前提にお付き合いしてください!!」

 まさかの女性からの求婚。あげくその表情は親の仇でも見る様なもので、あまりのちぐはぐさにレオンは一瞬だが固まってしまった。
 蜂蜜色の髪に青紫色の瞳を持つ彼の存在は社交界では有名だ。甘いマスクにミステリアスな瞳は数多くの女性達の心を虜にしてきた。侯爵家の次男、そして、王太子であるアレクサンデルの学友であり側近でもあるものだから尚更だ。
 そんな彼にこうやって直接声を掛けてくる令嬢は少なくはない。が、ここまで直球なのは初めてである。しかもその中身と顔が合ってはいない。

 ふむ、とレオンは考える。彼の主義として女性と付き合っている間はその一人のみと関係を持つ事にしている。二股などは絶対にしない。別れる時もお互いが納得のいく方向で話を進め円満に終わらせる。

 現在レオンにそういった相手はいない。なので彼女からの想いを断る理由は特にない。結婚、の二文字が聞こえたが自分もそろそろ身を固めろとの圧力を受けているし、もし付き合ってみて気が合う様ならそれでいいか、という答えが出るまでたったの五秒。

「分かった、君と付き合おう……っと、いう事で、まずは名前を聞いてもいいかな?」

 すると当の本人がポカンとした顔でレオンを凝視する。ん? とレオンが首を傾げれば、だんだんと彼女の眉間に皺が寄り、ややあって出てきた言葉は「は?」と言うなんとも短いものだった。

「……あの、今、なんと……?」
「君から俺が好きで、結婚を前提に付き合って欲しいと言われたので、そうしよう、と」
「それはつまり、わたしの話をお受けになると……?」
「そういう事だね?」

 チ、チ、チ、と時を刻む音が三つ続いた後に彼女の眉間に皺がギュンと寄る。

「いや……いやいやいや違うでしょうそうじゃない、そうじゃない!!」

 見事なまでの渋面。およそ貴族の令嬢がしていい顔ではない。というかそもそも年頃の女性がするものではないだろう。けれども彼女はまるで頭痛に耐えるかの様にこめかみを指で押さえ深く呼吸を繰り返す。

「なにがだろう?」
「なにが……なに、が……! ああもうこれはあれですねちょっとお時間よろしいですかリートフェルト卿!? わたしとお話をしていただきたいのですが!」

 なんだか見覚えのある顔だなあと思いつつ、レオンは彼女に連れられて中庭に出た。ちょうど庭の中央にあるガゼボ、のベンチを勧められて腰を下ろす。今までレオンの胸元辺りにあった彼女の顔が見上げる位置だ。そこにある表情、にようやくレオンは思い至る。幼き頃、侍女のメイサがレオンを叱る時の顔にそっくりだ。

「とりあえず、君も座らないか? あと、そろそろ名前を教えてもらえると嬉しいんだが」
「……初めてお目に掛かりますリートフェルト卿。ヘンリエッタ・キールスと申します」

 彼女はレオンの隣、拳を三つほど空けた位置に腰を下ろし――そうして怒濤の説教が始まった。






◆◆◆◆◆





「本当にありえませんリートフェルト卿!」
「よければ名前で呼んでくれないかなあ?」
「それはあまりにも馴れ馴れしくはありませんか!?」
「でもヘンリエッタ嬢とはほら、これから親しくなる仲なわけだし。なんならそのまま結婚」
「だから簡単に話を受け入れてはなりませんと申し上げましたよね!? リートフェルト家のみならず、ご自身が王家にとっても重要であるということをもっと自覚なさってください!」

 王太子の側近であり友人、侯爵家自体も長きに渡って将軍職を務めている重鎮の一つだ。侯爵家を継ぐのは兄のハーネストだが、兄弟仲は悪くはないのでいずれ兄を支えるつもりでいる。

「リートフェルト家……ええもうそれではお言葉に甘えて今宵だけはレオン様と呼ばせていただきますね! 先程から何度も申し上げておりますが、いくらレオン様が社交界の花、もしくは花と花を飛び交う蝶、有り体に言ってしまえば女好きのロクデナシだとしてもです! 守らねばならぬ血筋とお立場をもう少し考えるべきでしょう!」

 怒られている。二十歳を超えてしばらく経つが、こんなにも女性に怒られているのは子どもの時以来だ。あととてつもなく失礼な事も言われたが、それは事実なのでレオンは大人しく耳を傾けている。

「単純に見目麗しいレオン様の寵愛を狙う者もいれば、お家の権力を狙う野心家もおりましょう! 百歩譲って付き合うだけならまだしも、その後の結婚まで了承とは不用心、考え無しにも程があります!! 特に婚姻は貴族社会においてどれ程重要か、いかに自由奔放、お気楽極楽を体現なさるレオン様でも少しはお分かりなのでは!?」

 繰り返すが告白してきたのは彼女の方だ。レオンはそれを了承しただけ。だと言うのにこの状況はあまりにも理不尽ではないのか。しかしレオンはこの状況こそが楽しくて仕方がない。未だかつてこんな目に遭った事などない。いやむしろ世の男性誰一人として同じ目に遭った事はないだろう。

「聞いておられますか!?」
「ああ……そうか、貴女が【至論の令嬢】か」

 レオンのその言葉にヘンリエッタの口がピタリと止まる。どうやら正解であったらしい。
 至論の令嬢――ヘンリエッタ・キールスがそう呼ばれる様になったのは一年前のとある出来事が原因だ。






