第34話 林檎パイで幸せなひと時を
こんがりと焼けた甘い香りがする。四季折々の花を咲かせる庭園のテラスでシェリルは林檎のパイを切り分けて皿に盛り付けていた。
久しぶりの林檎のパイはとても上手く焼き上がっていた。香りも良くて美味しいはずだとシェリルは機嫌良さそうに皿を並べる。
料理長からは懐かしいなと涙ぐまれて、老執事からはラルフ様のお母上がよく作っていたと懐かしまれる。彼らは側でシェリルが作っている様子を見守ってくれていた。
その視線がなんだむず痒かったけれど、きっと今は亡き王妃のことを思い出しているのだろうなと思って気にしないようにした。
紅茶の用意をして老執事が深く頭をたれて下がっていく。傍にいた召使いたちもそれに続くようにそそくさといなくなった、それは二人の邪魔をしないようにするために。
「シェリル」
「丁度、準備ができたわ」
黒い正装も馴染んできたラルフが息をついて椅子に腰を下ろした。昼下がり、お茶の時間に丁度いい頃だった。
ラルフは少しばかり疲れた表情を見せていたけれど、林檎のパイを口に頬張るとそれも変わる。あどけなく綻ばせるいつもの顔にシェリルは小さく笑う、いつ見ても好きな彼のところだと。
「うまい」
「よかった」
にこりと笑めばラルフは優しげに目を細めた。
「どうだ、暮らしは」
「だいぶ慣れましたよ」
王宮に来てからと言うのも慣れない生活が続いていた。王族に嫁ぐのだから勝手が違うのは当然だ。知らないことも多くて覚えることがたくさんあったけれどそれでも少しずつ慣らして、今はだいぶ落ち着いている。
やっと林檎のパイを作れるぐらいには慣れることができた。シェリルがお菓子を作ることは誰も咎めることはなかった。先駆者であるラルフの母がいたから、今もこうして二人で食べることができた。
「お母様には感謝しないといけませんわね」
「そうだな」
「林檎のパイに救われた気がしますもの」
林檎のパイを食べるひと時が続いたのはラルフの思い出の味だったからだ。それがなければ、あのなんでもない幸せな時間というのは感じられなかった。この時間がきっかけで距離が縮まったような、そんな気がしたのだ。
「そうかもしれないな。獣耳を触るお前の表情は好きだった」
あのキラキラと目を輝かせて楽しそうに、ちょっとだらしない表情が可愛らしくて好きだった。そうラルフが言えば、シェリルは少し恥ずかしげにする。
「あれはですね、仕方ないのですよ。ラルフの獣耳がふわふわもこもこなのが悪いのです」
「俺はよかったと思っている。シェリルに気に入られたのだからな」
ラルフは嬉しそうに目を細めて獣耳をぴくりと動かす。確かに気に入ってはいるのだが負けた気がしなくもなかった。
むーっとしながらパイを口に頬張るとラルフが「触るか?」と頭を傾けてきた。その誘惑には敵わないのでシェリルは獣耳に触れる。
「お前は本当に好きだな」
「ふわもこには敵わないのですよ」
「そうか」
「うぅ、ふわふわもこもこー。悔しいけど最高です」
これには敵わないとシェリルは負けを認める。勝負をしていたつもりはなかったのだがとラルフは笑う。
ふにふにと触りながらシェリルが「どうでしたか」と問う。ラルフだって王子としての職務に戻ったばかりなのだから大変な日々を過ごしているだろうというシェリルの心配に彼は「問題ない」と答えた。
「父も兄もいる。俺一人ではないからな」
「お二人とも頼もしいですものね」
シェリルはラルフの兄と顔を合わせた時、弟が世話になったと何度もお礼を言われた。いつまでも戻ってきてくれなくて心配していたのだと。兄弟想いのようでラルフが他国へ交渉に行ったと聞いた時、自身もついていけばよかったと思ったのだという。
「兄上は心配性なだけだ」
「それでも仲が良いようでよかったですわ」
