触れる手
「お疲れのようですね」
ふと視線に気づき、目を上げると、エルネストがぼーっとしながらアリッサの方を向いていた。
心ここにあらずと言った感じだ。
「肩でも揉みましょうか?」
「何だって?」
前世ではよく疲れた同僚にやっていた肩もみを提案した。
「あ、すみません、忘れてください」
しかしここは日本ではない。さすがに侯爵に肩もみは失礼だと思った。
「いや、気になる。何をしてくれると言った?」
しかし彼は引き下がらない。
「その…肩もみを」
「肩もみ? それは何だ? 肩とはここのことか?」
初めて聞く言葉だったようだ。右手で自分の左肩を指差す。
「ずっと同じ姿勢だと体が強ばるでしょう? それを少し解して差し上げようかと…でも、侯爵様にすることではありませんし」
「いや、是非やってくれ!」
「そ、それではこちらに来て、ここに座っていただけますか?」
自分が座っているソファを示して立ち上がる。今彼が座っている椅子は背凭れが高く、アリッサが立っても彼の肩の方が、彼女の肘より上に来る。もう少し低い位置に座ってもらわないと力が入らない。
「ここでいいか?」
「はい。そのまま、背中を預けてください」
素直にアリッサの言葉に従い背凭れに体を預ける。
アリッサはその背後に回る。
いつも見下ろしているエルネストのつむじが見える。
(つむじ、左巻きなんだ。てっきり右巻きだと思ってたけど)
右巻きは「自分が」と自己主張する人が多く、対して左巻きは人の意見を聞くタイプだったか。考えてみればつむじの巻き方で性格が決まるなんておかしい話だ。
「では、痛かったら言ってください」
「え? 痛い?」
アリッサが彼の肩に手を置き、ぐっと力を込めるのと、彼女の言葉に驚いて彼が顔をあげたのはほぼ同時だった。
「うわ!」
「え!」
頭が動いてアリッサの胸に彼の後頭部が当たった。
頭が胸に沈む。
「す、すまない。痛いとか言うから…」
「こ、こちらこそ、いきなりすみません」
エルネストが慌てて頭を元の位置に戻し、アリッサも肩から手を離して背筋を伸ばした。
「その…わ、わざとでは…」
「わかっています」
コホンと咳払いして俯くエルネストの耳が赤くなっている。
手の甲にキスしたり積極的なこともするのに、意外に純情なようだ。
「つ、続けてくれ」
「そ、それでは改めて」
指をグッパーしてから、アリッサは彼の肩にもう一度手を置いた。
一瞬、彼がピクリと震えた。
「わ、す、すごく凝り固まってます」
「凝る?」
彼の肩は岩のように硬かった。その肩を指に力を入れてぐっと揉み込む。
「同じ姿勢でずっといると、筋肉が強張ります。お辛くなかったですか?」
「どうだろう。ずっと書類の数字ばかり見ていたので、目は霞んでいたが…」
「失礼します」
そう言って首筋や耳の後ろの少し窪んだ所を押した。
ビクンと、彼が背中を仰け反らせて身を固くしたので、「痛かったですか?」と問いかけた。
「いや、痛いとかではなく…その、急に手が…」
「あ、すみません。くすぐったですか?」
アリッサとしては、彼の肩が少しでも解れればと、治療のような気持ちでいたが、揉まれるのをくすぐったがる人もいる。
「いやなら・・」
「続けてくれ。大丈夫だ」
嫌なら止めてもいいと思い引きかけた手を、エルネストが腕を掴んで引き留めた。
「少し、初めてのことで驚いただけだ。こんな風にしてもらったことがないから」
「私も人にするのは初めてです」
今の人生ではということだが、この世界にも肩こりがあるのだなと思った。
首筋を優しく揉み込み、肩先に向かって強く押す。
「ちょっと前屈みになっていただけますか?」
「こうか?」
それから肩先を掴んで、肩甲骨を動かすように肩を回す。
「ここの部分を柔らかくしておくといいですよ」
「ん、ああ」
気持ちよさそうな声がエルネストから漏れ、はっと気づく。
鍛え抜かれた筋肉にがっしりとした肩、首も太い。治療以外で男性に触れたのは、今の生になって初めてだということに。
(だめよ、動揺しちゃ・・これは治療、治療だから)
必死に自分に言いきかせる。
(よ、良かった。彼が背中を向けていて)
きっと顔が赤くなっていると思う。
エルネストはエルネストで、肩や首筋に触れるアリッサの手の感触に、平常心を保とうと必死だった。
女性に触れ、逆に触れたことは何度もある。
しかし兄たちが亡くなり、家督を継ぐことになってから久しく女性という者に、性的な意味で触れたことはない。
色欲は強い方だとは思っていないが、それでも好ましく思っている女性に触れられているのだ。感じないわけにはいかなかった。