 当時ヘンリエッタは公爵家の一つであるルンセン家の侍女であった。十五歳になったばかりの長男・ニールスは甘やかされて育ったために我が儘も多く、使用人は元より彼の両親にとってもそれが悩みの種だった。
 そんなニールスには幼い頃より婚約者がいた。マリーナ・ファン・エトホーフト伯爵令嬢である。性格は控え目で温厚、見た目の派手さこそないが、特筆すべき非ではないし、領民は元より同じ貴族令嬢達からもその人柄により好かれていた。

 しかし、ニールスはそんな彼女を放置して別の令嬢へ想いを寄せてしまう。子爵令嬢のユリアナと密かに交流を深め、公爵家がその存在に気が付いた時にはマリーナに対し婚約破棄を言い放った後だった。
 その時に誰よりも先に動いたのがヘンリエッタである。
 ニールスと密通相手のユリアナを相手に、ここでも懇々と説教を始めた。

「お二人のお気持ちはよくわかりました。ようございます、恋とは時に理屈をねじ曲げる物です。それ程までに互いを強く想い、世間からどれ程詰られようとも愛を貫くと言うのであれば、これ以上外野が口を挟むことはできません、が、しかし。しかしですニールス様、ユリアナ嬢」

 ヘンリエッタは二人に向けて問いかける。「その後の覚悟はおありですか」と。

「だから……それは、あると言っている。しばらくは社交界から遠ざからねばならぬだろううが、それでも僕はユリアナと」
「いいえ違いますそうではありませんニールス様。そんな上っ面の覚悟を問いかけているのではないのです」

 え、と固まるニールスとユリアナに、ヘンリエッタは彼らが気付かない、いや、あえて考えない様にしていただろう未来を突きつける。

「マリーナ様との婚約は家同士の物であり、そこに愛はないとニールス様はお考えになったわけですよね? わたしはそれでも、少なくとも、マリーナ様からはニールス様への愛情はたしかにあったと思います……いえ、マリーナ様がそういう風にお気持ちを育てられたのでしょう。しかしそれも今では木っ端微塵、塵芥となったことでしょうがそれはひとまずおいておきます。いいですか、公爵家と伯爵家が繋がりを求めて結んだ婚約を、ニールス様がお父上、つまりは現当主の承諾も受けずに勝手に破棄なさった。それがどういう事か、いくら頭が緩いニールス様でもおわかりですよね? それとも、それすらわからないくらい頭の螺子が無くなっていますか?」

 カッとニールスの顔が赤くなる。まだ当主ではない、けれども次期当主として育てられてきた。そうでなくともニールスはヘンリエッタにとっては主人であるのだから、今の言い草は到底許されるものではない。
 黙れ、と一喝してニールスは身分の差を知らしめようとした、が、それよりヘンリエッタの追撃が速かった。

「エトホーフト伯爵家に甚大な迷惑を掛けただけでなく、その家名に泥を塗ったわけです。あちら側からすれば到底許されるものでは有りません。そして家名に泥を塗られた、という点においてはルンセン公爵家においても同じです」
「なぜだ!?」
「なぜ? 当然ではないですか。マリーナ様がニールス様に対して不義を働きましたか? どなたか他の男性と親密になりました? ニールス様の知らぬ所でよからぬ噂を流しましたか? なにもなさっていませんよね? マリーナ様には一切非はありません。それは誰の目から見ても明らかです。先に不義を働いたのは誠に残念ながら貴方様です、ニールス様」

 公爵家の次期当主、という立場からニールスの周りにいた令息も、屋敷の人間も誰も追求しなかった点を、ヘンリエッタは細身の剣を繰り出すか如く突いていく。そこには一切容赦などなかった。

「現当主であるエーリク様は決してお許しにはならないでしょう」
「父上にはきちんと詫びを入れるし、ユリアナとの関係も」
「すでに婚約者を持つ貴族のご子息が、思春期に入った途端特有のソレを拗らせて他の女性と浮気をするのはままあることです。一時の熱に浮かされての蛮行ですが、その後考えを改めて本来のお相手に誠心誠意謝罪をすれば、そこから真の愛が育つ場合もあるでしょう。まさにエーリク様がいい例ですね」

 ニールスの父も若い頃に同じ様な熱に浮かされて婚約者を蔑ろにし、あわや婚約解消寸前までいった事がある。しかしどうにか正気に戻り、婚約者であったステアとの仲がより一層深まり無事結婚。今では社交界屈指の愛妻家として有名だ。

「ですがニールス様はその蛮行を貫かれました。そのおかげで今や公爵家はいい笑い物です。公爵家が、貴族達の……いいえそれだけでなく、一般の市民にまで嘲笑の対象とされています! ルンセン公爵家の権威は地に落ちる寸前で、その元凶は貴方でしかない!!」

 でも……とニールスは口をどうにか動かそうとするが上手く言葉が出てこない。あえて見ない様に、考えない様にしていた問題を目の前に、顔にめり込む勢いで突きつけられているのだから当然だ。

「ここからが本題です」
「……まだ本題ですらなかったのか!?」
「十中八九、ニールス様は勘当されるでしょう。公爵家を内側から貶めたのですから、その場で首を撥ねられないだけマシですね。さて、そうなった時にどうなさいます? 生まれてこのかたずっと公爵家の跡取りとして砂糖水より甘く育てられてきたニールス様に、はたして庶民の生活が耐えられますか? 下手をしたら庶民以下の生活かもしれない可能性もありますよ。身ぐるみを全て剥がされて路上に放置されるかもしれませんもの」
「そっ……それほどまでのことを僕がしたと言うのか!?」
「なさったんです、それ程までのことを。ご自身に一切非がないとはいえ、年頃になった途端それまでの婚約者に破棄を突きつけられた、というだけでマリーナ様も謂われなき中傷にさらされているんです。マリーナ様の名誉も、貴方は傷付けたのですよ」