兄弟仲が悪いと何かと問題が起きると聞く。喧嘩ならばいいが争いとなるとそれは周囲を巻き込むことになるのだ。そうならないほどに良い関係ならば大丈夫だろうとシェリルは思ったのだ。
「そういえばオーランド様が」
家族の話をしてシェリルは思い出した。
「父がどうした」
何かあったかと心配げに聞くラルフに「いえ、大したことではないの」とシェリルは答える。
「林檎のパイを食べてみたいと言われたので、じぃやさんに渡しておいたわ」
どうやら、ラルフと二人で林檎のパイを食べるという話を耳にしたらしい。それがシェリルの作ったもので懐かしい味がすると聞いては気にならないわけがなかった。
シェリルは食べさせる分にはなんの問題もないけれど、口に合うかは不安であった。そう話すとラルフは「父も好きになる」と断言する。
「シェリルの作った林檎のパイは美味しいからな」
「そうかしら? そういえば、ティルス様も今度食べさせてくれって言われたのよ」
「兄上がか?」
ティルスとは第一王子であり、ラルフの兄だ。公務などで忙しくあまり会うことはできないのだが、この前たまたま見かけたのだ。
邪魔にならないようにと声をかけずにいたのだが、相手の方から話しかけてきた。そこで林檎のパイの話になって、ラルフが気に入っっているというその味を食べてみたいと頼まれた。話を聞いたラルフがなんとも言えない表情をしていた。
「駄目だったのかしら?」
約束してしまったのだけれどとシェリルが不安げに問えば、それは別に構わないとラルフは答える。問題があるとするならば兄の方にあるのだと言われた。
「兄は涙もろい」
「はぁ」
「多分、泣く」
「え?」
「それほど似ているからな」
面倒になりそうだなとラルフはパイを食べる。それはそれでどうなのだろうか。そんなに似ているものだろうかと思うのだけどと不思議そうに小首を傾げた。
「普通じゃないかしら?」
「シェリルの作った林檎のパイは美味しいぞ」
何を言っているのだとラルフが言うものだから思わずシェリルは笑ってしまった。凄い自信満々に言ったのだ、彼は。
褒められて悪い気はしないのでシェリルは機嫌よくまたラルフの獣耳を触る。
「飽きないな、お前も」
「いいじゃないですか。久々なんですから」
シェリルは「でも、今日は此処までにしておきますね」と手を離した。まだラルフは林檎のパイを食べきっていないのでその邪魔はしたくなかった。
気にしなくていいのにといったふうラルフは頭を上げてシェリルを見る。上機嫌そうな彼女に思わず笑みが溢れた。
「シェリル」
「はい」
「大丈夫か?」
シェリルは視線を上げてラルフを見た。彼は少し不安げで、きっと此処での生活を心配しているのだ。それを理解してはふふと小さく笑んだ。
「大丈夫。まだ不慣れなこともありますけれど、私は今、とっても幸せです」
幸せだった。ラルフと共にいられて、なんの憂いもなく話ができて、こうしてまた林檎のパイが食べられることが。不慣れで大変なこともあるけれど、それでも自身は今、幸せだと言える。
不安や心配事がないわけではない、怖いと思うことはある。けれど、自身は一人ではない、ラルフが一緒にいるのだ。
「だから、私は大丈夫なの。だって、ずっと傍にいてくれるのでしょう?」
シェリルの問いにラルフは目を細めて、あぁと頷いた。
「俺はシェリルの傍にいる」
どんな時でもずっと。ラルフの誓うように紡がれる言葉にシェリルは微笑んだ。
「私もいるわ」
それに答えるように伝える、この想いと共に。二人は見つめ合うとくすりと笑った。
あぁ、なんて良い日なのだろうか。こんなにも和やかなひと時を味わえるだなんて、なんて幸せなのだろうかとシェリルは大切に心に仕舞う。
林檎のパイがさくりと切り分けられる。なんでもないように語らいあいながら二人はそのひと時を過ごした。
END