 ニールスの顔から血の気が失せる。心変わりはしたけれど、それも結局はヘンリエッタが言った様に思春期を拗らせ、自由な恋とやらに憧れて、たまたま知り合ったユリアナと恋に落ちた。そこにマリーナに対する不満はなく、また彼女を傷付けたいという気持ちは欠片も無かったのだ。もしマリーナが異を唱え、少しでも嫉妬めいたものを見せてくれたらニールスは再び彼女の元へ戻るつもりでいた。しかしどこまでも控え目な性格をしている彼女はそうはしなかった。だから、ニールスは戻る機会を見失ったまま蛮行を続け、ついにはこんな事態を招いてしまったのだ。

「公爵家の威信は元より、伯爵家となによりもマリーナ様の名誉のために、ニールス様は断罪されるでしょう……さて、ここでユリアナ様にもお尋ねします。貴女様は、公爵家の身分を剥奪されたニールス様とそれでも愛を貫きますか? いいえ、貫けますか?」

 それが終止符となった。ユリアナは首を横に振り、呆然となるニールスを置いて逃げた。彼女としては、公爵家子息のニールスが好きなのであって、ただのニールスには一切興味はなかったらしい。あまりにも潔く立ち去るものだから、ヘンリエッタは思わず拍手を送ってしまった。

 憐れなのは残されたニールスだ。ユリアナと別れた事により勘当はなんとか免れたが、一度壊れたマリーナとの関係はどう足掻いても修復ができない。心を入れ替え、誠心誠意の詫びを見せ、マリーナもその謝罪を受け入れはしたが、けれどニールス自身は拒絶したまま。そうこうしている内にマリーナは遊学中の隣国の第三王子に見初められ、つい先日婚約者として公表された。まるで物語の様だと、一部の令嬢達の間で猛烈な声援を送られている。





◆◆◆◆◆





「至論で公爵家の一人息子を黙らせた侍女の話も有名だったからね。それが貴女だとは意外だったな。もう少し厳めしい人なのかと思っていたけど、ずいぶんと可愛らしいねヘンリエッタ嬢」
「……息をする様に女性を口説くのはおやめください」
「俺はほら、貴女と付き合って結婚してもらわないといけないから」
「ですから!! それは違うと申し上げてますよね先程から!」
「じゃあ訊くけどどうして君は俺に告白なんてしてきたの?」
「勝負に負けたからです!!」

 あ、と気が付いた時にはもう遅い。一度出てしまった言葉は取り消す事などできず、ヘンリエッタは目に見えて狼狽えた。その様子に、ほほう、とレオンはわざとらしく顎に手をやる。

「つまり貴女は、勝負に負けた罰として俺に告白をしてきたと?」
「っ……その通りです……ですから」
「女性から告白だけでなく求婚するとはたしかに羞恥の極みだったろうけど、よかったじゃないか叶って」
「ですからーっ!! 先程から何度となく申し上げております通り!! そう簡単に受け入れてはなりませんと!!」

 我慢も限界を越えたのだろう、ヘンリエッタは声を張り上げた。繰り返し、懇々と説明をしているのに当の相手が聞く耳を持たないのだから仕方がない。だがレオンはそんなヘンリエッタに素朴な質問を返す。

「なぜ?」
「……なぜ?」

 レオンが問えば、ヘンリエッタは眉を顰めて問い返す。え、この人本当に人の話を聞いて……え? 通じない? えっ!? と無言なれどヘンリエッタの顔を見れば彼女の考えなどお見通しだ。気持ちも真っ直ぐで素直な人なのだなと、レオンは眩しい物でも見る様に僅かに目を細めた。

「あの……レオン様? わたしの話はそんなにもわかり難いです……?」
「いや、貴女の話はとても分かりやすいし、声は耳に心地良いよ?」

 鈴を転がす様な、とは言わないけれど。それでもヘンリエッタの声は好きだなと、すでにレオンはそう感じている。

「なぜ、と言うのは貴女がさっきからずっと受け入れてはいけないと言っているからだな」
「そこをご理解いただいているのなら」
「俺の立場や家の事を貴女が危惧しているのは分かる。けれど、俺自身がそれを踏まえて頷いているのに、それでも貴女は駄目だと言うのが解せなくて」
「え……ええええ……」
「えらく不満げだね? どうぞ?」

 言いたい事があるならば、とレオンは手をヘンリエッタへ向ける。今さら躊躇う事もないだろうに、モゴモゴと言いづらそうにしているのが謎だ。

「……とても踏まえていらっしゃるようには思えませんでしたが……?」
「ちゃんと考えていたさ」

 ほんの五秒程度ではあったけれど。
 ヘンリエッタの訝しがる顔をさらりと流しつつレオンは話を続ける。

「貴女の言っていた通り、たしかに俺はそれなりに女性とは仲良くしてはいるけれど」
「なかよく」
「そう、仲良く。けれどもその時はちゃんとその人だけと親密になっているだけだ。同時に他の相手とも、なんて事をしてはいない」

 はあ、とヘンリエッタの答えは冷たい。レオンはそれも平然と受け流す。

「今は誰かと仲良くしているわけではないし、周囲からもなにかと結婚を勧められているそんな中、まさに丁度良く貴女が声を掛けてきたんだよヘンリエッタ嬢。だから受けたのに、貴女はそれを駄目だと言う」
「言いますよね!? それは言いますよ!? 全く以てこれっぽっちも踏まえてらっしゃらないし考えてもいないじゃないですか!」
「考えてる考えてる」
「人間本当のことは一度しか言わない物ですよレオン様」
「俺の立場だとかそういったのを一旦除けておいて話をしようヘンリエッタ嬢。どうして貴女はそんなにも俺を拒否するんだい?」
「ですから……!」

 ああ待って、とそこでレオンはヘンリエッタの口の前に軽く手を翳す。

「今の訊き方だと同じ答えになるね。質問の仕方を変えよう。拒否するのが前提みたいなのに、どうして貴女は俺に告白をしてきたんだ?」

 途端、ヘンリエッタは押し黙った。これまで即返答をしてきた彼女が言い淀む。どうやらそこは突っ込んでほしくはなかったらしい。だからこそ、あえてまくし立てていたところもあるのかもしれない。

「勝負に負けた罰だとしても、少なくとも俺に対しての好意はあったわけだろう? それとも好きでもない相手に告白する、というのが罰そのもの?」
「違います!」
「じゃあ俺を好きだと言うのは本当?」
「そうです!!」

 全力の肯定、はしかし我に返ると羞恥で転がり回りたくなる中身だ。事実、ヘンリエッタは薄闇の中でもはっきりと分かる程に顔を赤く染め、プルプルと身体を震わせている。
 可愛いな、と素直に思った。そしてこれまたレオンもさっと頬を赤く染める。今確実に、落ちた自覚があった。

「……リートフェルト卿」

 呼び方が戻ってしまった。残念であると同時、彼女がいまだ動揺したままの姿に喜びを感じてもしまう。至論で説き伏せる彼女が、自分の前ではこんなにも普通の少女の様に狼狽えている。彼女の心を揺さぶっている、という現状がとてつもなくレオンは嬉しくて堪らない。

「俺のどこがヘンリエッタ嬢の心を射止める事ができたのかな?」

 彼女から何かしら否定的な言葉が出る前にさらに追い詰めたいと、レオンは追撃の手を緩めない。うう、と恨めしげな視線が飛んでくるが、真っ赤な顔と羞恥で潤んだ瞳では迫力どころか逆効果でしかない。分かっていない、無自覚なのは明白だが、だからこそ彼女の危うさが心配になってしまう。自分なんかよりも悪い男なんて星の数ほどいる。よくぞまあこれまで無事でいたものだと、その奇跡に感謝するしかない。

「――顔、です」

 余程悔しいのだろう、ヘンリエッタは苦悶に満ちた声でそう答えた。

「顔」
「はい……リートフェルト卿のお顔が、大変好みなんです……!」

 レオンの容姿に惹かれて寄ってくる女性は多い、というかむしろそれを抜きで寄ってくる事が皆無に等しい。レオンは己の顔の良さを自覚しているし、それを武器にもしているので容姿に寄ってこられる事に基本嫌悪感は持っていない。が、それでも、あまりにも容姿、そしてそこからの家柄ばかりに固執されると一抹の寂しさや苛立ちを感じてしまう事はある。

 しかしどうだろう、ヘンリエッタに顔が好みだと言われた事に関しては喜びしかない。ほわほわとした胸の奥底から湧き上がる感覚。これはそれこそ大昔に抱いた初恋、を彷彿させる。思春期かな、と知らず口元が緩んでしまう。

「貴女に好まれる顔で良かったよ」
「……いいえ! 良くありません!! だめですリートフェルト卿!!」

 心の底からのレオンの言葉であったのだが、それがヘンリエッタの何かしらに火を点けた。

「人を見た目だけで判断して、それで好意を抱くなどいけません! リートフェルト卿はお顔だけで無く、まあ色恋沙汰に関しては尊敬される様なものではありませんが、けれども恋愛の絡まない人付き合いであるとか、仕事に関しては基本誠実で真面目なんですから! そういった点もきちんと理解している相手でなければ!」

 ちょいちょい合間に入る悪口すらも心地よく聞いてしまうのだから、なるほどこれが惚れた弱みと言うやつかとレオンはうんうんと頷く。

「それはつまりは貴女と言うわけだ」 
「耳の穴をかっぽじってよく聞いてくださいます!?」
「これまで数多くの女性に声をかけられて、当然彼女達なりの愛の言葉も聞かせてもらってはいたけれど、俺の顔と家柄以外をそうやって認めてくれたのはヘンリエッタ嬢が初めてだから。つまりは、そういう事」
「ではありません!! 百歩譲ってわたしがリートフェルト卿のそういったことを口にした初めての人間であったとしても、それ以上に決して許してはいけない点があります!」
「そう……? ああ、俺に対して遠慮なく罵ってくるところ?」
「そこについては申し訳なく思いつつ、けれどもそう言われざるをえないこれまでの御自身の所業によるものですから諫言として受け取っていただきたく……って違いますだからそうではなくて」

 若干の突っ込み疲れなのか、ヘンリエッタは数回呼吸を繰り返す。思い返せばたしかにずっと彼女は勢いよく話し続けている。

「今さらだけど場所を変える? どこか部屋を用意してもらおうか?」
「お……お気遣いなく」

 なんだかこのまま話が終われば彼女は逃げ出してしまいそうだ。ふとそんな予感がして誘導してみたが、レオンのその動きをヘンリエッタも察知したのか即座に断りを入れる。

「いいですかリートフェルト卿。わたしは勝負に負けた罰で告白をしてくるような人間なんです。それがいくら好きな方であったとしても、失礼にも程があります。そんな無礼者を受け入れるなど言語道断です」
「俺自身がそれを望んでいるのに?」
「相応しくないと言っているんです」
「だから、俺も自分自身が望んでいると言っているけど?」
「ですから」
「初めの時はまだ貴女の言に一理はあったけど、今は純粋に貴女に興味がある」
「……は?」
「貴女が好きだよヘンリエッタ嬢」
「は!?」

 唐突な愛の言葉にヘンリエッタの顔が驚きに固まる。直後、ギュンと音を立てそうな勢いで眉間に皺が寄るが、その皺の一つ一つも可愛らしいとレオンの目には映るのだから、頭の片隅に花が咲いているなあとレオンは他人事の様に思った。

「あの……いくらノリと勢いとはいえ、流石にそういった言葉を軽々しく口になさるのは人間性が疑われるかと」
「貴女の中での俺の評価がよく分かる言葉だね。そう言われても仕方のない行動をしていたのだから自業自得と反省して、これからはもちろん貴女一人だけに想いを届けるよ」

 まだ言うのかこいつ、とでも言わんばかりのヘンリエッタの表情にレオンは苦笑を浮かべ、改めてもう一度彼女に気持ちを伝える。

「結婚を前提に付き合っていただけませんか、ヘンリエッタ?」

 これにはレオンが本気であるとヘンリエッタも理解したらしい。が、その後彼女の口から出てきたのはおよそ口説き文句に対する返事としては想定外すぎるものだった。

「お……お気をたしかに!!」

 よもやそんな返しが来るなど誰が予想できようか。盛大に吹き出しそうになるのを堪える事ができたのは奇跡でしかない。それでも流石に直視したままではいられず、レオンは顔を背けてブルブルと肩を震わせる。
 ヘンリエッタも己の口から出たあまりにも酷すぎる言葉に今宵一番の動揺をみせるが、それでも最後の気力を振り絞って立ち上がった。

「そういうわけでこの話はこれにて終了です! リートフェルト卿の未来に幸多からんことをお祈りしております!!」

 そうしてクルリと背を向けると、レオンの制止の声よりも早くその場から逃げ去った。それはもう見事な逃げ足っぷりで、貴族のご令嬢でもあれだけの速度で走る事ができるものなのだなあとレオンは妙な感心をしてしまう。

 かくしてレオンの夏の夜の奇妙な出来事はこれで終わり、またいつもの日常が訪れる――とはレオン自身がさせなかった。

 これまで飄々と生きてきたレオンが初めてと言ってもいいほどに興味を持ち、そして惹かれた相手である。このままみすみす逃がしてなるものか。あの場で逃がしたのは必ず捕まえる自信があったからにすぎない。

 さてこれからどうするべきかと、レオンは今後を考えては愉快そうに口元を緩めた。







◆◆◆◆◆






 ヘンリエッタ・キールス子爵令嬢は人生においてこれ程後悔した事はなかった。

 一時の情熱に駆られて、絶対に口にしないはずだった言葉を形にしてしまったのだ。どれだけ後悔したところでもう遅い。うあああああ、と両手で頭を抱えて蹲りたくてたまらないが、ギリギリのところでその欲求に耐える。これから自分の夫となる相手と会うのだ、そんな姿は見せられない。

 ヘンリエッタはキールス家の長女であり、その下に妹が二人、弟が一人いる。領地は貧しいというわけではないが、富んでいるという程でもない。なんとか子爵家の面子を保てるだけの収入はあるが、毎夜夜会に参加してドレスを新調して、などといった贅沢とはほど遠い暮らしぶりだ。
 ヘンリエッタも妹弟達もその生活に特に不満はない。ただただ穏やかに、家族仲良く暮らせていければそれで充分であった、というのに。その生活が激変してしまうような事が起きてしまう。

 元々肺に疾患のあった母の容態が急に悪化した。その為に少しでも空気の綺麗な場所で生活を、と領地に両親が戻った所までは特に問題はない。だがそこを悪徳業者に目を付けられた。やたらと肺病への効果を謳う高額な薬を売りつけられ、それにより少しずつ家計が圧迫されていく。そこにさらに季節外れの嵐のせいで領地の河川が氾濫し、その修復費用や領民への救済などで多額の金銭が必要となった。気が付けばあっと言う間に借金まみれとなり、領地を王家へ返上するかどうかの瀬戸際に立たされた。これがたったの一年での出来事だからもう笑うしかない。

 ここで無理をして、逆に領民を困らせるくらいならさっさと領地と爵位を返上して自分達は平民になって構わないというのがヘンリエッタの正直な気持ちだ。だが問題はこれだけではない。母の治療代がこれでは賄えなくなる。

「あの業者だけは死んでも許さないんだから……!」

 金の工面に奔走している時に知らされたのは、件の業者が詐欺集団にも等しい存在であるという事だった。援助してくれた母の友人の知人の親戚、という遠い相手からの情報ではあったが、その時点で母の容態は一向に回復する兆しは無く、あげく業者そのものが行方知れずになっていたのでまず間違いではないだろう。
 敵を追って潰してやりたい気持ちはあれど、そうするにも金がかかる。しかしキールス家にそんな余裕は無い。もうどうにもならない、八方塞がり、自分は元より妹弟達の結婚費用すら残してやる事ができそうもない状況に、これはいっそ身売りでもするかとヘンリエッタがそう考え始めた頃、まさにそんな話が転がり込んできた。

 テイスデル・ファン・デン・ホーヘンバント伯爵より、ヘンリエッタへと婚約、をすっ飛ばして結婚の申し入れがきたのである。

 ヘンリエッタ側の事情は全て把握しており、金銭面での補助は充分に行うので安心して嫁いできて欲しいという、一見すると救いしかない申し出であるが、当然美味い話には裏があるものだ。
 このテイスデル伯爵、御年五十を超えながら年若い女性が好きだと広言して回る品性を持っている。それだけならまだ目を瞑る事ができなくもない、かもしれないが、そこにさらに「同時に複数の女性を相手にし」あげく「飽きたら部下に下げ渡し」さらには「娼館へ斡旋している時もある」という話まであるものだから下衆の極みだ。

 こんな人物が伯爵でござい、とこれまで断罪される事なくいるのだから貴族社会というものは恐ろしい、とヘンリエッタはその末端にいながら呆れ、そして震えるしかない。しかし、今この瞬間でもヘンリエッタが縋る事のできる相手が彼しかいないという現実。全ては家族のため、領民のため、とヘンリエッタは腹を括るしかなかった。
 普通であればとんだ悲劇のヒロインだ。しかしヘンリエッタはあまり普通では無かった。少なくとも、精神面においては周囲のご令嬢達に比べて鋼でできていた。
 とにもかくにも金が必要なのは変わらないのだ。援助の申し出の話があったと同時にヘンリエッタはそれを公式な文書として用意してもらう話を取り付けた。伯爵が断罪されない唯一の理由が、領地がもたらす莫大な富だ。

「――希少な宝石の取れる鉱山を持つ領地があるって最強よね……」

 もしかしてもしかすれば、結婚したと同時に伯爵が亡くなって遺産を以下略、そこに望みを繋いでさらに略、などという不謹慎にも程がある妄想が駆け巡るくらいには、ヘンリエッタは図太かった。

「貴族同士の結婚だもの、そこに愛が無くてもおかしいわけではないわ。いっそ今もいるであろう他の女性達に夢中でいてくれて、わたしは名ばかりの妻……いっそメイドで構わない……」

 ヘンリエッタが目を付けられたのは「年若い」という一点のみだろうが、それも別に特段若いというわけではない。伯爵の守備範囲が何歳までなのか詳しくは知らないが、流石にデビュタントも済ませていない年は対象外だと思いたい。もし万が一対象内だとしたら、末の妹が狙われる可能性もあるわけで、そしてそうなった時はヘンリエッタは鉈を振り回してでも伯爵を仕留めるつもりだ。
 そんな物騒に物騒を重ねた思考にヘンリエッタが陥っていると、控え目に扉をノックする音が聞こえた。ついに敵と対面だと、およそ夫となる相手に抱く感情ではないものを抱えつつヘンリエッタは「どうぞ」と短く答える。
 そうしてゆっくりと開かれた扉の先にいたのは、とてもじゃないが五十を超える若い女好きの下衆野郎とは思えない程美しい男性だった。というか、先日会ったばかりの相手だ。

「――は!?」

 ガタン、とヘンリエッタは思わず立ち上がる。どうして!? と続く言葉は衝撃のあまり出てこない。わなわなと唇が動くがそれだけで、ただただ相手を見つめる事しかできない。

「やあヘンリエッタ」

 レオン・ファン・リートフェルトが朗らかな笑みと共にそうヘンリエッタに声を掛ける。一つ、二つ、三つ、と数えてそれが十を過ぎた辺りでヘンリエッタは淑女にあるまじき大声をあげた。

「やあ、ではなく!!」
「迎えに来たよ?」
「でもなくて!」
「来ちゃった」
「お帰りください!」

 ええー、とレオンは不服も露わに唇を尖らせる。そんな顔をしても美形は美形のままなのだから羨ましいやら憎たらしいやらだ。

「どうしてリートフェルト卿がここに!?」
「君を迎えに来た、というか、貰いに来たというか」
「……は?」

 ギュイン、とヘンリエッタの眉間に皺が寄る。言葉の奥になにやら不穏な気配を感じてしまい、つい身構えてしまうがその予感は悲しいかな的中してしまう。

「わたしは今日、テイスデル様との結婚についてこちらに来ているのですが……」
「君が身売り同然でホーヘンバント伯に嫁ぐと聞いたから、それを横から掻っ攫いに来たんだよ」

 伯爵を名前で呼ぶヘンリエッタに対し、レオンは家名で呼び返す。ほんのりとした器の小ささを感じつつも、今はそれどころではない。

「はぁ!?」
「君の事情は把握している。そのために彼と結婚をするのなら、彼と同じ条件、いやそれ以上を提示するから俺でもいいだろう?」
「いっ……いいわけ」
「あるよね」
「ないでしょう!!」
「なぜ?」
「なぜ……?」

 前にもあったなこんな会話、と去来するのは先日の夜会での一時だ。またあれを繰り返すのかと思うと一気に疲れがくる。さっさと会話を終わらせて彼をここから追い出さなければならないというのに、そこまで気力が持つか不安で堪らない。

「結婚を前提に付き合って欲しいと切望するくらい好きな相手が、みすみす不幸になるのを見逃せるはずがないだろう? それに君自身を逃がす気もないし」

 頬に熱が集まるのは仕方がない、と思いたい。少なくともレオンに好意を抱いているのは事実であり、そんな相手からこうもはっきりと口説かれてときめきを堪えるのは無理な話だ。しかしそれでも頷くわけにはいかないし、あとさらに不安を煽る様な事を言ってくるのだからヘンリエッタの警戒心は募る一方である。

「本気で仰ってるんですか……?」

 訝しむヘンリエッタの態度は失礼にも程があるはずも、レオンは一向に気にする素振りもなくただ一つ頷く。

「そう」
「返事が軽い……!」

 ついそんな突っ込みが漏れてしまう。レオンはこれにも眉を顰める事なく「ははは」と軽く笑うだけだ。

「俺の言動が信じられないのは自業自得だからね、これから挽回していけるよう頑張るよ」

 そういう事で、とレオンが近付く。ヘンリエッタは反射的に一歩後ずさった。おや、と一瞬目を見張ったレオンであるが、直後にっこりと笑みを浮かべる。
 その笑みが、やたらと恐ろしく感じるのはヘンリエッタの気のせいか。

「あの……リートフェルト卿、ひとまず落ち着きましょう」

 どうどう、と獣を静める様にヘンリエッタは両手を身体の前に翳す。今にも飛びかかってきそうな肉食獣。そう錯覚してしまいそうな空気がレオンから流れてきており、ヘンリエッタはジリジリと後退していく。

「大丈夫、流石に余所様の屋敷だからね、今すぐこの場でどうこうしようという気はないから安心してくれ」
「……どうこう、とは?」
「手っ取り早く既成事実」
「とんだ下衆の発言ですね!?」

 だからしないって、と笑うレオンはヘンリエッタの反応を純粋に楽しんでいるようだ。からかわれた、とヘンリエッタの顔はさらに険しくなる。

「とにかくわたしはテイスデル様と今後の話をしないといけないんです」
「そのホーヘンバント伯とはすでに話を付けている。君との結婚の話は引き下げてくれるそうだ」
「そんな!」
「ヘンリエッタ、君はもしかして本当にホーヘンバント伯の事が好きだったりするのかい?」
「まさか」

 しまった、と思った時には手遅れである。あああああ、とヘンリエッタは膝から崩れた。ポスンと上手い具合にソファに腰が落ちる。それに向き合う様にレオンもソファに腰を下ろした。

「うんうん良かったよ。これで万が一君が本当に彼を心から愛していたとしたら、俺のやった事は許されるものではないからね」

 大仰に頷かれるのが癪に障って仕方がない。ヘンリエッタは口を横一文字に固く結んでジッとテーブルの縁を眺める。せめてレオンと視線を合わせたくはないという意思表示だ。それでも口まで閉ざすわけにもいかないので、ヘンリエッタは顔を逸らしたままレオンに尋ねた。

「……わたしの事情は把握していると仰っていましたよね?」
「ああ、知っている」
「どうやって……」
「うん、まあ、それなりの権力は持っているから」
「職権乱用……!!」

 王家にとっても重鎮の侯爵家の出、そして本人は王太子の側近という立場。たかが子爵家の事情など簡単に調べが付くだろう。

「大丈夫大丈夫、普段からそんな事をしているわけじゃないから乱用ではない」
「いや……いやいやいや」
「それに最初に君について色々と調べたのはアレク様だからね」
「……は……え?」
「ようやく心の底から恋い焦がれる女性ができたと言ったら、翌日には君についての色んな情報が俺の手元に届いたよ」
「アレク様……?」
「その時にホーヘンバント伯と結婚の話が進んでいると分かったんだが、彼については本当にろくでもない噂しか聞かないから……そんな相手とどうして君が、とそこからは俺も一緒に」
「アレク様と言いますと、あのアレク様です、か?」
「ヘンリエッタが言うアレク様がどのアレク様かは分からないが、俺が言うのは王太子のアレクサンデル様の事だな」
「あーッ!!」

 ヘンリエッタは叫んだ。これを叫ばずにいられようか。

「うちの両親と兄も喜んで迎える準備をしているよ」

 王太子に認知され、侯爵家にも話が通じている。己の与り知らぬ所で勝手に話が進んでいる、どころかこれはもうほぼ確定と同じではないか。

「いやでもしかしですね!」
「ホーヘンバント伯についてもその時に徹底的に調べた、というか、軽く叩いただけで埃まみれだったよ彼は。これまで何度も結婚しては離婚を繰り返し、その時の奥方にどういう接し方をしていたか、その後どういう処遇をしていたか……そういったのを全部含めて伯爵と話をして、納得の上で解消してもらった、というわけだ」
「な……なるほど……?」
「残るのは君のご家族と領地についてだが、そこはリートフェルト家が全面的に支援するから何も心配はいらない」

 これまで、公の面はともかく私生活ではのらりくらりと生きていた次男坊が、ようやく真っ当な道を歩もうとしている。その切っ掛けとなった相手は未来の嫁候補、となれば侯爵家は前傾姿勢ですでに援助を始めている。

「特に母が喜んでいたよ。なにしろうちは男しかいないから、娘ができると大はしゃぎだ」
「しかしながら! わたしは所詮しがない子爵家の娘です、あまりにも家格が」
「現当主と次期当主が認めているから余所に文句は言わせないなあ」
「それにほら、わたしはリートフェルト卿の顔に惹かれるだけの俗物ですし!」
「君が惹かれる顔を持った事を神に感謝しろ、と兄に言われたよ。ああ、あと母にも」
「侯爵家の皆様ご乱心にも程がありませんか!? 正気に戻って!!」

 クッ、とレオンが喉を詰まらせる。そのまま肩が小刻みに揺れるのは笑い声を必死に堪えているからだ。

「こ……これだけ必死に口説いて、家族ぐるみで歓迎だと言っているのに……なのにその返しって……!」

 息も絶え絶えの中、レオンは懸命に言葉を紡ぐ。そうして言われて改めて痛感する、ヘンリエッタの返しの酷さたるや。
 それでもレオンがこうして笑い転げているのだから、ヘンリエッタの気持ちなど元から筒抜けなのだろう。いたたまれなさが極まりすぎだ。

「……おそらくリートフェルト卿は、わたしの様な人間が物珍しくてそれで興味を持っているだけだと思います」
「否定はしない」
「潔い」
「でも君を愛おしいと思っているのも事実だよ。一端に独占欲だってある。だからこそ即行でホーヘンバント伯を潰したんだ」
「潰し……え? 潰した?」

 年若い女性と結婚しては離婚をし、その後は娼婦かはたまた奴隷かという扱いで放り出していた伯爵はそれだけでも万死に値する。だが調べを進めていく内に、ヘンリエッタの母親に効きもしない薬を売りつけていた悪徳業者との繋がりが発覚した。ヘンリエッタが彼の元へ嫁ぐ様、端から仕掛けられていたのだ。
 それまでの女性達も、結局はヘンリエッタと同じく狙われて罠に掛けられていただけ。律儀にも顧客情報を伯爵は書面で残していたので、関わった者は王都の憲兵隊により一網打尽にされ、その情報を元に売られた女性達も全員救出され今は療養中である。
 伯爵は連んでいた業者共々すでに捕縛されており、憲兵隊の手により余罪を厳しく追及されている最中。領地は王家に一度戻されてはいるが、今回の手柄の報奨としてリートフェルト侯爵家に渡される。名目上はそうなるが、実際はレオンが取り仕切る事になるので、そこからの財だけでもヘンリエッタの家を支えるのには充分すぎるものだ。

 それら全てを聞き終えた途端、ヘンリエッタは両手で顔を覆ったまま身体を小さく折り曲げた。膝の上に顔をのせ、長く大きな息を吐く。

「ヘンリエッタ」
「……はい」
「俺と結婚をしてくれるなら、伯爵と業者を吊す前に君に一発二発殴る機会を作ってもいい」

 まかり間違えば自分もそうなっていたのか、という恐怖ではなく、一体どうしてくれようかとの怒りを落ち着かせるために俯いていたヘンリエッタは、レオンからの思いもよらぬ提案に勢いよく顔を上げる。

「え!? 本当ですか!?」

 さらには瞳を輝かせてレオンを見つめるものだから、またしてもレオンの肩が震える事となった。

「そんな嬉しそうな笑顔、初めて見たな」

 その血の気の多さも好きだよ、と台詞の酷さに反してレオンがヘンリエッタに向ける眼差しはとても甘い。うわあああ、とヘンリエッタは一度は上げた顔をまた膝の上に埋める。

「あの……」
「うん、なんだろう」
「……そんなにですか……?」
「そうだね――血の気が多くて、突っ込みが鋭くて、家族のために不幸になるのが分かりきっている結婚を受けるほど家族思いの……それならせめて、自分が好きな相手に気持ちだけは伝えたいといういじらしい乙女心を持つ、そんな君が大好きだよ」
「筒抜けぇっ!!」
「それだけ裏表がないって事だな。そこが一番君に惹かれた所かもしれない」

 告白しておきながら頑なに拒絶するヘンリエッタの気持ちが当初レオンは理解できなかった。しかし、彼女の置かれた状況を調べる内にもしやそうなのでは、と希望的観測が浮かび、そして内密に連絡を取り合ったヘンリエッタのすぐ下の妹――『勝負に負けたら好きな相手に告白をする』という賭けをした相手の発言により、それが間違いではなかったと知った。

 賢く強く、そしてこんなにも可愛らしい彼女を、何としても手に入れなければとレオンが躍起になったのは当然の結果である。

 愛おしさを隠そうともしないレオンの眼差しを受けて、ヘンリエッタは歓喜と羞恥で卒倒しそうだ。だが残念かな、鋼の精神では可憐なご令嬢の様に失神などできない。
 最早これ以上は無駄な足掻きである、というのはヘンリエッタも理解している。レオンの気持ちは揺るがないし、ヘンリエッタの気持ちも変わる事はない。ここまで心を向けてくれているのだから、自分も素直になるべきだ。それは分かっている、が、それが素直に出来ないのだから困っている。至論の令嬢だのなんだのと言われているが、ああやって理詰めで追い詰めたのはあの一度きりだし、普段のヘンリエッタはただ人より少しだけ突っ込み気質なだけだ。

「一つ提案なんだが……ヘンリエッタ、今の君は情報量が多すぎて気持ちの整理がつかないだろう?」
「はい……」
「だから、まずは婚約から始めてはどうかと思うんだが?」
「今のは引く流れでは!?」
「いやいやむしろここが一番の攻め所だよ。俺は今すぐにだって結婚して君を妻に迎えたい。やろうと思えば権力に物を言わせる事だってできるけれど、出来る限り権力の乱用は避けたいと思っている」
「すでになさっているのに?」
「あれは権力の正当な行使だな」

 詭弁では? との突っ込みが浮かぶが、レオンの見事なまでの微笑みを前にヘンリエッタは屈した。

「かといって、君程魅力的な女性は他にいないから、ただの友人として傍にいるだけというのは俺が耐えられない」
「リートフェルト卿、正気に戻って!」
「なので、せめて婚約者として君の隣に立つ権利を貰えないだろうか?」

 美形の全力での懇願である。気安い会話の流れに油断していたヘンリエッタは真っ正面からこれを喰らい、悲鳴すら上げる事が出来ずに真っ赤になって固まる。
 こちらも譲歩するから、そちらも譲歩をしてほしいという初手の交渉術。そこにさらに己の武器を理解し、渾身の一撃を放ってくるのだから堪ったものではない。
 退路は全て断たれているし、外堀はすでにガチガチに埋められている。

「婚約期間中に俺の事をもっと知ってくれたらいい。君に顔と同じくらい中身も好きになってもらえる様に努力するから」
「……やはり顔に惹かれて、というのは実はお気に召さないのでは?」
「君が俺の事をいつまでも名前で呼ぼうとしない事以外で気に入らない事は無いな」
「わりと根に持っておられます?」
「ただの嫉妬だよ」

 器が小さい、と思うけれど。そんなくだらない事でも嫉妬するのだというレオンが可愛らしくも見え、ヘンリエッタはここで初めてクスクスと小さな笑い声を上げる。

「わかりました……だなんて、わたしが口にするのもおこがましいですけど、こんなわたしでよろしければ」
「結婚してくれる?」
「まずは婚約からと仰いましたよねレオン様!?」

 流されてはくれないか、とレオンはぼやくが、その耳が薄らと赤く染まっているのはヘンリエッタの目にも明らかだ。
 名前を呼んだだけでその反応はあまりにも卑怯では!? と叫びたいのを必死に堪え、ヘンリエッタは改めて「どうぞよろしくお願いいたします」とレオンに微笑んだ。
 


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